26
さあ、泣け。
怯えて、俺を恐れろ。
エドガーが今か今かと待ったその瞬間は、なぜか、訪れなかった。
代わりに、妹だった女は、ひとつも表情を変えずに言葉を返してきた。
「ただですまない時は、どうなるのです?」
「……なんだって?」
「あなたは、何を期待していらっしゃるのかと思って」
両脇の男達も含め、彼らは、最下段まで降りていなかった。
数段高い位置から、見下ろすような形だ。
それがまるで意思表示のように思われ、エドガーはかっとなる。
「ふざけるな! ここへ来い、そして跪け!
すべてを謝罪しろ、さもなければいつものように罰を与えるぞ!」
ミュリエルならばとっさにうずくまるはずのその脅しさえ、彼女の表情を変えることはできなかった。
それどころか、あきれた顔をする。
「元妹への折檻を、自ら暴露なさいますの?」
「何を言う、これは躾だ。まったくなっていない妹を、俺が導いてやっているのだ。
つべこべ言うな、俺を見下ろすな、ここへ来い!」
手に持った扇が広げられ、口元が隠れた。
あれは、笑っているのだ。
「ミュリエル、貴様!」
「来い来い怒鳴り散らすわりに、近づいては来ないのですね」
「なに?」
「当てて見せましょうか?
あなたは、怖いのです。私を守ってくれるこの頼もしき婚約者と兄が、恐ろしいのでしょう?
だって、あなたの癇癪はいつだって、女か弱者にしか、ぶつけられませんものね?
本当はご存じなのですわ、自分の腕っぷしが弱く、むやみに怒鳴る以外の語彙を持たず、腕力と理詰めでは他者に勝てぬと」
頭が熱くなり、しかし、心臓はひやりとした。
「ふ、ざけるな、ふざけるなミュリエル!
貴様、俺たちにどれだけ迷惑をかけたか、分かっているのか!
王子妃にもなれない、役立たずの女め!
さらにはあんな騒動を起こしたせいで、我が家は笑いものだぞ!
責任もとらないまま、何が結婚だ、何が旅行だ、いい加減にしろ!」
衝動のまま、つかつかとミュリエルに近づいた。
勢いで振り上げた手を、思いっきり叩きつける。
「いっ……!?」
妹の頬を打つはずのその手は、隣の男に受け止められた。
しかもそのまま、手首を強く握りこまれる。
「い、いいいいいい痛い、お前、何をする!」
「貴殿こそ何をなさるのです?
我が婚約者に、よもや危害を加えようとなさったわけではないでしょうね?」
「婚約など許してはいない!」
「話をずらすな。明確に害意があったのか、なかったのか?」
「これは、し、躾だ!」
ほんの軽く、突き飛ばされた。
しかし、エドガーの身体はあっさりと吹っ飛び、背中をしたたかに打ち付けてしまった。
慌ててカールが抱き起こしてきたが、その手を振り払った。
「傷つける意図があったと確認した。
いまより、お前は私の敵だ。お前もそのつもりで来るがいい」
「なんの権利があってそんな真似をする!」
「何度も言わせるな、婚約者だ。
こいつはお前たちに追放され、縁を切られ、法的にも戸籍と国籍を失っている。
そこから我が国に入り、こちらの法に則って、身分を与えられている。
お前たちがそれを覆すというのなら、そちらとこちら、二国を巻き込んでの判断を仰ぐことになるが、その覚悟はおありなのか?」
エドガーは、ぐっと詰まった。
今ここで初めて、妹の立場が、自分の手の届かない所で変わってしまっていたことに気づいたのだ。
その時、ミュリエルが言った。
「不満があるなら、訴えられませ、元お兄様」
見下げる視線は、明確に軽蔑を含んでいる。
今まで、この妹に、こんな顔で見られたことはなかった。
少しだけ、怒りの底に怯えが混じる。
こんな女だったのか、こいつは……?
「ミュリエル、貴様……」
「もう、暴力と我儘で人を動かせるような事態ではございません。
感情だけで動くような方ですから分からないかもしれませんが、アラノルシアの子爵家の人間が、エルサンヴィリアの伯爵家の婚約者を傷つけるというのは、大問題なのですよ?」
分かりますか?と、まるで子供に問うように言う。
エドガーは反射的に苛立つが、その反面、妹の言うこともまた事実であるとじわじわ実感された。
「し、しかし、とにかく、お前が俺に迷惑をかけたのは、事実で」
「ですから、それはそちらで裁かれ罰を受け、すでに償いは終わっているのです。
私との縁切りで、以後の面倒も何もかも放棄なさったでしょう?
何もかもの中には、厄介ごとも、そして利益も賠償も、全て含まれているのですよ?」
カツン、と、ミュリエルが一段階段を降りる。
一段、一段と降りながら、近づいてくる。
「あの森で、私がどうなるか、ご存じなかったわけではないでしょう?
