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一度食べ慣れた味を口にすると、信じられないくらい郷愁が溢れた。
いやなんかそんな高尚なもんじゃない。
かつ丼食べたい牛丼食べたいハンバーガーにポテトが食べたい天ぷら食べたいカレー食べたいあれもこれも今すぐ食べたい、だ。
もともと芹那は醤油が好きだ。
粋な食べ方なんぞ知らん、刺身もしっかり醤油につけるし、そばもしっかり浸すし、天ぷらだっててんつゆ派だ。
なんだよ塩って。
素材の味なんぞ知らん、だしとつゆを堪能させろ。
芹那はとうとうとそんな気持ちを力説しながら、肉だねをこねていた。
その横では、料理長が言いつけ通りに泡だて器を動かしている。
中身は、卵と油とビネガー。
今日のランチは、手作りマヨネーズ付きのハンバーガーとポテトだ。
これももちろんとっくにあるが、さすがに気軽にテイクアウトはできないようだ。
わざわざレストランで食べるらしい。
なんだそれ、そんなのハンバーガーじゃない。
ソファでネットしながら片手で食べるのがハンバーガーじゃん。
出来上がったそれを、この土地に来てから十日ほど、すっかり顔なじみになった魚屋の店主に分けてもらった、蝋引きの紙に包み、クラリスに持たせて庭に出た。
貴族の庭は、すごかった。
現代なら、東京ドームで換算するくらいの広さだ。
これが別荘の庭で、しかも常に手入れがされているというのが恐ろしい。
「領民の雇用にもなるからな」
手づかみでポテトをつまみながら、ファシオが言う。
「ねえそういえば、先生の仕事って、なんなの? こんなところにいていいの?」
「俺は主に、父親の仕事を手伝ってるからな。
金勘定は兄、俺は実務だ。
川が氾濫すれば行って整備の指揮を執り、山火事が起これば鎮火の作戦を練り、農地の収益が減れば原因を調べ、ついでに金になりそうな事業に目をつけたり」
「ふうん」
「お前は?」
さりげなく聞かれ、パンにかみつこうとした手が止まる。
聞き返された内容は、つまり、向こうでの生活についてだ。
ファシオがそのことに触れたのは、初めてだった。
「なぜ、働いてると思ったの?」
「料理も出来るし、契約書を隅々まで確認するくせがあるし、他人と交渉するのにためらいがない」
肩をすくめる。
「そんなの、主婦でもやってるわよ」
「主婦?」
「家にいて、仕事しないでいる女のこと」
「それはだいたい、普通そうだ」
「向こうは違うの」
芹那は、少し離れたところで、芝生に座ってサクラと一緒にハンバーガーをほおばっているクラリスを呼んだ。
「お呼びですか」
「ここ座って、ちょっと、話があるから」
「いえ、立ったままで結構です」
「どうして?」
「……そういう役目だからでしょうか」
「あなたがどんな役目を果たすのか、決めるのは私でしょう?」
はあ、と、クラリスはためらったのち、そっと空いた椅子に腰かけた。
「私はね、27歳なの。
25歳まで働いてたわ。食品会社のパッケージデザインとかやる部署よ。
そういえば、ここは包装がかなりシンプルよね、デザイン性ゼロっていうか」
会話が続かないので二人を見ると、戸惑ったような顔をしている。
「え、聞いてる?」
「聞いている。27歳?」
「中身はそう。25歳で結婚して、仕事辞めてぶらぶら主婦してて、あー10年前くらいからやり直したいなー、ってぼんやり思ってた。
そしたら、ある日、こんなことになってたわけ」
どうやら神様のサービスらしいわよ、と鼻を鳴らすが、やはり反応がない。
「ねえ、聞いてる?」
「結婚? 結婚、していたのか?」
「そうよ」
「では……さぞかし帰りたいだろう」
顔をしかめるようにして、そう言うファシオに対し、私は思わず目を伏せる。
普通は、そうなんだろう、きっと。
でも、流されるように生きてきた芹那には、自分が選び取った人生だという実感がない。
時間を巻き戻したいと思うくらいには、何かをどこかで間違ってしまった気がしていた。
「どうかしら。分からない」
「夫君は心配しているのではないか」
「ええ、そうでしょうね。
今夜自分は何を食べればいいのか、誰が作るのか、心配しているでしょ」
「……なんだって?」
楽しい時もあった。
けれど、今思い出せるのは、あの見下すような夫の視線だけだった。
「食事も洗濯も掃除も、誰もやってくれなくて困っているわね。
家電が壊れたらなんとかしてくれる人もいないし、コーヒーをこぼしても拭いてくれる人はいないし、コンビニスイーツを食べて残ったゴミを片付ける人もいない。
誰もタオルを出してくれないし、夫の両親に誕生日プレゼントを手配してもくれない。
なにより、失敗や手抜きをあげつらって謝らせて、悦に入る相手がいないわ」
クラリスが、あきれたように言った。
「なぜ結婚なさったのです?」
「結婚前はいいところもあったのよ!
