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ふらりとした芹那を、ファシオが支える。
「大人しくしているとは思わなかったが、一晩は我慢したようだな?」
「うううう、栄養ドリンク!」
芹那は、肩からさげていた神様のかばんに手を突っ込み、出てきたそれをぐいぐい飲み干した。
「お前そのかばん……ひどいぞ」
「分かってるわよ! でもこれ、変えられないんだもん!」
神様、というか、女神の造ったそれは、創造主の製作であるがゆえか、別の形にしようとしても変わらなかった。
仕方なく、そのまま肩から下げてきた。
いかにも庶民用の、ぱかぱかのふたのかばん。
異様な合わなさであることは承知の上だ。
「ぷはっ、生き返った」
ドリンクには魔力回復機能もあったのか、少なくとも倒れそうな状態からは脱した。
同時に、伯爵も、うっすらと目を開けてくれた。
ファシオが、そっと声をかける。
「父上。生き返りましたね」
「……ああ、お前の嫁のおかげでな」
聞き取るのが難しいほど小さい声だが、死の淵をさまよったばかりとは思えない軽口に、誰もがほっとするのが分かる。
アベルは涙を浮かべ、父親を抱き起した。
「流した血は魔力で補強しただけです。
十分な体調が戻るまで、安静にしていなければなりませんよ」
芹那はそう言いながら、騎士から拳銃を受け取り、それを神様のかばんに放り込んだ。
一瞬底に当たり、次の瞬間には重さが消える。
行く先は知らないが、持ち主である女神がなんとかするだろう。
「ラシュレー侯爵と、タカイチ・ソフエを拘束しなさい。
これは、女神さまのご意向と取ってもらって構わないわ」
たった今、奇跡を起こし、光り輝くサクラをまとわりつかせている芹那の言葉に、騎士たちは即座に従った。
「何をする!
何が女神だ、私たちは、この国の名を世界にとどろかせる術を持っているのだぞ!」
侯爵が何かを叫んでいるが、面倒なので無視だ。
そして、体力強化した状態で殴り飛ばしたせいか、タカイチは気絶している。
王座の足元であおむけになっている彼を、騎士が容赦なく平手打ちした。
「う、ううっ、き、貴様、何を」
彼はふらふらと立ち上がり文句を垂れたが、慌てて両手をあちこちに触れ、拳銃が手元にないことに気づいたらしい。
舌打ちをしている。
「どこにやった、俺のピストル」
「消したわ」
「……ふん、まあいい、あんなものはいくらでも造れるからな」
芹那はそれを聞き、心を決めた。
本当は、少し迷っていた。
今から自分がすることは、多分、とても、残酷なことだ。
「あなた、向こうでは何をしていたの?」
「お、俺に興味がわいたか?
俺は企業コンサルタントさ、それも、自営。
つまり、社長てこと!」
殴られた顎を痛そうに撫でさすりつつも、得意げに言う。
「……その割に、この世界に来て、とても嬉しそうね」
ぎくり、と、タカイチが目を泳がせる。
それから、曖昧に笑った。
「まあ、同じ仕事ばっかりするってのは性に合わないからさ。
新しいことに挑戦するのが楽しいっていうか、俺は進化し続ける男だから。
未知の世界こそ、俺にふさわしいっていうか」
「そう。じゃあやっぱり、あなた、王様に向かないわね」
「はぁ?」
苛立ちをあらわにし、タカイチが睨んでくる。
「王様なんて、人のために、日々同じことを繰り返し続ける仕事よ。
何を勘違いしているのか知らないけど、まさか、好きなように遊んで暮らせるなんて思ってないわよね?」
「そ、そんなわけないだろ、っていうか、お前なんなの、さっきから。
俺はお前が会話できるような身分じゃなくなるんだ、気軽に話しかけんな。
後でちゃんと呼び出してやるから、大人しく待ってろよ。
言ったろ、妾にしてやるってさ」
彼は、そう言うと、馴れ馴れし気に芹那の肩を抱いた。
すぐさま剣を抜きそうなファシオを目で押さえ、というか睨んで黙らせ、芹那はタカイチの胸にそっと触れた。
ニヤニヤとし始める彼に向って、
「解析」
と唱える。
その途端、目の前の景色に重ねて、違う景色が現れた。
周囲がどよめく。
どうやら、全員に見えているようだ。
動画のように勝手に再生されるその映像で、タカイチは、くたびれたスーツを着ている。
声は聞こえないが、彼は、いかにもその筋の人間らしき男たちに囲まれ、どつかれていた。
ぺこぺこ頭を下げ、ひとつふたつ殴られた後、逃げるように立ち去る。
その先には、事務所らしき扉があった。
急いで開けて飛び込むと、中はやけにがらんとしている。
床にちらばった書類を踏みつけ、電話の線だけが残る机にどさりと座る。
そこで頭を抱えていたが、しばらくすると、立ち上がった。
事務所に残ったものをかき集め、その辺のバッグに詰め込むと、足早にドアに向かう。
一度だけ振り返り、彼は、そこを出て行った。
「経営破綻したのね」
タカイチはあからさまに動揺し、ぱっと芹那から離れた。
「だったらやっぱり、私が今からするのは、あなたにとってとても残酷だと思う」
「……なんだよ、何がだよ」
「でももう、私は決めたの。
あなたは──この世界に、不要だわ」
「ふ」
タカイチは、声をあげた。
「ふざけるな!」
頭をかきむしる。
「勝手に俺を連れてきて、勝手なこと言いやがって!