痛くて、苦しくて、この世の全てを悲しみました。
あの日、バルニエ家は、私の中で消えたのです。
もう二度と、関わらないと決めた。
だって、お父様もお母様も、そしてお兄様あなたも、誰も私を信じなかった。
訴えたはずです。
何も知らない、何も分からない、私の意思ではないと」
強制的に思い出される、あの時期の記憶。
エドガーは、確かに妹の訴えを聞いていた。
心のどこかで、ぐずで気弱な妹が、あんな真似をするだろうかという疑問もわいていた。
しかし、とにかく、自分たちが泥をかぶらないことで必死だった。
妹を斬り捨て、王家にすがる。
それ以外、何も考えていなかった。
「私を妹と呼ばないで。
あんたなんか……どうなってもいい。
私とあんたは、もう、無関係なの。
いいえそれだけじゃない。
私はあんたが……大っ嫌いだわ」
冷えた瞳が目の前にある。
妹は、何か知らない所で変わってしまったのだ。
だが、このまま国に帰るわけにはいかない。
聖女の加護を受けるべき人間だと、宣言してもらわなければならない。
それがなければ、冷や飯をくらうことになる。
冗談じゃない。
見下されるのも、馬鹿にされるのも、人に使われるのも、まっぴらごめんだ。
殺さねばならない。
エドガーは、隠し持っていたナイフを素早く取り出すと、鞘を投げ捨て、振り上げた。
殺す。
明確な殺意を持って、振り下ろす。
だが、手ごたえはなかった。
わずかな風が吹き、ミュリエルの身体がかき消えたのだ。
視界の端で、婚約者ではないほうの男が、ミュリエルを横抱きに抱いてさらっていったのを見た。
その直後、影が差す。
対象を失ってたたらを踏んだ位置から見上げれば、剣を握った婚約者のほうが仁王立ちしていた。
顔は、憤怒と言っていい。
「いい加減にしねえかこのクソ野郎!」
貴族とは思えない言葉とともに、その剣が袈裟懸けに振り下ろされる。
死ぬ。
エドガーは目を閉じた。
だが、感じたのは、温かい重みと、自分の物ではないうめき声だ。
「カール!」
遠くでミュリエルが叫ぶ。
呼ばれた男は、エドガーに覆いかぶさりながら、細い息の中言った。
「うまくいきっこないと思ってました。だって計画も何もない、んですから。
昔みたいに、怒鳴って泣かせてそのまま殺せると、おも、ったんです、よね?」
「カール。どけ」
血なまぐさい。
だが、エドガーの身体に痛みはいっさいなかった。
「なんでも我儘聞いてきた、私のせい、ですかねえ。
エドガー様、もう、大人になりませんと。
ねえ、そうで、すよね?」
声が途切れ、一気にのしかかるカールの身体が重くなる。
必死で見回すと、向こうから、ヒールを脱ぎ捨てたミュリエルが必死の形相で走ってきていた。
「カール!」
そう叫んだ彼女は、ものすごい勢いで近づき、そのまま、エドガーの顎を全力で蹴り上げてきた。
そこで意識が途切れた。
一か月後。
エドガーは、バルニエ家の自室にいた。
ベッドに寝たまま、天井を見上げている。
傍らに立っている父は、冷ややかにこちらを見下ろしていた。
その目を見て、やはりミュリエルは我が家の家系だな、などと考えている。
父と妹……いや、元妹は、よく似ている。
「医師の診断が出た。残念ながら、お前の身体を治す術は不明ということだ」
あの日、ミュリエルに蹴り飛ばされ、意識を失った後、目覚めたのはエルサンヴィリアの牢だった。
簡素なベッドに寝かされており、そして、エドガーは起き上がろうとして気づいた。
足が動かない。
それどころか、首から下が動かない。
疲れだろうか、すぐに動くようになるだろうと考えたが、それっきりだ。
思ったよりもたいした処罰はなく、エルサンヴィリアへの生涯入国禁止を言い渡された後、自国へ引き渡された。
父は激怒しつつ、医師を呼び集め、エドガーの身体を診せた。
何人も何人も呼んだが、誰一人、原因も治療法も分からなかった。
最後にすがった、王家御用達の医師が、先ほど帰ったところだった。
「……第一王子の側近の職務も、身体を理由に解任となった。
今後のことは、しばし凍結し、お前はしばらく休むがいい。ここで」
「ほかの、他の医師は」
「もうこれ以上の腕を持つものはいない」
「では他国から呼んでください!」
父は、珍しく、険しい顔をした。
長男である自分には見せたことのない顔だ。
そう、この顔は、ミュリエルによく──。
「身体と一緒に、口も動かなくなっておればよかったのだがな」
「……は?」
「国境を勝手に越え、放逐した妹を付け回し、あまつさえ殺そうとしたんだぞ。
お前は自分がどう思われているのか、国同士でどう賠償されているのか、気にならないのか?」
「し、しかし、入国禁止で済んだと」
「心底あきれた奴だな」
父は、手にした杖を、カツンと床に突く。
何かに似ている。
「ミュリエルも、我が国からの追放が表向きの罰だが、実際は死刑も同然だった。
そのことを忘れたのか?」
「お、俺、いや私は、跡取りで」
「その身体で何が出来る。
まったく、馬鹿な真似をしたものだ、お前のその身体は、表向きの入国禁止で済ませた上での、実質的な罰だろう」
「どういうことですか」
「魔力だよ。お前の身体には、魔力が色濃く残っているそうだ。
誰かが、首から下の機能を奪う措置を魔法で施したのだ」
「なん、ですって?
そんな、ひどいじゃないですか、そんなこと、許されていいはずがない!」
父親は、深々とため息をついた。
「では、死ぬか?」
「は?」
「あっさり死ねぬことのほうが残酷だがな」
カツン、と杖の音。
これは、ミュリエルのヒールの音に似ているのだ。
「アンディを養子にとる」
従兄弟の名が急に出てきた。
「奴を跡取りとして鍛えることにする。お前は、ここで、ゆっくりと、休むがいい」
「父上? 父上、まさか、私は」
これ以上話すことはない、とでも言うように、父はあっさりと背を向け出て行った。
いつも数人控えていたはずの侍女もメイドも、誰もいない。
ひとりぼっちの部屋で、エドガーは悲鳴をあげた。




