35
ジョスランの向かいに座っていたラシュレー侯爵は、渋い顔をしている。
それはそうだろう。
タカイチを盾に偉そうにしてはいたが、しょせんは侯爵。
隣国とはいえ、王族相手では分が悪い。
「……どうなさいました、こんなところまで」
そう声をかけると、ジョスランは、かつてと同じように冷ややかな目線を寄越した。
ミュリエルならば、そっと目を伏せるところだろう。
しかし、あいにくと芹那は、近しい異性からのハラスメントには慣れている。
こちらも負けぬ無表情で見返すと、彼は苛立ちをあらわにした。
「ミュリエル・バルニエ。
貴様の罪を減じ、追放を取り消してやろう。
喜べ、迎えに来てやったのだ。
この、私が、自らな」
なるほど、合点がいった。
聖女騒ぎから数日、あの祭司長が帰国し、子細を伝えたのだろう。
そして何をどう考えたのか、ミュリエルを自国に取り込もうとしにきた。
「お断りいたします」
反射的にそう言った。
ジョスランの顔は、みるみる怒りをたたえ、
「ふざけたことを抜かすな、この私が来ているのだ、貴様は黙って従えばいい!」
「どのような理屈で?
私は、エルサンヴィリアの子爵令嬢です。
勝手に他国に入ることなどできません」
「そんなものは取り消せばいい」
「ですから、どうやって?」
彼は、とうとう、苛立ちのままテーブルを拳で叩く。
大きな音に、侯爵が飛び上がっている。
「黙れ! 俺は王族だぞ、出来ないことなどない!」
そんな馬鹿な、と笑いそうになったが、どうやら彼は本気らしい。
背後に目をやれば、側近らしい若者が数人。
見覚えがある。
彼らは、学園やパーティーで、ミュリエルをあざ笑い馬鹿にした子息たちだ。
まだつるんでたのか。
芹那は、呆れた。
アンリエットは、聖女の資格を失った。
当然、ジョスランの婚約者という立場も外れただろう。
そもそも、死んでしまったのだから、それも当たり前だが。
なんにせよ、彼は、偽聖女を無理を通して王宮に引き込み、今や真の聖女となったミュリエルを冤罪で追い出した張本人だ。
自国でなんの処分もなかったというのだろうか。
これが、呆れずにいられるか?
「おいおい、なんの騒ぎだよ。
ああ? 誰だ、そいつ」
執事が振り切られたらしい。
開け放ったままのドアから、タカイチが顔を出す。
さすがに、侯爵が焦ったように立ち上がる。
「弁えられよ、こちらは、アラノルシア国の第一王子、ジョスラン様だ」
「はあ? 王子?
……マジ?」
この国で、さんざん王族の保護をかさにきていたせいか、さすがに相手が悪いということは分かったらしい。
渋い顔をしつつも、新入社員のようにひょいと顎を上げた礼をする。
ジョスランはむっとしたようだが、黒髪黒目という特徴から、相手が空種だということに気づいたようだ。
黙ったまま、肯いて見せる。
「で、王子がなんの用ですかね」
「我が婚約者を迎えに来た」
タカイチが大声で笑い出した。
「お前、婚約者何人いるんだよ!」
「私の夫になるのはただ一人、ファシオ・ヴァンドールだけです。
殿下、何を勘違いされているのか知りませんが、私はもう、この国の人間です。
追放を撤回もなにも、そんなものはとうに過ぎた話なのです」
ジョスランは、そう訴える芹那を、なんだか不思議そうな目で見ていた。
それから、フン、と笑う。
「何を言っているのか分からぬ。
とにかく私は、お前を連れて帰る。
そして、父上に認めてもらうのだ。
何が何でも、だ」
やはり、と思う。
どうやら、父、つまり国王陛下に見限られそうになっているらしい。
あるいは、とっくに。
彼は、芹那さえ連れて帰れば、それが撤回されると考えている。
さてどうするべきか。
思い起こされるのは、あの、アンリエットの言葉。
『ざまあみろ、空種は聖女になれない』
そして、司祭長に囁いたサクラの言葉もだ。
『それともまた、浚って無理やり聖女にしてみる?
