33
とても古い時代。
その頃、界渡りと呼ばれる異世界人の来訪は、十年に一度の頻度であることだった。
彼らは、言葉も常識も違ったが、この世界に新しいものをもたらすことで、大変に貴重な存在と言われた。
そんななか、とても不思議な法則があった。
なぜか、アラノルシアには界渡りが起こらない。
他国には複数の記録が残っているのに、いくら待っても訪れることはなかったのだ。
やがて長い年月を経て、異世界人のもたらす小さな利益は、他国との大きな差別化になっていく。
すなわち、各方面で伸びてゆく国々から、アラノルシアはひどく遅れてしまっていた。
だが、互いに国として成立する程度には、ぎりぎり差を埋める要因があり、なんとか体面を保ってここまでやって来た。
それが、聖女の存在である。
魔法という点に置いて、異世界にはないその分野では、アラノルシアが頭一つ抜きんでている。
さらに、聖女という神とつながった存在があり、それでようやく、さほどの国力や武力を持たずとも、大きく攻め込まれることはなかったのだ。
それなのに、百数十年前のある年、聖女は他国に現れた。
それも、異世界から来た少女がそれであったのだ。
アラノルシアは焦り、怯え、そして、悪手をとった。
その少女を秘密裏に、つまり無理矢理に拐い、閉じ込め、聖女として王宮に留め置いたのだ。
少女は死んだ。
彼女には、落ちてきた国に婚約者があったのだ。
彼と引き離され、言葉も分からず、何が起こっているかも分からない。
祈りを強制され、軟禁状態に置かれた中で、心が折れるのは早かった。
その夜、神は怒り、世界に向けて一斉に神託を降ろした。
聖女、すなわち神との結び目は、その大地に生まれし者のみである。
境目をゆめゆめ見誤ることのないよう──。
それ以来、百年ばかり、界渡りが起こらなくなった。
その原因が、聖女を拐ってきたことにあることは、アラノルシアのごく限られた人間しか知らない。
だから、かの国は、事情を知らない他国から滅ぼされずにすんだ。
絶対に隠し通さねばならない。
そして同時に、聖女という存在がどれだけ大きなものかを思い知らされ、国を挙げてこれを存続させなければならないという決意にもなった。
そうして、十数年前、ようやく神の怒りが解けたのか、ひさかたぶりの界渡りが起こる。
やはりアラノルシアで界渡りはなかったが、この国には代わりのように、聖女の兆候が瑞雲となって現れた。
神の怒りにふれてはならない。
全世界共通の、守るべき教えだったが、アラノルシアにとっては、もっとずっと重い意味を持つのだった。
芹那は、アンリエットの言葉をうまく呑み込めなかった。
この世界の掟も知らないし、死にかけているのにそんな悪態をつくなんて、という気持ちもあった。
だが、司祭長は違ったようだ。
「空種……? そんな、馬鹿な……」
意味を理解したのか、一瞬呆然とする。
しかし、すぐに、アンリエットの言葉を笑い飛ばした。
「ミュリエル・バルニエは、アラノルシアの貴族子女だ。
生まれた時からの記録がある。
そうだ、馬鹿な妄言だ。ミュリエル様、あなた様は、我が国の娘。
異世界から来たなど、ありえない」
その時だ。
アンリエットが、妙な紙切れを取り出し、口の中で噛みしめた。
そのとたん、きらきらと光が舞う。
現れたのは、サクラだった。
基本いつも見えないはずの彼女が、ちっちゃな子供の姿で浮かんでいる。
「な、この気配は……聖心力?」
「あらら、見えているの? 困ったわ、やってくれたのね、そこのあなた」
やれやれという顔で見つめる先は、アンリエットだ。
「まあ私が教えたのだから、仕方がないのだわ」
「お、教えたって?」
つい、芹那が聞く。
「あのスクロールよ、魔力を込めた陣を写し取っておく羊皮紙ね。
あれに、私を見えるようにする術をこめてあるの」
「なんでそんなもの」
「私が言うことをきかないときに捕まえるためですって!」
それを言われて、はいはいと作ったのか?
芹那には信じられないが、主の言うことは絶対だと言っていたことも思い出す。
「神よ……なんと神々しい」
割り込むように跪いてきたのは、祭司長だ。
「どうぞこの私めにお言葉を! 神のご意思をお伝えくださいませ!
この、ミュリエル嬢こそが、次代の聖女様でございましょうか!」
あ、と思った芹那が止める前に、とても嬉しそうにサクラが叫ぶ。
「ええそうよ、私の主、神の聖なる巫女なのだわ!
