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神崎正義にとって、失踪を隠蔽するのは容易ではない。
立場上、居所は常に組織に報告する必要があるからだ。
そのため、異世界から戻ると決まり、まっさきに考えたのは、不在だった時間をどう誤魔化すか、だった。
だが、なにやら小汚いかばんをかぶせられ、ふと気づけば、自分の机に座っていたのだ。
「課長?」
目の前には、部下の刑事が立っている。
手には、近くの弁当屋のメニューを持っていた。
「ああ……俺は幕の内で」
「ういっす」
警視庁刑事部捜査第二課長。
神崎の肩書だ。
スマホを取り出して確認すると、正に、神崎が異世界に飛ばされたその日だ。
ここは、職場だった。
「時間経過はなし、か……」
ふと、夢だったのでは、と思う。
長い長い夢だ。
十年ばかりの年月を、夢で見たのでは?
「いや……」
右目を押さえる。
そこには、居心地の悪い違和感があった。
「解析」
小さく呟くと、目の前のボールペンに重なり、ある映像が見える。
さっきの部下が、ひょいとそのペンをとりあげ、弁当屋の注文書に書き込みをする姿だ。
魔法。
以前の神崎ならば、絶対に信じなかった現象を、すんなりと受け入れる。
それこそが、異世界に行っていた証拠ともいえた。
弁当を食べ終えた神崎は、目の前のPCで、ある名前を検索した。
鳴海芹那、という文字は、彼女が感慨深げに書き、神崎があの世界で最後に記憶したものだ。
「失踪?」
出てきたのは、死亡ではなく、失踪の文字だ。
次に、同じ名前を警視庁のデータベースにかける。
やはり、失踪の届けが出されていた。
届出人は、彼女の夫である、鳴海孝文だ。
「ちょっと出かけてくる」
届いた弁当を食べ終えた後、神崎は立ち上がってそう言った。
幸い、今は捜査中の事案はない。
「ういっす」
「返事は、はい、だ」
「はいっす」
悪気のない部下にため息をついてから、届けが出された所轄署へと向かった。
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ファシオが、母上、と呼ぶのを聞いた時、芹那が思ったのは、お母さん生きてたんだ!だった。
この家でまるで触れられない存在だったため、亡くなったものだと思っていた。
聞いておかなかった自分のミスではあるが、プロポーズされるまで知らなかったのはかなり、よろしくない。
今まで挨拶のひとつもしたことがないのに、家に住み込み、挙句姻族になろうとしている。
印象は良くないだろう。
芹那がそこまで考えるのは、彼女の醸し出す雰囲気にあった。
それを一言で表す言葉を知っている。
「ロッテンマイヤーさん……」
うっかり呟いてしまったが、幸い、誰にも聞こえなかったらしい。
姿を隠さなくなったサクラだけが、きょとんとしている。
「母上、お戻りだったのですね」
おや、と思ったのは、ファシオが存外に嬉しそうだったからだ。
厳しい母親と息子、という関係にあまり良い想像は働かないが、どうもそういうことではないらしい。
これは、と期待を持った芹那だったが、
「前髪」
返って来た言葉の冷ややかさに、やっぱり怖い!と感情が揺れ動く。
ファシオは、気軽に自分の乱れた前髪を撫でつけ、貴族らしい姿を取り戻す。
さっきまで山にいたのだ、自分も、相当に令嬢らしくないだろう。
びくびくしながら、ファシオの隣に並ぶ。
「母上。これが芹那です」
そんな短い紹介があるかい!
内心で盛大に文句をつけながら、教えられたとおりにカーテシーをする。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。
ミュリエル・リャナザンド……」
言いかけてから、あ、とファシオを見る。
に、と笑われ、芹那も微笑み返す。
改めてヴァンドール夫人に向き合い、
「芹那・リャナザンドです。
ヴァンドール伯爵様には、多大なるご支援をいただいておりますこと、心より感謝申し上げます」
そう言いなおした。
夫人はひとつ、肯いた。
「メリッサ・ヴァンドールです。あなたの話は聞いています」
何をどう聞いたの?
