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まあ仕方ない行ってこい、とファシオに言われ、なんとなくついてきてくれるつもりでいた芹那は目をむいた。
「えっ、一人で?」
「そりゃそうだろ、お前が呼ばれたんだから」
「そうだけど」
敵地に一人で乗り込む不安を、ファシオは理解できないらしい。
さすが、隣国にさらわれた芹那を、単身取り返しに来ようとしただけある。
「分かった」
揉めて夫人を待たせるのも本意ではない。
芹那は、諦めて、侍女を連れて夫人の部屋を訪ねることにした。
「どうぞ」
ノックに返って来た返事はひとつだったが、入ってみれば、中にいたのは侍女を除けば二人。
「遅いんじゃなくって? お前、夫人をお待たせしても平気なの? 面の皮が厚いのかしら」
ユリアンナだ。
芹那はあっという間に臨戦態勢に入った。
どうも最近、キレやすい。
自重しないとな、と思いつつも、つい勢いよく近づいてしまう。
彼女がわずかにびくっとしたのに留飲を下げ、
「お呼びと伺いました、メリッサ様」
「ええ。お茶にしましょう。お座りなさい」
「失礼いたします」
出されたのは、少し変わったお茶だった。
紅茶というより、中国茶に近い香り。
「美味しい、どちらのお茶なの?」
ついいつも通り、メイドに尋ねてしまう。
「奥様がお持ち帰り下さったものです。少し低い温度で淹れております」
「ああ、なるほど。半発酵なのですね?」
そんな文化があったのか。
芹那は嬉しくなって、夫人にそう話しかけた。
「ええ。独特な香りがしますが、口に合うようですね」
「お聞きかもしれませんが、私は空種です。
向こうでは、全く発酵させないお茶を好んで飲んでおりましたから」
「聞いています。魂のみ呼ばれたと」
ここで話すことでもない。
短く頷くにとどめたが、横からユリアンナが口を出してきた。
「ねえ、お前、死んでいるのですって?」
お茶を口に含んでいた芹那は、黙って聞いている。
「寿命を前に死んでしまうなんて、どんな悪事を働いたの?
そもそも、お前、年増なんですって?
年を取ってなお男を漁りにこちらへ来たの?
あーあ、ファシオ様もお可哀想だわ、女神の威光をちらつかせて婚約だなんて!」
芹那は、つ、と立ち上がった。
ユリアンナが、びっくりした顔をする。
「ユリアンナ様」
「な、な、なによ!」
「私を『お前』と呼ぶのをおやめください。
ミュリエルという名は、陛下より賜った恩賞で、芹那と改名されました。
以後はそのようにお呼びくださるか、あるいは……名を呼ぶ必要もないよう、関わり合いにならないか。
どちらかにしてくださいませ」
そう言い残し、一歩下がる。
メリッサ夫人は、ユリアンナを咎めるつもりはないようだ。
芹那は、夫人に向かって、辞去の礼をした。
「待ちなさいよ! 何勝手に帰ろうとしているの!?」
ほわり、と、芹那の扇の先が光る。
途端に、ユリアンナがびくりとした。
「お茶を呼ばれたと思っていたので。
けれど、こんな無礼を受けるのならば、話が違います」
「ふざけないで、主催の叔母様が退室を許してないわ!」
当の夫人は、カップを手にしたまま、黙って芹那を見ている。
なんの感情もこもらない顔だ。
「ユリアンナ様。覚えておくとよろしいです。
私は、私が傷つくことを甘んじて受け入れるつもりはありません。
マナー違反だろうとなんだろうと、私は、私自身の心を守る必要があります。
他に誰もそうしてくれないならば、それが私の義務でしょう」
ユリアンナは、ぽかんとしている。
言っている意味が分からないようだ。
「そこまで」
声を上げたのは、夫人だ。
「セリナさん、退室して構わないわ。もうこのような席に呼ぶことはないでしょう」
冷静に言われた言葉に、復活したユリアンナがニヤニヤし始める。
芹那は、上等じゃん、という気持ちを押し殺し、その場を辞した。
夕食の席は、一見和やかだった。
会話の中心は、ユリアンナ。
話題は、ほとんどが家族同士の交流についての思い出。
あるいは親戚の噂話。
つまり、芹那は完全に話題から締め出され、黙ったまま食事を終えた。
直接的な攻撃がないなら、まあいっか。
なんとなく、少しだけ、食事を味わう余裕がなく、それだけが残念だ。
「工房に連絡しておいた。明日こそ行くぞ」
今日行きそびれたインクの開発経過を見に行くのだ。
ファシオの言葉にうなずくと、すかさず、ユリアンナが食いつく。
「まあ、どちらへ?」
「仕事だ」
「お二人で? そんなまさか。嘘などつかず、ぜひユリアンナも連れて行ってくださいませ!」
「仕事だよ」
全く信じていない彼女は、ほほほ、と笑う。
「買い物ですの? それとも、観劇?