でも、そこの人間の言う通り、この子は異世界人。
どの国の聖女にもなれないの、残念なのだわ!」
司祭長の顔は見ものだった。
輝いていた顔が、次第に曇り、最後は絶望を現わしていく。
「そんな……」
がっくりと地面に項垂れ、そんな、そんなと言いながら、泣き始めた。
サクラは、そんな彼の耳元に舞い降り、何かを囁いている。
他の人間には聞こえないが、主である芹那にだけ聞こえた。
「それともまた、拐って無理やり聖女にしてみる?
次は、何が起こるかしらね?」
それを聞いた司祭長は、真っ青になった。
そして、ひれ伏したままずるずると後ろに下がり、最後に芹那をすがるように見てから、
「これにて……御前を失礼させていただきます。
聖女様に、良き未来がありますよう……」
戸惑う騎士たちを促し、さらに平伏する。
騎士も、なんだか分からないままに片膝を突いて頭を下げた。
芹那は、誰だか知らないおじさん達が何をしようと、どうでもよかった。
彼らの言葉を聞き流しながら、ファシオの手を振り払い、アンリエットのそばにしゃがみ込む。
土気色の唇が震え、何かを言いたそうにするが、もう声は出ないらしい。
唾液のついたまま落ちているスクロールを、芹那は魔法で燃やした。
一瞬、熱かったのだろう、顔をしかめたアンリエットは、すぐに芹那を憎らし気に睨んだ。
ミュリエルを操り、嘘をつき、罠に嵌めて処刑させた女。
思い出すのは、夢の中のミュリエルだ。
同化した芹那の胸が壊れそうなほど、絶望していた彼女。
誰にも信じてもらえず、何が起きているか分からないまま断罪された。
森へ追放されたその夜、怖くて怖くて仕方なかった。
なのに、最後の瞬間、彼女は自らの身体を飢えた森の動物たちへ捧げたのだ。
その優しい気持ちを神が受け取り、芹那を入れたのは、彼女にとって良かったのか悪かったのか。
なんにせよ、彼女は死んだ。
ひとりぼっちで、ひたすらに悲しい人生の終わり。
「ねえ、異世界にはね、閻魔様っていうのがいるの」
だくだくと流れる血で、もうろうとしているアンリエットだが、なぜか、芹那の声が聞こえているという確信があった。
「死者がずらりと並んで、順に裁定されるのよ。
生きてきた間にどんないいことをしたか、どんな悪いことをしたか。それを天秤にかけてはかるの。
嘘つきの舌は抜くわ」
死を前にして、そんな子供向けの教訓みたいな宗教観も、アンリエットには身に迫って感じられるらしい。
顔に怯えが浮かぶ。
「あんたの行先は、地獄よ。
ゆでられ、針の山に登らされ、血の池を泳いで、極寒の地に放り出される。
腕を切られ、足を切られ、そのまま生き物についばまれる。
終わったら、またそれをいちから繰り返すの。
いったい、何百年、何千年で、あなたの罪は許されるかしら?」
「……す、けて」
「そうよね、私とサクラがいれば、あなたを助けられる。
でもね、アンリエット。
あなたにその資格があるかしら?」
ゆっくりと、アンリエットの顔が白くなっていく。
目はうつろになりつつ、そこには絶望だけが浮かんでいる。
「さよなら。いつかまた会いましょう。
ミュリエルの仕返しに、あなたを見殺しにした私も、きっと地獄行きだわ」
最後の言葉が聞こえたかどうか。
アンリエットは、ふっと息を吐き、死んでいった。
芹那は立ち上がり、冷ややかに言う。
「そこのおじさま。彼女を引き取って下さる?
処分はお任せするわ」
「は……仰せのままに。
罪状に、ご希望はございますでしょうか……」
ふふ、と芹那は笑う。
「あら、ねえ、今なら信じてくれるの?