次は、何が起こるかしらね?』
あれを聞いて、司祭長は、芹那を連れ帰ることを諦めた。
つまり、空種が聖女になれないこと、無理に浚うようなことは本当にご法度なのだ。
だとすれば、例えアラノルシアに連れ戻されたとしても、国王がジョスランをほめたたえるとは思えない。
同時に、芹那はこの屋敷に監禁されている状態だ。
タカイチに無理を通せるのは、今のところ王族のみ。
つまりこれは、ジョスランの権力を利用して、この家から抜け出す最大のチャンスということ。
芹那は覚悟を決めた。
「分かりました」
ぱっ、と、ジョスランの顔が分かりやすく輝いた。
背後の令息たちも、ほっとしている。
「はははは、分かればいいのだ! さあ、では、すぐにでも参ろうぞ!」
侯爵は、タカイチの顔を盗み見ている。
癇癪を起した彼を慰めるのが面倒なのだろう。
だが、当のタカイチは、ニヤついていた。
「なんだか知らねえけど、安心しろ、俺がこっちの王様にかけあってやるからよ。
そんで、帰ってきたら、お前は俺の妾だ。
だって、助けてやった俺のお願いだもんな、断れねえだろ」
下衆、というのがぴったりだ。
芹那は彼を無視し、
「さっさと参りましょう」
そう言って、自ら出口へと向かった。
馬車の中は、最悪だった。
見張りのためと、ジョスランともう一人の側近が必ず同乗した。
元々、なんの荷物も持たず、タカイチに連れてこられた身。
隣国へ向かうにも、当然、荷物はない。
ドレスだけは、タカイチが恩に着せながら数着揃えてクローゼットに入っていたが、侍女を連れていけるわけでもなく、一人で着られないそれらは置いていくしかない。
つまり、再び、着の身着のままで隣国へ向かっている、ということだ。
幸い、国境の町は近い。
そこから馬車で三日もあれば、アラノルシアの王都だ。
かの国は、そもそも国土が狭く、捨てられた森のように自然のエリアが広くを占める。
人の住む町は、各国境に沿うように点在しており、これもまた、他国に攻め入られることはあるまいというおごりの元に建国がなされた結果である。
その根拠は、全て、聖女だ。
神とつながる国。
それだけが、アラノルシアを守っている。
王子も当然それを知っていて、だからこそ、芹那を、いや、ミュリエルという聖女を連れ帰ることで、継承権の復権を狙っている。
残念だが、それが叶うことはないだろうけれど。
「お前、やけに元気だな」
さすがに疲労困憊の男たちに、芹那はにこりと微笑んだ。
「ええ、回復魔法と、洗浄の魔法を自らにかけ続けておりますからね」
「……おい、私にも」
言いかけたジョスランを、扇を広げてけん制する。
口元を隠し、軽蔑を隠さない顔で、芹那は言い放つ。
「自分をさらった相手に便宜を図るほど、人間が出来ておりませんの。
ましてやそれが、一方的に婚約を破棄し、嘲笑し、馬鹿にしては罵り、挙句の果てに森に捨てるような人々であれば」
彼らは目をそらす。
それはきっと、良心からではない。
きっと、こうだ。
『私のせいじゃない』
貴族の息子たち、そして王族の第一子であった、特権階級の男たちは、きっと、反省などしないだろう。
芹那は、気を緩めないことを自分に言い聞かせ、王都までの道のりをゆく。
そしてとうとう、三台連なった馬車は、王宮へと到着した。
どうやら、通達があったらしい。
誰が告げたのか。
どうして情報を先行させようとしたのか。
答えは簡単だ。
おそらくジョスラン自身が、自らの功績を称えよとばかりに、出迎えの準備をさせようとしたのだ。
彼の思惑通り、王宮は大変な騒ぎだった。
主だった重鎮たち、そして、王がその足で入り口に立ち、芹那たちを迎えた。
