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不思議な沈黙があった。
しかし、それに気づかぬように立ち上がったのは、ジョスランだ。
「なんだと、ミュリエルが?
あの女は……お前を襲ったばかりか、おかしな術を使って魔力を奪ったというのか!」
アンリエットは、いつもの通り、近づいてくる彼の手を取り、うるんだ目で見上げた。
「そうなの、そうなのです、何もかもあの女の企みなのです!
どうかお助け下さい、あの女を捕らえ、罰を与えてください!」
「もちろんだ、すぐに兵士を集めなければ。
父上、よろしいですね?
私の可愛い聖女が、悪女に苦しめられることなど、あってはならないことだ!」
王は、王座にも似た立派な椅子に深く沈み、肘をついた。
そのまま、息子であるジョスランを見ている。
いや、見ているというよりは、眺めているとでもいうふうだ。
なんの感情もこもらない視線に、ジョスランは戸惑っている。
「父上……?」
「お前は、王には向かんなぁ」
しみじみとした言葉に、さらに戸惑いは増す。
「何をおっしゃっているのです、今はアンリエットの」
「なあ王子よ。お前は気にならんのか?」
「は?」
「長年、ミュリエル嬢の婚約者であったお前に尋ねるが、彼女は魔力があったのか?」
ジョスランは笑う。
「まさか、あれはなんの取柄もありませんよ」
「お前にとってはな」
「はあ……どういう意味です?」
「なんにせよ、あれに魔力がなかったのならば、一体どうやって聖女の魔力を奪ったのだと思う?」
「それは……」
初めて、何かを考える様子を見せる。
だが、それは困惑を深めるだけだった。
「分かりませんね、誰か、そのような不気味な術を使える者を頼ったのでしょう」
王は大きくため息をつき、次の質問に移る。
「不気味な術とは、なんだ」
「さあ、私は魔術には詳しくありませんので。
そうだ、教皇様、あるいは司祭長はご存じでは?
皆、魔力の知識に長けておられるのでしょうから、きっと知っておいでだ。
なあ、どうだ、司祭長よ」
ちらりと王を見た司祭長は、苛立ちを押し隠したような王に肯かれ、王子に向き直った。
アンリエットは、ここでようやく気付く。
これは、父と子の会話ではないのだ。
王はいら立ち、怒り、しかしそれを無理やり抑えている。
なんのためか。
明らかにするためだ。
何が起こったのかを、詳細に確認しようとしている。
それで、もう、アンリエットは諦めた。
知っているのだ。
王も、そして、他の人々も。
そこに王子は入らない。
彼だけが何も知らず、アンリエットの手を優しく握っている。
「僭越ながら申し上げます。
この世に、他者の魔力を無理やり奪う魔術など存在いたしません」
「ははあ、なんだ、司祭長でも知らない術なのか。
しかし……そんな術をミュリエルがどうやって手に入れたのでしょうね?
そうだ、教皇様ならご存じですか?」
暗に、司祭長の知識を侮り、なんの悪気もなく彼が尋ねる。
教皇は、王子を見ようともしなかった。
代わりに司祭長が答える。
「おそれながら、殿下。
これは魔術の理でございます。
他者の魔力は奪えない。
──自ら与えぬ限りは」
「私は教皇様に尋ねたのだが」
不快そうにジョスランが言った瞬間、とうとう、王の我慢も限界を迎えた。
拳で、テーブルを殴りつける。
分厚い一枚板のそれがひび割れるのではないかと思われるような、大きな音が鳴り、教皇以外がびくりと飛び跳ねた。
「この無能が! お前は王どころか、まともな家臣にもなれぬようだ!
考えろ、考えろ、考えろよ!
司祭の言葉の意味を考えろ!
