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元の世界に帰るのは、タカイチにとって残酷なことだろう。
マウントのとれる世界でもなく、上に立てる身分もなく、何者でもない日常に戻ってしまったのだから。
おまけに、事業に失敗し、夜逃げした後だったらしい。
これからどう生きていくのか。
それは彼にしか決められない。
芹那はそれから、侯爵の近くにいた、明らかに空種と思われる人々に声をかけた。
「拳銃を作成させたのは、どなた?」
手を挙げたのは、顔の浅黒い賢そうな男だった。
芹那は頷き、
「ごめんなさい、あなたも元の世界に帰ってもらいます。
他に、危険思想がある者も、女神の裁定を経て同じように。
それ以外のかたは、選択肢を与えましょう。
元の世界に帰るもよし、こちらで技術革新に邁進していただくもよし」
そう言いながら、覚悟を決めたような浅黒い男に近づき、かばんをかぶせた。
「すまなかった」
最後にそう言ったので、きっと、彼もタカイチの口車に乗せられた方だったのだろう。
それでも、銃器を含む武器の知識は、危険すぎる。
こうする以外にはなかった。
「私……私、帰りたい」
一人の女性が言った。
彼女は、どうやら日本人らしい。
「私なんて、ただの看護師だわ。
聖女かなんか知らないけど、あなたがいれば、私なんて要らないでしょう、ね?」
医療の知識があることがどれだけ貴重か、知らないわけでもあるまいに、彼女は必死だった。
「お願いよ、夫も子供もいるの、私、私……あの子、まだ、三歳なの」
芹那は、心がずきりと痛む。
女神がなぜ、芹那の前では同郷の神を名乗ったのか、今なら分かる。
知らない世界の知らない神に呼ばれ、無理やりに家族と引き離されれば、人はどこかに不満を覚える。
女神を責める。
中には、この世界を憎む者もあるだろう。
けれど、タカイチをこらしめる人間は、そうであってはならない。
途中で道をそれることも、諦めることも、あってはならない。
だから、信仰の先にいる神を選んだのだ。
芹那自身は、神様を信じているともいないとも、考えたことはなかった。
けれど、小さなころから、あらゆる場所に神様がいて、神様の罰を恐れ、同時に神様にすがり、身近に感じていたのは確かだ。
だから、自分と同じ世界から来た人間が、愛すべきこの異世界を破壊しようとするのは、許せない。
女神の計画勝ち、といったところだろう。
腹が立つ気もするし、そうするしかなかった気持ちも分かる。
なぜなら、芹那は今、女神の半身で、内面が少しだけれど見えてしまうから。
「分かった、大丈夫、帰してあげる」
芹那がそう言うと、彼女は、言葉を咀嚼するような間を置いてから、涙をあふれさせた。
「ありがとう、ありがとう、この恩は忘れないわ。
私に何かできることはある?」
袖で目を押さえながら、彼女が言う。
それから、自分の言葉にはっとして、
「噂で聞いたわ、あなたも界渡りなのですって?
異世界から来た聖女って、あなたのことよね」
「うん、そう。聖女とか笑っちゃうよね、日本人なのに」
「じゃあ、あなたも帰るの?
なら向こうでお礼できるんだけど」
そう言って、芹那の手を握る。
「ねえそうしましょう、離れてみて分かるわ、あの国の良さ、実感してるはずよ。
ないわけじゃないけど犯罪は少ないし、平和だもの。
文明も文化も、自由さも、桁違いよ。
私、飛行機で旅行するのが好きなの。
ここじゃあ一生かかっても無理だわ」
帰れる嬉しさに、彼女は次第に、声が大きくなる。
それにつられるように、数人の空種が、帰りたいと言い出した。
「もちろん、帰りたい人はみんな帰してあげるよ、安心して。
でも……私は残るかな」
「そうなの? やっぱり……聖女なんて特別だもんね」
芹那は、首を振る。
「あなたたちが元の世界と同じ姿で、私だけがこちらの世界の姿をしてる。
なんでかなってずっと思ってたけど、ようやく思い出したの」
それは、アラノルシアでのことだった。
女神を呼び出し、一瞬同化したようなあの時、芹那は自分の過去を垣間見た。
「私、死んだの」
女は、虚を衝かれたように目を見開く。
それから、気まずそうな顔をする。
「そう言えば、お礼してくれるって言ってたわよね。
私の死がどう扱われてるか、教えて欲しいんだけど」
「ど、どうやって?」
アンリエットは、サクラを送り込んでミュリエルを操った。
あの応用を、ずっと考えていた。
「聖女の魔力をちょっとだけ、あなたの目に込めさせて欲しいの。
しばらくしたら消えてしまう程度なんだけど」
「え」
彼女は目をきょろきょろさせた。
握っていた芹那の手も、そろそろと手放す。
まあそうだろうな。
私生活見られると思うと、嫌だよなあ。
お礼を、と言った手前断りづらそうな彼女に、やっぱりいいわと言おうとした時、中年の男性が一人、進み出てきた。
「私が代わりにその役目を負おう」
「あら……物好きね。あなたは?」
「警視庁の人間だ。私が一番、ふさわしいだろう。
こちらでもうしばらく、犯罪捜査のノウハウをまとめた後、帰国したいと考えている。
その暁には、君の死がどうなったか、必ず確認すると約束しよう」