そうだわ、面白い舞台がかかっているようですのよ。
なんでも、界渡り様が口伝えしてくださった物語だとか。
なんといったかしら……そうそう、人魚姫。
どのようなお話かしら、気になりますわぁ」
世界が違う者同士はしょせん結ばれることはない、という趣旨の悲劇だ。
こいつ。
伯爵の前だからか、直接的な攻撃はして来ないが、匂わせでくるとはやるじゃない。
「ねえ、ファシオ、絶対に連れて行ってくださいね!」
かわいくおねだりするユリアンナを、伯爵夫妻は止める様子もない。
伯爵だけは苦々しい顔をしているが、やはり口を出す様子はなかった。
なんだかおかしいわね、と、芹那は首を傾げつつ、
「そうね、連れて行ってさしあげるといいわ。
申し訳ないけれど、製造法は秘匿中の秘匿だし、ご一緒は出来かねます」
「しかし、俺も……」
「いいのよ。せっかくいらしたお客様ですもの、おもてなししないと。
私の方は、いつでも報告できるのだし」
しょせんあんたは部外者、と、こっちも匂わせで返してやると、彼女は拳を握りしめ震えている。
さすがに罵声はとんでこない。
ぎりぎりの理性はあるようで残念だ。
いずれにしろ、伯爵が実兄に負い目がある、というのは本当らしいな、と感じた。
誰もユリアンナに注意をしないし、咎めることもない。
これほど自由にさせているのは、当たり前だが彼女が兄の娘だからだろう。
元々穏やかな方だとは言え、この対応は特別だ。
ファシオが彼女と結婚することになる、とは考えていない。
なにせ、芹那を隣国から取り戻すために家を出てもいい、と言い放ち、実際に行動した人だ。
親に命じられても、ならば、と縁を切りそう。
ただ、彼女が滞在中は、ずっとこんな思いをしなければならないことが苦しい。
悪口を言われ、謂れのない中傷をされ、敬意のない扱いをされる。
まるで、前世のように。
「お先に失礼致しますね」
分からない話題に疲れ、芹那は早めに晩餐室を辞した。
そんな状態が、数日続いた。
ストレスも溜まるし、ファシオはユリアンナにかかりきりで、仕事も進まないし、腹立たしいことこの上ない。
そしてちょうど一週間目。
「お父様!」
「やあ、可愛いアンナ、お父様だよ」
ジェルマン子爵が、やって来た。
「兄上」
「やあ、ジャック、弟よ。久しぶりだね、元気だったかい」
「ええ、兄上もお元気そうだ。荷解きをされたら、お茶はいかがです?」
「いただくよ。荷解きは使用人に任せよう。
なに、階段が億劫でね」
「部屋を一階に替えましょうか?」
「いやいや、窓からの眺めを楽しみに来たんだ、いつもの部屋で構わないよ」
二人は並んで歩きだし、
「みんなもおいで、お茶にしよう」
伯爵が言い、全員が応接室に移動することになった。
相変わらず、話題は、それぞれの近況だ。
出てくる人々は、芹那の知らない親戚で、仕方なく曖昧に微笑みながら話を聞いた。
そうしてしばらく経って、ジェルマン子爵はこう言い出した。
「そうそう、ユリアンナとファシオ君の結婚式は、来年でいいかな?」