彼らは、馬車が見えると、一様に跪いた。
王だけが、その真ん中で立ち尽くしている。
ジョスランはそれを目にするやいなや、馬車の中で高笑いを始めた。
やった、やったぞ、と大声で叫ぶのだ。
その声はきっと、王にも届いたのだろう。
一瞬の怒りの表情から、全てを諦めたような顔になる。
最初に馬車を降りたのは、ジョスランだった。
そうして、芹那に手を貸すこともなく、一目散に父親の元へと走り寄る。
そして、
「ご覧ください、父上、聖女を取り戻してまいりました!」
と、まるで子どものように報告するのだった。
他の令息たちも、その背後に駆け付け、うんうんと肯く有様だ。
芹那は、一人で馬車を降りる羽目になるかと思ったが、さすがに王宮の馬車、御者がきちんと踏み台を用意し、手を取ってくれる。
「ありがとう。あなただけは罪に問われないように進言してあげましょう」
そっと囁くと、彼は、深く礼をした。
芹那は、一歩ずつ、王や王子や宰相たちの元へと歩いた。
洗浄をかけていたとはいえ、整えられたレースは皺が寄り、裾は蹴り上げるたびにおかしな方向になびく。
さて。
両脇に立ち並ぶのは、教皇以下、聖堂に勤める司祭たちだ。
こんなみすぼらしい姿で、衆人環視の中を歩かされることに、ほんのりとした恥辱を感じた。
それは、ミュリエルにも芹那にもなかった感情だった。
この世界に来て、貴族としての矜持を学んだからこそ、得られたものだろう。
「サクラ」
「はいはぁい、なのだわ!」
芹那は、サクラの纏う聖心力と、自分の魔力を織り交ぜ、魔法をかける。
一歩歩くたびに、よれよれのドレスは色を変え、素材を変え、形を変えていく。
光をまといながら、芹那は、美しくも品格のある、裳裾の長いドレスを着た姿に変化していった。
そして、王の元にたどり着く直前に、その手に長く優美な杖を顕現させる。
遍照の杖。
聖女だけが持ちうる、世界を遍く照らす聖なる杖だ。
「ははっ、本当に聖女だったのか、貴様。
これはいい、いいぞ、ようやく私にふさわしい女になったのだな、褒めてやろう!」
誰もが息をのみ、そして、何かを言おうとした王は、諦めの表情で口を閉じ、そしてその場に跪いた。
「ち、父上、何もそこまで礼を尽くさずとも、これはしょせん、ミュリエルですよ?
私が一声かければ、こうして尻尾を振って付いてくるような女です。
元からそうだったではありませんか!
私がいれば、この女は、アラノルシアのために命さえ尽くすでしょうとも!」
王は、じっと黙って頭を垂れている。
「……おい、お前、父上に何をさせているのだ、お前こそが跪け!
ほら、早くしろ!」
ジョスランが、ぐっと芹那の腕を掴もうとした。
だが、パン!という激しい音と共に、その手ははじかれ、彼は痛みにうめいてよろめいた。
「ぐああっ! な、なんだ!」
「汚い」
芹那が言う。
ジョスランと、背後の令息たちは、ぽかんとしている。
「なんだって?」
「汚いわ。空気が、淀んでいる」
「……なんの」
話だ、と続ける前に、芹那は、サクラと共に風を起こす。
芹那を中心に、春の風のように柔らかく、聖なる光をはらんだ清浄なる風が、まさに王城全体を包むかのように大規模に展開される。
人々はその奇跡を見た。
彼らでは、その光の一粒すら生み出すことが出来ないというのに、見渡す限りを浄化していく魔力は、その身を優しく撫でていく。
当たり前に生きていた空間が、淀んでいたのだと分かるのは、その淀みが消えた時だけだ。
今、彼らは、自分たちがいかに神から遠いところにあるのかを知った。
「……処罰は、いかようにも」
王が、はっきりと言った。
芹那は微笑む。
「さあ、私は知らない。
だってそうでしょう?