視野を広く持て、裏を読め、行間を感じろ、もっと頭を使え!」
怒鳴り散らした王は、さらに両の拳を天板に叩きつける。
「……それが出来ていれば、こんなことにはなっていなかったがな」
絞り出すような声に続くように、やや震える司祭長の言葉が続く。
「殿下、いいですか、はっきりと申し上げます。
聖女……いえ、アンリエット嬢の魔力は、自らミュリエル嬢へ与えられたのです」
「ははっ、馬鹿なことを。
何のためにだ?」
「その質問が出てくれて良かったですよ」
「は?」
「あらゆる文献にあたりました。
他者に魔力を流し込むのは、相手を意のままに操る以外に目的はありません」
「ほう。えー……つまり?」
ぴたりとジョスランの言葉が止まる。
ようやくか、と、司祭長の目が言っている。
「ただしこれは、聖女にも匹敵するほど大きな魔力があってこそ。
そうでなければ、ただただ魔力を吸われて終わるのです。
アンリエット嬢だから、魔力を流し込み、相手を無理矢理に操ることができた」
するりと、ジョスランの手が、アンリエットから離れた。
操って何をしたのか、とは、さすがに聞かなかった。
馬鹿でも分かる、ということだろう。
「まさか……ミュリエルが君を襲ったのは」
彼がようやく、事態をぼんやり掴みかけたところで、司祭長は王と向き合う。
用済みの王子ではなく、ここからはさらに子細な現状確認が必要だった。
「流した魔力は、通常つながったままであり、相手の死をもって戻ってくることになります。
この場合、魔力の量は調整されているはずですが、アンリエット嬢の魔力は底を尽きかけておるようです」
「つまり、ミュリエル嬢は生きている、と」
「あの森で生き抜くことなどとうてい考えられませんが、信じがたいことにそれ以外の結論を我々は持ちません。
しかし、かの方が、アンリエット嬢から流し込まれた魔力を操ることが出来たなら、それも決して不可能ではないと」
「なんの手ほどきもなく、森を生き抜くような魔法を自在に操ったと?」
「天性のものがあったか、あるいは、砂粒のような幸運で、魔力持ちに出会い指南を受けたか」
王は首を振る。
「経緯など今は考える時ではないな。
現聖女が聖女の資格を失った今、ミュリエル嬢が生きのび、聖女たる魔力をその身に得たという結論に従って今後を想定すべきだろう」
「おっしゃる通りにございます」
誰もアンリエットを見ない。
彼らの中で、すでに自分の未来は決まっているのだ。
「行方を探さねばならぬ。なんとしても」
王は立ち上がる。
そのまま出て行こうとしたところで、声をあげたのはジョスランだった。
聖女の存在を失った国の王子ではなく、ただ、愛した女との未来が失われたとしか考えていないただの男だ。
だから、
「アンリエットはどうなるのです!
私の婚約者は、すげ替えなければなりませんね?」
王はといえば、一瞥もしない。
代わりに、これ以上王の機嫌を損ねないよう、司祭長が間に立つ。
「殿下、その者は、自らが魔力を失っていることに気づいていたはずなのです。
なぜなら、自分でその事態を招いたからです。
そのうえで、聖女のお披露目に臨み、陛下に自分は聖女だと告げ、魔力があると言い切った。
これは重大な詐欺行為であります。
国家を謀り、威信を失わせようとした。
大きな、大きな、罪なのです」
はっきりと罪人だと名指しされたその時。
アンリエットは素早く動いた。
なけなしの魔力を細く絞り上げ、ジョスランの首に縄のようにかける。
分かりやすいように、誰からも見えるように。
「全員動かないで!