ラシュレーのとこに拾われるまで、どれだけ不安で恐怖だったか、知らねえだろ!
でもさ、すぐ分かったよ、このクソみてえに民度の低い、文明も化学も工学もあったもんじゃねえ中世まるだしの世界に俺が呼ばれたのは、ここを変えてやるためだってな!」
タカイチは、両手を振り回しながら、高笑いした。
「口先だけでやってきた人生がどうにも行き詰っちまったから、ちょうど良かったよ。
ろくな知識も思想もないこいつらには、俺が必要なんだ。
俺が王だ、俺が世界を救うんだ!」
芹那は首を振る。
「性急な改革、そのくせ、具体的な案もなく、ラシュレー侯爵の口車に簡単に乗せられて革命の先陣を切らされる。
一体どこに、私たちを見下せるほどの優秀さがあるの?
何度でも言うわ。
あなたはここを壊してしまうだけの、無能なクラッシャーよ」
「おい侯爵、こいつなんとかしろ!」
彼は、議論から逃げ、侯爵に叫んだ。
侯爵はといえば、騎士に後ろ手に縄を打たれ、それどころではない。
「平等を叫びながら、そうやって存分に権力を利用する。
身分制度を批判しながら、王様になりたがる。
矛盾ばっかりのあなたに、一体、誰が従うというのよ」
「おい、侯爵、なんとかしろってこの女、女のくせにべらべら喋りやがって!
ったく、これだからババァは!
せっかく若返ったんだから、せいぜい黙って笑っときゃいいんだよ、女なんて!」
過去も本音も駄々洩れの状態に、場の空気は完全に変わった。
彼が王座に就くなど、もはや考えられないことだ。
それを見て取ったのか、ラシュレー派として演説に拍手をしていた貴族たちが、慌てたように走り出てくる。
「聖女様、私は、ソフエ殿に騙されていたのです!
まさかあなたが、命を救えるほど尊い聖女であらせられたとは……。
こんな、王位簒奪など、私の意思では」
「そうだったの」
芹那が言うと、彼らは、ぱっと顔を輝かせた。
「では、後で女神さまに裁定をお願いしましょう。
あなたの言うことが本当なら、きっとお慈悲があるはずです。
でももし……嘘だったら。
あの方は厳しいお方だわ。
なにせ、つい昨日、国をひとつ滅ぼしかけたのですもの」
彼は、青かった顔を今度は白くし、黙り込む。
その後ろの、賛同者らしき貴族たちも、そろそろと後退し始めた。
「処分を追って待つのね、みんな。
逃げても無駄よ。
女神の目は、世界の隅々を見ていらっしゃるわ」
がっくりと床に額ずく彼らに背を向け、芹那はタカイチに向き直った。
「可哀想だと思うこともある。
女神さまが無理やり、この世界のために連れてきたんだもの。
怒って当然だわ。
でも、だからって、多くの人々を混乱させ破綻させようとするのは、駄目なことなのよ。
本当は分かっているわよね?
だって私たちは皆、正しいことは何か、教育されてきたのですもの。
その教育こそが、あの世界を進化させている。
どこへ行っても、世界が変わっても、意識が変わっても、あなたは……私にとって、悪者なんだわ」
今度こそ、タカイチは黙り込んだ。
好き勝手に振る舞うのが楽しいのは、本当の世界では出来ないからだ。
身分を欲するのも、本当ならないものだからだ。
「さよなら、祖父江高市さん。
ごめんね」
「やめてくれ……やめてくれ、嫌だ、俺は……!」
芹那は、呆然としているタカイチに近づくと──すっぽりと神様のかばんをかぶせた。
「嫌だ、ただの一般人に戻るなんて、嫌だ!
そうだ、お前、妾じゃなく、正妻にしてやるぞ!
そうしよう! な? な?
お前、王様の嫁だぞ、嬉しいだろう、万事解決だ、さあ今すぐ……」
最後までは聞こえなかった。
抗いながらも、みるみる彼はかばんに吸い込まれ、一瞬で、消えてしまった。