私を冤罪に陥れ、命を奪おうとし、あまつさえその過程すら残酷なものとするために森へ捨てる。
そこで苦労して生き抜いた私を、兄が、聖女が殺しに来る。
挙句の果てに、愛する人との婚姻を目の前にして、こうして力ずくでさらってくる。
あなたの息子は言ったわ。
喜べ、と。
この傲慢で、そして権力に甘んじることしか知らないクソ野郎は、あなたが作り上げた作品よ。
そんな人間が王であるこの国に、一体、どんな償いが出来るというの?」
じっと頭を垂れる大人たちの中で、ジョスランと側近たちは、まだ立ち尽くしている。
むしろ、その顔には、それぞれに怒りすら見える。
「きさ……!」
何かを言おうとしたようだが、その直前、思いもよらない素早さで立ち上がった王が、その頬を張り倒した。
広いだけが取り柄の王宮の入り口に、その音は綺麗に響いた。
「これ以上、この国を救える可能性をつぶすな。
言っても分からないだろう、だから、お前は、今から二度と口を利くな」
「ち、ちちう……」
言いつけを秒で破った王子は、今度こそ、拳で殴られ、床に倒れた。
側近たちは、目を白黒させたり、王の怒りに怯えるばかりで、誰も助けようとはしなかった。
それを見れば、エドガーはまだ、カールという下男がいてどれだけ後年、思い出に慰められることだろうかと考える。
芹那は、その王と息子の横を、ヒールを響かせながらゆっくりと通り過ぎた。
人々が目で追う中、たどり着いたのは、入り口の真上、大きなアーチの真ん中に据え付けてある、女神像だ。
くるりと振り向き、女神の真下で、芹那は笑った。
「ここは公平にいきましょう」
「……と、おっしゃいますと」
慎重に尋ねる王に、芹那は言い放つ。
「決まっているわ。
裁定はいつも、神のもの」
両手を広げる。
それが、アンリエットのお披露目の日の仕草だと知っているのは、芹那以外全員だ。
あの時は何も起こらなかった。
だが、今、芹那の頭上からは光が溢れた。
眩しくて目が開けていられないほどだが、目を閉じることが不敬だと感じるほど、聖なる力に満ちている。
ゆっくりと、光の中に、何かが現れてくる。
それが、女神だと、人々は本能で知っていた。
輪郭は揺らいでいるのに、その大きさと、浮かべている表情だけはつぶさに見えるのだ。
彼女は怒りに満ちていた。
『滅びよ』
たった一言が、まるで圧力を持っているように人々をひれ伏させた。
その中で、王だけがその見事な胆力をもって声を発する。
「お慈悲を。どうか、どうか」
『同じ過ちを繰り返すのがヒトである。
我はその不完全ささえ愛しい。
だが、我の言葉に反するは、我が愛を退けることと知るはずだ。
この子はこの国の聖女ではない。
それが分からぬのであれば、思い知らせるのみ』
冷酷とも思える女神の言葉に、王はさらにしがみつく。
「せめて民だけでも!」
言下に切って捨てようとした女神が、ふと、言葉を止めた。
そして、優しく芹那の頭を撫でる。
『ほだされたか、聖女よ』
「何の話でしょう」
『お前は我の分身。その心は手に取るようだ。
慈悲と悟り……お前の培った天なるものの心根は、姿が変わっても消えぬか』
聖女でござい、とやっていたはずの芹那は、思わず舌打ちをした。
人々はぎょっとするが、睨んで黙らせる。
『罪は罪びとにあり。
王よ。
お前の民を思う心が、聖女のためらいを引きずり出したぞ』
「たった一言でも届くのであれば、なにとぞ、なにとぞ罪なき者をお許しください」
『我が聖女は面白い。やはり、魂がこの世にない理で成る者は、予想がつかぬ……。
いいだろう、裁定を下す。
王よ、お前の言葉も借りよう。
我が聖女が許せぬ相手、バルニエ家一族郎党、第一王子、その後ろの側近ども、この者たちから、言葉を召し上げる』
「は……?」
ふと気づくと、ジョスランと側近たちは、喉を押さえて口を開けている。
どうやら、口が利けなくなったらしい。
先ほどの王の言いつけ通りだ。
そしておそらく、実家では、ミュリエルの家族も同じことになっているのだろう。
『さて、同時に、この者たちは、善き行いしかできなくなる。
善人であらねばならない。
もちろん、人生は長い。
その者たちのことだ、いずれ、権力と貴族の振る舞いの味が忘れられず、似たようなことを繰り返すかもしれない。
もしそうなれば……都度、五感を召し上げる。
一度目は、聴覚。次は、視覚……』
ジョスランたちは、絶望の顔をしている。
それぞれの家を背負うものもあるだろう。
綺麗ごとばかりではいかない世の中、善行以外ができなくなるとすれば、それは貴族として致命的だ。
すなわち、彼らは、家から見限られるだろう。
ジョスランとて例外ではない。
いや、彼の場合、とっくに王太子として立つことはできなくなっていただろうが。
いずれにしろ、腐った心根を持った彼らのこと、善き振る舞いを求められる人生は、たいそうつらいだろう。
口も利けず、他者とも距離ができる。
それでも、癇癪を起こし当たり散らすことも、悪事で発散することもできない。
王と重鎮たちは、もう一度、膝を突き、頭を深く垂れた。
「国を救ってくれて感謝申し上げる。
私の命ある限り、聖女殿の安全は保障する。また、何か窮地に陥られた場合、あるいはそうでなくともお心痛めることがあった場合、当国は恩に報いることをお約束する。
いつでもお声がけいただければ、馳せ参じよう」
『その言葉、ゆめゆめ忘れるな』
女神は、低い声でそう言い残し、派手に光って消えた。
残った芹那は、やれやれとため息をつく。
「それぞれの、社会的な処分はお任せいたします」
「承知致しました、聖女様」
「では、私は帰ります」
ジョスランのすがるような視線、側近たちの涙にくれている姿を、じっと見る。
何かを期待するような彼らに、芹那は言った。
「ねえ、覚えておいて。私は、あなたを愛したことなんか、一度もない。
あなたは、ミュリエル・バルニエの契約相手で、そして今では、何一つ関係のない間柄よ。
いつもミュリエルを虐げたわね?
