27
ミュリエルは泣いていた。
泣きながら、屋敷の中を小走りして、ある場所を目指す。
日の当たらない北側の、さらに奥まった薄暗い廊下は、両側にいくつもドアが並んでいる。
それだけ、小さく区切った狭い部屋が密集しているということだ。
そのうちの一つを、ノックする。
小さな手では音が鳴らず、仕方なく、拳でドンドンと叩いた。
出てきたのは、背を丸めた皺だらけの顔だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、カールが……」
泣きながらミュリエルが言うと、男は、一瞬険しい顔をしたが、すぐに表情を消した。
「どこです?」
「馬小屋の、とこ……」
男はバルニエ家の下男であり、そしてカールの父だ。
ミュリエルより二つ上のカールは、いつも、兄のエドガーに連れまわされている。
そして、遊びだと言いながら木から飛び降りさせたり、剣の練習だと言いながら一方的に攻撃したりするのを、黙って受け入れている。
そうするしかない。
父親が仕事を首になれば、一家もろとも生きていくことができなくなる。
エドガーは、そんなことを全て知ったうえで、カールをうっぷん晴らしに使っていた。
カールの父は、素早く馬小屋へと向かう。
ミュリエルは、歩幅の違いで置いていかれながらも、一生懸命後を追った。
しかし、途中で、カールを背負って引き返してくる男と行き会う。
カールはぐったりとしていて、頭から大量の血を流していた。
それを見て、また、涙があふれる。
ミュリエルがカールを見つけた時、すでにエドガーはいなかった。
だが、兄の仕業以外、考えられない。
たぶん、いつもの通り無茶をさせ、怪我をしたカールから流れ出る血があまりに沢山で驚き、逃げ出したのだろう。
聞いても知らぬ存ぜぬを押し通すはずだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、カール、死なないで……」
泣きながら言うミュリエルに、男は、仕方なさそうに少し笑った。
「死にゃしませんよ。頭ってのは、血がたくさん出るもんです。
傷自体はたいしたことありませんです」
「お医者様を、呼ばないと」
「お嬢さん」
静かに呼ばれ、その声が咎めるものだと気づき、黙る。
「そんなこと、旦那様が許すと思いますかね」
俯いてしまう。
ごめんなさい、と呟く。
けれど、その謝罪にはなんの意味もないことを、幼いミュリエルは知っていた。
その証拠に、男は、許すと一言も言わぬまま、カールを大事そうに背負って去っていく。
ノックがあって、芹那は目が覚めた。
どうやら、本を読みながらうとうとしていたらしい。
襲撃された日にミュリエルの過去を夢で見て以来、途切れ途切れに、何度も同じように夢を見た。
だからあの日、訪ねてきたエドガーの顔も分かったし、後ろにおどおどと付き従っているのが下男のカールだということも知っていた。
あれから、危険は去ったとみて、旅行は終わりになってしまい、今の芹那はすでに王都のヴァンドール家に戻ってきていた。
どうぞ、と答えると、クラリスが入って来た。
「カールから手紙が届いておりますよ」
「見せて!」
手渡された手紙を、レターオープナーで開くと、一枚目に綺麗な筆跡が見えた。
どうやら、執事が代筆したらしい。
ファシオがつけた背中の傷は、かなり深かった。
死なない程度に切ろうと思った、と言い訳していたファシオによれば、間に飛び込んできたカールはエドガーよりも距離が近くなり、深く入ってしまったと。
普通なら死んでいた。
だが、彼は生きている。
芹那が助けたからだ。
聖女なら、癒しの魔法みたいなの、あるよね!?
エドガーの顎を蹴り上げ、気絶させた後、サクラに怒鳴るように尋ねると、もちろんよの答えがあった。
だから、魔法の使い方を教えてもらい、その傷を治したのだ。
といっても、完全に治してしまったのでは色々と都合が悪い。
聖女であることは、できるだけ隠しておきたいからだ。
結局、当初のファシオの予定通り、死なない程度の深手、まで治しておいて、あとは医者にまかせることにした。
王都までの移動はさすがにできないし、そもそも、カールは死んだことにしてある。
生きていると知られれば、当たり前だが、エルサンヴィリアに送還せざるを得ないし、そうなれば、バルニエ家でどんな扱いをされるか分からない。
色々考えた結果、彼は名前を変え、リャナザンド家で雇ってもらうことにした。
芹那は、迷惑かけすぎだわ、と思い、返礼を考え中である。
「もう起き上がれるみたい。やっぱり癒しの魔法のせいか、治りが早いのかしら」
「かもしれませんね」
「カールって呼んじゃ駄目ね、ヨナスよ、ヨナス」
自分でつけた新しい名前に、なんとなく馴染まない。
夢で数回見ただけで、初めて会ったはずのカールは、芹那にとってなぜかカール以外の何者でもなかった。
まるでミュリエルの感覚を共有しているみたいだ。
芹那はそう感じる。
身体にも記憶はあるだろうか?