芹那は、伝えたのが伯爵だったらいいな、と思う。
ファシオの説明では、多分、色々と配慮とかそういうアレがアレだろうから。
「モリーの方はもういいんですか?
ああ、モリーというのは、俺の従妹だ。
産後の肥立ちが悪く、家を切り回すのが難しいということで、母が手伝いに行っていたんだ」
「そうだったの」
夫人に、芹那にと忙しく顔を向けながら、ファシオが説明してくれた。
「十分に回復しました。ただ、本当はあとひと月ほどいるつもりではあったのですが」
「ほう、なぜ早めたのですか?」
「ユリアンナから手紙が何度も届いたのです」
誰だろう。
いや、何かどこか、聞いたことのあるような……。
「ああ……うちにも一度来ましたよ。追い返しましたが。
あいつがなんと?」
思い出した。
この家に来たばかりの時、玄関ホールで鉢合わせした従妹とやらだ。
ファシオの婚約者だと言い募り、結果、あっさり撃退されていたあの、フリフリのドレスのお嬢さん。
「ファシオにふさわしくない婚約者がまとわりついている、と。
ついては、ユリアンナとの婚約を早急に結ぶべき、だそうです」
芹那は笑い出しそうになったが、ファシオからはすんとも音が聞こえない。
覗き込むと、妙に無表情だ。
「ふうん……本気で俺を怒らせたいようですね、あの馬鹿娘は。
子爵はなんと?」
「乗り気だそうよ」
「ユリアンナの言うなりですからね。親馬鹿というか、馬鹿親というか」
それで、と、ファシオは母に正対する。
「母上はどのようなお立場で戻って来られたのです?
お返事如何では、俺も考えがあります。
言っておきますが、俺たちはすでに正式に婚約を結んでいますからね」
子爵ごときの口出しは許さない、とでも言いそうなファシオの攻撃的な様子に、夫人は動じない。
一切表情を変えず、
「私の評価は、今後、私自身が決めます。
そのように過剰に反応し威嚇するのは、いかがなものかと思いますね」
そう言うと、実に美しい所作で立ち上がり、扇をぱっと払うと、そのまま侍女を従え去って行った。
「面倒なことになった」
「気に入らないみたいね、私のこと」
「いや、そういう訳ではないだろう。
母上の言う通り、評価はこれからだ。
だが、父上は母上にめっぽう弱いからな……結果次第では、父上の意見がころっと変わってもおかしくない。
いやいやさすがに、命の恩人に滅多なことはしないだろうが、しかし……」
渋い顔をするファシオに、芹那が最初に感じたのは、ああやだな、という感情だった。
人に評価されることは好きじゃない。
いや、はっきりと苦手だ。
あれこれ中途半端な自分にとって、これといった誇れるものはない。
要は、自信がないから、苦手。
『芹那さん……お米は水に浸してから炊くのよ、こんなことも知らないなんて……やっぱり孝文には釣り合わないんじゃないかしら?』
ふっと義母の言葉がよぎり、芹那はぶんぶんと頭を振った。
今時の炊飯器は浸水時間込みなんですよお義母さん。
とは言えなかった。
「あれ?」
想像してみる。
今の自分なら。
今なら──言える。
不思議だな、と思う。
ずっと怖かった義母も、夫も、今はちっとも怖くない。
「芹那、インクの試作品ができたようだ、すぐ見に行くか?」
「もちろん」
肯いてすぐにエスコートしてくれるファシオに、その理由を見る。
この人が手を引いてくれるから?
違う。
隣を歩いてくれるからだ。
「ファシオさまぁ! 婚約者のユリアンナが参りましたわ!」
玄関ホールに風が吹き抜ける。
芹那の爽やかな気持ちを吹き飛ばす、従妹殿の登場だった。