馬鹿にして、罵って、泣く姿を見ては、喜んでいた。
さぞ楽しかったでしょう、言い返せない相手を、身分をかさにきて虐めるのは。
それで? なんでしたっけ?
身分を気にしない男爵令嬢を愛した、のでしたかしらね?」
怒鳴りかけ、それが出来ないと気づき、さらには怒鳴ってしまってはおしまいだったのだと青くなるジョスラン。
「後ろの坊ちゃんたちも、それは楽しそうにミュリエルを馬鹿にしていたわ。
私はね、絶対にそのことを忘れない。
私がもしもいつか祈ることがあれば、あなたたちには祝福が届かないでしょう。
いいわよね、だって、妾にふさわしいとあざ笑う程度の女ですものね、私は」
驚愕する周囲、青くなる令息たちを無視し、王が声をかけてくる。
「では馬車を……」
しかし、芹那は首を振り、サクラを見上げた。
女神像のあたりで背泳ぎしている姿に声をかける。
「ねえ、あるのよね、瞬間移動」
「もちろんなのだわ!」
光の尾を引いて高速で降りてきたサクラは、芹那の首にしがみつく。
「さあ思い浮かべて、場所でも、人でもいい。
目印でも、物でも、なんでもいい。
行きたい場所を強く願って、そして唱えるの」
芹那は、サクラの導くまま、転移の呪文を唱えた。
青白い強い光が二人を包む。
次の瞬間、そこにはもう、誰もいなかった。
ただ、花弁のように光の残滓が漂うだけ。
********************************
ファシオは、武装していた。
ミュリエルに手出しはならず、という王の書簡を無理矢理に手に入れ、ラシュレー侯爵家へと行ってみれば、彼女はアラノルシアの王子がさらっていったという。
それだけではない。
聖女を奪い返し、彼女を頭上に掲げ、界渡りが王座に就くと言い出した。
すでに、賛同者を募り、王宮へ押しかけようとしているらしい。
それらの情報を得て、ファシオの兄と父は、王宮に詰めている。
本来ならばファシオも行かねばならないところだが、彼はそれを拒否した。
そして、元々家出した身だ、と言い放ち、かつて毎日のように着ていた革鎧一式を着込んだのだ。
兄と父は、ため息をつき、ミュリエルの家族であるリャナザンド家に相談するから待て、と言い残して出て行った。
もちろん待つわけもなく、ファシオは、身体に馴染んだ鎧で二三度と飛び跳ねただけで、厩に向かった。
愛馬で隣国へ行くつもりだった。
だが、その途中、馬たちが妙に騒いでいるのが遠くから分かった。
なんだろう。
妙な気配を感じるが、なんだか分からない。
だが、何かを本能的に感じ取り、ぱっと頭上を見た。
すると、そこに突然、光が現れた。
その光は裂け目のように大きくなりそして──ミュリエルが、落下してきた。
「ファシオ!」
彼女は美しいドレスを着ていて、そして楽しそうに笑っている。
当たり前みたいに両手を伸ばしてくるので、ファシオは、慌ててその身体を受け止めたのだった。