芹那は、女性が放した手を、そのまま男性に向けた。
握手を交わし、肯き合う。
「さあ。それじゃあ、今すぐ帰りたい方はこちらへ」
芹那は、ツアコンよろしく右手をあげた。
鳴海芹那の人生は、不満だらけだった。
そこそこの顔、そこそこのスタイル、そしてそこそこの両親。
そこそこの人生。
そこそこの大学、そこそこの会社、そこそこの給料。
なんか違う、とずっと思っていた。
こんなはずじゃなかった、やり直したい、20年、いやせめて10年前からならきっと修正できるのに。
「それで? 修正はできたのか?」
木の根元にしゃがみ込んだまま、ファシオが聞く。
幹からは、白い液体が染み出し、ひっかけてある容器に少しずつ溜まっていた。
自分の事業もまだまともに立ち上がっていないのに、何をしているのだろうか、とため息が出る。
目の前にあるのは、ゴムの木だ。
神様のふりをした女神が、あからさまに誘導しようとしていた、暇つぶしを、一切の暇がないこの時期にやろうとしている。
それは、界渡りのほとんどが帰国してしまったせいでもあった。
しばし停滞するだろう発展の、せめてもの一助といったところ。
彼らに帰国の選択肢を与えてしまった芹那の、なけなしの努力だ。
なけなし、というのはもちろん、ラバーの実用まではほとんどを丸投げするつもりだから。
やってられん。
育成地と、加工の知識を提供しただけで許してほしい。
「いいえ。修正はできなかった」
ふうん、とファシオがこちらを向く。
その辺から彼が運んできた、平たい石にちょこんと腰かけながら、芹那は日傘をくるくると回す。
「だって、引き受けた人生が私のものじゃないんだもの。
ミュリエルの時間を引き継いだだけで、結局、私がしたのってその後始末じゃない?」
「そうだなあ」
十分な量が溜まったと見たのか、ファシオは容器に蓋をして、サンプルとして持ち帰るらしい。
どのくらいの規模で自生しているのか、何人かの男たちが周囲に散っているはずだが、まだ戻る気配はない。
やや開けた平地は、少し山際から離れると、ずいぶんと遠くまで見えた。
魔法で飛んできたから分からなかったが、高地らしい。
海は見えないかな。
さすがにそこまでは無理だったが、眼下には牧歌的な風景が広がり、遠くに街の尖塔が覗いている。
ファシオと並んでそれを眺めながら、気持ちの良い日差しと、草の匂いに包まれると、なんとはなしに気持ちが高揚する。
これが幸福感かな、と思う。
「今回、王位簒奪を防いだ褒賞が、我が家に与えられることになった」
「へー、やったね。お義父さんだって、大怪我して大変だったもん、もらえるものはもらっちゃおうよ」
「お前も含まれていたが、すまない、父と兄と俺で、内容を決めてしまった」
「別にいいよ、欲しいものないし」
で、何もらったの。
興味津々でファシオの顔を覗き込むと、彼はとても楽しそうな顔をしている。
「お前の改名許可をもらった」
すぐには意味が分からず、クエスチョンマークが乱れ飛ぶ。
「ど、どういうこと?」
「基本的に、改名という制度は我が国にはない。
戸籍制度があるため、管理が煩雑になること、それから後に相続の問題が出てきたときに出自をはっきりさせるためだ」
「ふ、ふうん?」
「ゆえに、かなりの功績をもって、ようやく引き換えになるわけだ」
「ふうん……?」
ファシオは、ごそごそとポケットにサンプル容器を押し込み、代わりに、小さな何かを取り出した。
そして、なぜか、芹那の足元に跪く。
「芹那」
彼の声が、そう、呼んだ。
心臓が大きくひとつ。
ただの名前だ。
けれど、それは確かに、自分の名前。
ミュリエルと呼ばれ続け、彼女の人生を背負い、復讐を果たした。
今や目的を見失った自分の中に、ぎゅっと中身が戻って来た感覚がある。
不意打ちで呼ばれた名前には、それだけの力があった。
人生の修正は出来なかった。
けれど、芹那はここから、また、自分の人生をやっていく。
「結婚しよう」
小さな箱の中身は、指輪だった。
「か……神崎さんね!?」
この世界に、指輪を携えたプロポーズも、左手の薬指の習慣もありはしない。
なぜかサイズぴったりのそれを、ちゃんとその指に押し込むのは、空種に聞いた以外ありえないし、こんなべたなやり口は、ダンディなおじさまである神崎氏しか考えられない。
警視庁に勤めているというお堅い彼も、こんな申し込みをしたのだろうか?
「聞いて正解だったな」
楽しそうに笑うファシオの言う通り、芹那ははっきりと心が弾んでいる。
嬉しいし、幸せだ。
「結婚式もする?」
「するさ。大変だろうけど」
「そうね。……そうね! こうしちゃいられないわね!」
芹那は、ファシオの手を握った。
きらきら輝く指輪を太陽に透かしながら、にっこりと笑う。
「式は盛大にしなくちゃ!」
好きなこと、やりたいことはなんでもやろう。
そう決めていた芹那は、結婚式も精一杯やり尽くそうと決めた。
そうしてご機嫌で屋敷へと飛んだのだが、そこで思いもしない人物に会うことになった。
「は……母上!」
ファシオの叫び声で初めて知った。
それは、彼らの母であり、芹那の義母になる予定の、いかにも貴族然とした女性の登場だった。
少々スローペース。
ゼルダが悪い。