記念日に贈り物をしてくれたり、美味しい店を見つけてくれたり」
「普通ではないですか」
「ま、まあ、そうなんだけど。私も、普通でいいかなって思ってたし。
普通に結婚して、普通に子供産んで、普通に生活して、って。
まさか、普通があんなにじわじわ息苦しくなるものだなんて」
「普通ではありませんよ、そんなの」
そうだけどー。
ちらっとクラリスを見る。
よくよく見ると、美人だわね、この人。
今でこそ芹那もミュリエルの可愛らしい顔をしているが、かつては平凡な顔をしていた。
駄目じゃないけど、良くもない。
あからさまに邪険にはされないけど、多数の中から選ばれるほどでもない。
はあ、とため息をつく。
「とにかく、私が人生をやり直したいと願って、ちょっと間違ったやり方だったけど、それを叶えてもらったってことは本当。
つまりそういうことだから、私は、ここで、生きていくの」
ファシオは少し考えた後、そうか、と言った。
「お前がそう決めたのなら、それでいい」
「ありがと」
芹那はパンと手を打った。
「それでさ、働こうと思って」
ファシオとクラリスは顔を見合わせた。
「……なぜです?」
「だって、ここで生きていくのよ。生きがいをみつけなきゃ」
結局、流されるような人生なのであれば、前と同じになってしまう。
少なくとも、可哀想なミュリエルの人生を継ぎ、せっかくやり直すなら、自分の人生を生きなくては意味がない。
「まあ、貴族のお嬢さんが商売をするのは、よくあることではあります」
「そうなんだ、良かった」
「何をするつもりです?」
「うん、やっぱり、新しく始めるのって不安だし、前してた仕事関連がいいかな。
パッケージの仕事」
そこまで言ったところで、ファシオが手を挙げて私を止めた。
視線の先を見れば、屋敷の方から、執事のウォーレンが急ぎ足で来るところだった。
「お食事中失礼いたします」
「どうした」
「あの、それが……御来客なのです」
「客だと?」
執事らしくもなく、困惑している。
それはそうだろう、芹那もよく知らないながら、突然の訪問がマナー違反であることくらい分かる。
一般市民でもアポくらいとるだろう、ましてや貴族の屋敷を突然訪ねるなんて。
「誰だ?」
「はい、タカイチ・ソフエと名乗る……おそらく、界渡り様かと……」
さすがに驚く。
名前が確実に日本人だ。
「界渡り様って……?」
「空種のことだ。本人に向けて種別を呼ぶのは不敬にあたるとされ、古い言い伝えからとった呼び名だ」
それは、ある種の地位の確立を思わせるエピソードだ。
異世界に転移してきた人々をかつぎあげ、国家簒奪を企んでいるという話が、にわかに現実味をおびて感じられる。
「どうなさいますか」
ファシオはじっと考え込む。
「……仕方ない、会う」
「申し訳ございません、私としたことが少々動揺しており、伝え忘れました。
先方は……ミュリエル様との面会をご希望でございます」
「私?」
「なぜ」
「は、申し訳ありません、分かりかねます」
ウォーレンは、終始苦しそうだ。
芹那たちも高位の客であり、失礼は許されない。
だが同時に、空種への不敬もしかねる。
少なくとも、国家に身分を保証されているからだろう。
「ねえ、あなたの家と空……界渡りって、どっちが身分が上?」
「一応、公的には伯爵家だ」
「つまり、法律的に不敬だって言われたりしないってことね?」
「まあそうだ、だが、その貴重さは、身分制度とは別のところにあるからな」
「ああ……そう言えばそう言ってたわね。
……分かった。とりあえず会うわ」
「勝手に決めるな」
「だって、追い返したりしたらウォーレンさんが困るでしょ。
リャナザンド家に変な言いがかりつけさせるような隙を残したら、結局自分に返ってくるわ。
養子になったのですもの。
それに、伯爵にもきっと話を持っていく。
異界人って、上に話を持っていくのが好きなのよ」
フットマンが開けた扉から、まず、ファシオが入った。
それから、芹那。
「お待たせした」
形式的にそうファシオが言うと、ソファにいた男が、すっと立ち上がった。
黒い髪、黒い目。
若々しい顔立ちだが、三十代だろう。
日本人にしては背が高く、すらりとしている。
「いやこちらこそ、突然の訪問、失礼にあたることは重々承知だったので。
会ってもらえただけでも良かった」
ファシオの肩が、ぴくりと動く。
相手の言葉遣いが、明らかに、対等なものだったからだろう。
芹那から見ても、いやに自信満々の男だった。
「そちら、お嬢さん」
芹那は、紹介を受けていないので答えない。
男は一瞬、鼻白むが、とりつくろうように笑顔を浮かべた。
「失礼、私は、タカイチ・ソフエと申します。界渡りでしてね」
なぜか誇らしげに言う。
芹那が儀礼的な微笑を浮かべ、
「ご挨拶ありがとうございます、ミュリエル・リャナザンドですわ。
どうぞおかけになって?」
そう言うと、あからさまにむっとする。
だが、さっさとソファに座った男は、不躾にミュリエルをじろじろ眺め、言った。
「お嬢さん、あなたも、界渡りなのでは?」