ミュリエルが冤罪だったと」
「もちろんでございます、聖女様の御言葉に嘘などあろうはずもなく」
とうとう、大声で笑う。
「馬鹿なおじさまね。大嘘をついた時のアンリエットは、確かに聖女だったわ。
夢を見るのは勝手だけれど、自分の目で見ていない歴史を概念として押し付けるのは、考え物だと思うわよ」
ふと気づいて、近くで震えている侍女に声をかけた。
「あなたも災難ね、巻き込まれて」
「わ、私は、関係ないんです! 私はただ、エドガー様に言われてついてきただけで!」
あっさりと雇い主の名前を言う。
きっと本当に何も知らないまま連れてこられたのだろう。
だが、芹那にしてあげられることは何もない。
「バルニエ家も関わっているみたいね。
兄のエドガーは、先日、同じように私を殺しに来たわ。
返り討ちにしたけれどね。
それも含めて、全部お任せします」
司祭長は、苦し気な顔をして肯いた。
元聖女と、現聖女の兄を敵としていた芹那が、万が一にも自国に来てくれることなどない、そう悟ってしまったからだろうか。
騎士たちが、司祭の指示で、アンリエットの遺体を運んでいく。
「終わった、のかしら?」
呟くと、ファシオが芹那の手を引いた。
「血なまぐさい場面でよく正気を保ったな、お前」
「正気かどうか分かんないわよ、助けようかどうしようか、迷うこともなかったもの」
「こっちじゃそれで普通さ。お前の価値観が、変わっただけだ」
帰ろう、とファシオに言われ、大人しく頷いた。
本当はこれから、ピーラーを作りに行くところだったのだが、さすがに疲れた。
右手をファシオに預け、馬車に乗り込もうとした。
その時、空いた左手を乱暴に掴まれた。
「い、った、何!?」
振り向くと、男がいた。
黒い髪と黒い目、見慣れた顔立ちの男だ。
「そ、ソフエ様?」
それは、界渡り様と呼ばれふんぞり返っていたあの日本人だ。
「はははははっ、お前、本当に異世界人だったんだな!
おもしれぇ、その目、その髪、どうしてそうなった?」
「ソフエ様、手を放していただけます?」
「なあ、元からそうだったのか? 変えたのか?
ちょっと話が見えなかったが、もしかして、身体はこっちの人間のもんなのか?」
「ソフエ様!」
抗議して手を引き抜こうとしたが、彼は、ニヤニヤと笑いながら、さらに強く腕を掴み引っ張った。
転びそうになるのを、ファシオが支える。
「すまないが、妻の手を放してもらえるか?」
「はあ? まだ婚約者だろ?」
「だとしても同じことだ」
「同じじゃねえだろ、この女は、まだだれとでも結婚できるってことだ」
ふと、タカイチの背後に、貴族らしい老人がいるのが見えた。
彼は、にこにこと笑いながら、ファシオに話しかけてきた。
「どうやらソフエ殿は、そちらのご婦人がお気に召した様子。
譲ってもらえますな?」
「なんの冗談だ、ラシュレー侯爵殿」
「おやおや、界渡り様の意向をできるだけ叶えて差し上げるようにという、国の方針をご存じないわけではないでしょう。
我が王が、改めてお触れを出したのも、記憶に新しい。
陛下のお言葉を無視しようと、そういうことですかな?」
「それは」
「やれやれ、王の威厳も求心力も落ちているという噂は、本当でしたかな」
芹那は、むかむかしつつ、そっとファシオの手を自ら外した。
「何がご希望ですの?」
「とりあえず一緒に来いよ」
「どちらへ」
「そのじっさんの家だ。まあまあでかいし、贅沢できるし、別にいいだろ?」
「行ってどうするのです?」
タカイチは、いやらしい笑いを浮かべた。
だが、釘を刺したのは、老人だ。
「無体なことはいたしませんとも、そうですね、ソフエ殿。
現行の法には従う、もちろん、当たり前のことです」
「あ、ああ、そりゃもちろん、そうさ。
ただまあ、ちょっと話をしようじゃないか。
界渡りで聖女なんて、面白いじゃねえか。俺にふさわしい、そう思うだろ?」
思いません、と思いながらも、芹那は黙っていた。
立場とは、権力とは。
日本にいた頃は触れることのなかった価値観に、いやというほどさらされてきた。
ここでタカイチの手を振り払うことは、簡単だ。
けれどそれは、立太子間近の王家の状況、そして空種達の王位簒奪に無用な隙を与えてしまうということでもある。
ヴァンドール家は、政治の要。
少しでも、他者に排斥の名目を作ってはならない。
王家のことを想う貴族たちが、王家が後ろ盾する空種に脅かされる。
この複雑な政局を、少なくとも立太子の儀まで、波風立てぬよう乗り切らなくてはならないのだ。
その証拠に、ファシオもまた、苦し気ながら手を出さないでいる。
芹那はファシオに肯いてみせ、引きずられるようにタカイチの馬車へと乗り込んだ。