私を拘束しようとしないで。
王子を殺すわよ!」
司祭長以下は、目をむいている。
ジョスランが、何かを言いかけながらアンリエットに一歩足を踏み出す。
そのとたん、
「ぐぅぅぅぅっ!」
苦し気にうめき、喉を押さえた。
ほんのちょっと、首を締め上げたのだ。
「あなたたちの魔術で私を取り押さえることなど、簡単でしょうね。
でも、同時に王子を殺します。
私を捕らえることはできるでしょうが、それは王子を失うことと同義です」
「何が望みだ」
王が静かに聞く。
「全員、動かないで。絶対に動かないで! いいわね!」
アンリエットは、王子を魔力で引きずりながら、後ろ向きで窓のない部屋を出た。
外に立っていた兵士が、王子とアンリエットを交互に見ている。
すぐに、司祭長が顔を出し、
「動くな、彼らを自由にさせよ。宮中に知らせよ、誰も王子とせ……ぐぅぅ、せ、聖女に手を出してはならぬ」
信仰心の強い司祭長は、アンリエットを聖女と告げることに深く葛藤したようだ。
兵士が走っていく。
アンリエットはそのまま、素早く城を移動し、表に出ると、そこにあった馬車に乗り込んだ。
王子はその場に残し、追いかけてきた司祭長に怒鳴る。
「魔力が及ぶ範囲にいるうちは、いつでも王子を殺せるわ。
追わないで、私を、放っておいて!」
王子の首に巻き付いている魔力の縄を見やり、司祭長は頷いた。
アンリエットは御者に命じ、馬車を出発させた。
呆然としている王子に舌打ちをし、急いで通りを走らせる。
このままではすぐに捕まる。
冗談じゃない。
捕まれば、たどる先はミュリエルと同じだ。
いやそれよりもひどいだろう。
結局、死ぬ。
ならば、あがくしかない。
馬車を大きな服飾店につけ、御者へは遠回りして城へ戻れと言い渡し、中へ入る。
聖女の衣裳を着たアンリエットに、店員はひどく驚いたようだが、できるだけ簡素な着替えを用意するよう言えば、貴族に従うよう訓練されている彼らはすぐに新しいドレスを出してきた。
サイズを測ろうとするのを制止し、あつらえるのではなく、このまま着ていくと告げる。
あからさまに驚いているが、どうでもいい。
着替えを手伝わせ、お金は王子が払うわ、と言い捨てて、アンリエットは店を出た。
共もつけずうろうろしている令嬢は、人目につく。
店を出る瞬間に、アンリエットは髪の色を変えた。
そして、そっと裏道に入り、いくつかの路地を抜け、今度は平民向けの店に入る。
来ているドレスを買い取らせ、さらに地味な、コルセットの要らない服に着替える。
そしてようやく馬車を拾い、行先を告げた。
「バルニエ家へ」
アンリエットが生き残る術は、もう一つしかない。
聖女に戻ることだ。
そのためには、ミュリエルを殺すしかない。
今まで人にやらせていたから駄目だったんだ。
本気になっていない人間に任せたのが、間違いだった。
自分がやる。
「あの女……あの女、どこまで私の邪魔をするの。
さっさと死んでいれば良かったものを、生にしがみついてみっともない……っ。
生きていても仕方ないだけの女が、この私にこんな苦労をさせるなんて、許せない!」
まずは、エドガーからミュリエルの居場所を尋ねるのだ。
ついでに資金も調達する。
そして──隣国エルサンヴィリアで、あの女を、殺す。
それしか、道は、ない。
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闇夜に紛れるような革鎧を身に着けた兵士が、王の背後に跪いている。
「そうか……アンリエットは、バルニエ家に入っていったか。
そういえば、息子が大怪我をして再起不能だと言っていたな」
「はい、どうやら、その原因はエルサンヴィリアのようでございます」
応えたのは、宰相だ。
そしてそのまま、控えている兵士に向かって、
「引き続き、アンリエット嬢を追え。
暴漢や追いはぎに遭わぬよう、身を守って差し上げろ。
報告は定期的に」
そう告げると、手を振って、相手を追い出した。
「たどり着きますでしょうかね……ミュリエル嬢に」
「そうでなければ困る。わざわざ逃がしてやったのだ、せいぜい、我々の道案内をしてもらわねば」
宰相は頷き、ため息をついた。
「厄介なことになりましたな」
「聖女などどうでもいいが、新たな聖女が他国に属することは、魔術大国としての我が国を神がお見捨てになったととられかねん。
そうなれば、あっさりと国は落とされる。
なんとしても、神の加護を得た国という立場だけは失えぬ」
「ましてや、その新たな聖女を、罪人として追い出したなどとしれれば……」
王はため息をつく。
「王子はどうしている」
「大人しくお部屋にいらっしゃるようです」
「さて……どう処分するべきか」
「おいたわしや陛下……息子の処罰をするなど、おつらいことでしょう……」
内心を労わる言葉に返って来たのは、どうだかな、という、冷ややかな声だった。