分からないけれど、カール改めヨナスの無事を心から喜ぶ気持ちは本物だった。
「はあ、お礼、どうしよう」
「ファシオ様が考えてくださいますよ。だって、あの方がやったんですから」
「どうしたの、不満そうね」
「ええ……私がやろうと思ったのに、先を越されました」
目の奥が燃えている。
さすが元騎士、やる気は現役時代に負けずとも劣らないらしい。
エドガーに手を出させ、はっきりと罪を犯させた上で処分する計画だった。
まさかあんなに簡単に煽られるとは思わなかったが、ぶつけた言葉は、全てミュリエルの代弁のつもりだ。
もちろん一応、魔法で身を守っていたのだが、さすがに目の前にナイフが迫った時は心臓が縮み上がった。
相変わらず、怖くて何もできなかったから、とっさにジェラルドが動いてくれて助かった。
とはいえ彼もまた、青くなって震えている芹那を、珍しいものでも見るように見ていたから、やはりメレディアの夫なのだな、と思うけれど。
「いくぞミュリエル!」
「あ、はーい!」
ノックを面倒くさがったのか、廊下からファシオが叫ぶ。
これから、印刷業者に会うのだ。
芹那が始めようとしているのは、雑貨店だった。
だが、雑貨自体はどうでもいい。
商品は、商家であるメレディアが紹介してくれる既製品を並べるつもりだ。
キャンドルや小さな菓子、綺麗なハンカチなど、なんでもいい。
芹那が売るのは、ラッピングである。
この世界、基本、高価な品は業者が直接貴族に届ける。
だから、ラッピングすることがない。
庶民たちも、買った物は紙袋に放り込んでおしまい。
芹那は、それを、贈り物の習慣に結び付けようと思っている。
活版印刷はあるが、包み紙に模様を印刷するような業者はないらしい。
まずは、単色でいいから、綺麗な色の紙で包み、リボンを盛り上げたり花を模した飾りをつけたり、そういうところから始めるつもりだ。
いずれは、デザイン性のある包み紙をオリジナルで生産し、そちらをメインで売っていく。
それと、インクだ。
現在、存在している発色の良いインクは、貨幣の印刷のみに占有されている。
他の商品に使うことは、厳しく禁じられていた。
芹那は、新しい顔料を抽出できる鉱石と、それが産出される鉱山をタブレットで検索していた。
明日は、その鉱山を買い付けする。
つまり、雑貨店は、サンプルのようなものだ。
「お待たせ!」
ミュリエルは、新しいことを始めるのが嬉しくて、ファシオの手を取って走り出した。
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アンリエットは、ジョスランの後ろに付き従っている従者がエドガーではなくなったことで、失敗を悟った。
直接聞くことはできなかったが、侍女が仕入れてきた噂によれば、隣国から大けがをして戻って来たとか。
なんて役に立たないの。
罵ってはみたが、すぐに、エドガーのことはどうでもよくなる。
失敗を責めている場合ではない。
そんな余裕は、もうない。
聖女お披露目まで、あと一週間。
「アンリエット、さあ、どうかな、そろそろ体も良くなったと聞いた」
「ええ、ジョスラン様……」
心なしか、ジョスランの顔も険しさがほの見えるようになった。
彼もまた、焦っているはずだ。
王命であった婚約者を勝手に代え、その令嬢を犯罪にまで追い込んだ。
アンリエットが聖女であったからこそ、それらの所業も許されたが、そうでなければとうに廃太子されている。
二人にとって、聖女であるということは、全てのよりどころなのだ。
聖心力を失ったと知られたら。
アンリエットは震えを押し隠すことに必死だった。
なぜこんなことに。
こんなに追い詰められているのは、全部、全部、ミュリエルのせいだ。
あの女さえさっさと死んでくれれば、なにもかもうまくいくのに。
「ジョスラン様」
「ああ、なんだい」
「私、あなた様が心より私を慈しんでくださっていることで、もうほぼ回復しておりますわ」
引きつりそうになりながら、アンリエットは気力を振り絞って微笑んだ。
ジョスランの顔が、さっと明るくなる。
「おお、そうか、さすが我が姫」
「それでね、より純粋に聖なる心を高めるために、残りの一週間を聖堂にこもって祈りを捧げる時間としたいのです」
「一週間も?」
「ええ、最低限の食事と、最低限の睡眠、それ以外を全て神に捧げるのです。
それにより、私は完全な聖女となりますわ」
ジョスランがそれを許し、ほんの半日後、アンリエットは準備を整え聖堂へ入ることになった。
聖堂にあるのは、神を模した像である。
だが、聖女の力を手にしていた時のアンリエットは、その像がほのかに聖心力を帯びていることに気づいていた。
だから、嘘をついてまでここへ来た。
修行なんてするつもりはない。
女神の気配のする像は最後の希望だ。
他にはもう、すがるものはない。
「神様、神様、お助け下さい」
像の膝元にすがり、アンリエットはなりふり構わず叫ぶ。
「私が聖女なのに! 私を選んだのでしょう、そうでしょう!
聖心力は、不当に奪われたのです!
私の物なのに、あの女が!」
自分が魔力ごと送り込んだことなど忘れ、ひたすらミュリエルが悪いのだと叫ぶ。
「お願い、このままじゃ、私、殺される。
殺されちゃう。
もしかしたら、全部の責任を私におっかぶせるつもりかも」
王宮に来て様々なことを勉強した彼女は、ここにきて自分の運命を正確に予想していた。
王太子であるジョスランは、おそらく、逃げ切らねばならない。
とすれば、アンリエットが聖女ではなかったとばれた時、国民に向けて、この身が稀代の悪女として知らしめられるのだ。
ジョスランは、魔女アンリエットに操られた被害者となる。
「火あぶり? 磔刑?
嫌よ、絶対いや!」
アンリエットは、ひたすら祈った。
助けて助けてと祈る。
「もうやだ、なんでよ、魔力さえ、聖心力さえ戻ればいいのよ、ねえ。
なんで死なないの、あの女、なんで!
戻れ、戻りなさいよ、あの下僕め、なんで戻らないのよ!」
ミュリエルを操る方法を囁いたのは、あの下僕だ。
あいつのせいだ。
「戻れ……戻ってきなさい!!」
心の底から叫んだ。
その時。
神の像が光った。
まぶしさに目を細め、あふれる光に手をかざす。
ひときわ強く明るくなったあと、唐突にそれらは消えた。
その後に、小さな姿があらわれていた。
そして言った。
「ふう。なんだか呼ばれたのだわ!」




