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「うわぁぁぁ、海! 久しぶり!」
「エルサンヴィリアは海に面した土地が少ないからな、王都は特に内陸部だ」
「ねえ」
芹那は声を小さくして、ファシオに顔を寄せた。
「空種って、落ちてくるようになってからどのくらい経つ?」
「そうだな……最初の発見から、10年ちょっとってところか」
「その中に、ニホンジンはいる?」
「ニホン……さすがに俺もそこまで詳しくないが、聞いたことのある地名だ」
「ならいるわね、こっちにはない地名なのでしょう?」
とすれば、きっと、あるに違いない。
醤油だ。
自分で作る気はさらさらないが、日本人の遺伝子にしみついているあの調味料。
きっと我慢できずに造っているはずだ。
誰かが試行錯誤してくれたものを、こちらはありがたくいただこう。
正直、芹那も和食が恋しくて仕方がない。
イタリアンもフレンチも好きだけど、毎日は食べられないものだ。
ましてや、こってりした味付けが多いここの食事は、健康面でも胃の調子的にも、心配が多い。
駄目だ、メニューを一品でも具体的に思い描いてしまえば、耐えられなくなる。
芹那は無理やり頭を切り替え、
「市場へ行きましょう!」
と、鼻息を荒くした。
実は事前に調べてあった。
生で食べられるこちらの魚だ。
目を皿のようにして、その魚を探す。
「何探してんだ?」
「ティモアって魚よ、分かる?」
「分からんが、聞けばいいだろ」
「あら。そうね」
すみません!と声を張り上げると、お店の人が驚いたような顔をした。
「令嬢が出す声じゃねえな」
「ティモアください!」
「ははっ、元気がいいね、お嬢さん! ティモアだね、ちょっと待ってな!」
大将、とでも呼びたくなるような風貌の店主は、離れた台から赤い魚を運んできてくれた。
鮮度は問題ないようだ。
店主がファシオに話しかける。
「シャルロッテ様の御屋敷かい? お友達?」
「そのようなものだ」
「お嬢さんによろしく言ってくれよ! こいつはお届けするぜ!」
「頼む」
勝手に話を進める二人に、慌てて割って入る。
「待って待って、私、持って帰るわ!」
「なんだって? だがお嬢さん、その、匂いがつくぜ?」
「いいのよ、あのね、新鮮なうちに持って帰りたいの。配達って、すぐじゃないでしょう?」
「そりゃあそうだが」
店主は首をかしげながら、積んであった蝋引きの紙に魚を包み、紐で結んでくれた。
「ありがとう。あとね、醤油って聞いたことある? この市場にあるかしら?」
「さてねえ、この辺は、庶民ばっかりだからなあ、あんまり変わったもんは売ってねえよ。
上の方で聞いてみちゃどうだい?」
「上?」
「服とか宝石とか、なんか菓子みたいなもんとか売ってるところさ。
俺ぁ行ったことねえけどよ」
なるほど、避暑地だけあって、貴族向けのエリアがあるのか。
「そうするわ。教えてくれてありがとう」
芹那はファシオを促して馬車に戻ると、すぐさま、ティモアに保冷の魔法をかけた。
凍らせないぎりぎりだが、匂いはさすがに漏れる。
少し考えて、神様のバッグに入れてみた。
魚は消え、匂いも消えた。
屋敷に戻ってから取り出すことにすればいい。
「お前、その鞄……さすがに不自然だぞ」
「言わないでよ! 分かってるわよ!」
なんとか持ち歩けるような工夫をしなければ。
芹那は、やや薄汚れたそのバッグを、うらめしげに眺めた。
「おかえりなさいませ」
街の散策から戻った芹那たちを、ウォーレンが出迎えてくれた。
「ただいま。あのね、このお屋敷には、私たち以外に何人いらっしゃるの?」
「敬語は不要にございますよ、お嬢様。我々は、通いを含めると、十五名ほどでございます」
空けることの多い別荘に常時十五人か。
本当にお金持ちなんだな、貴族って。
さすがの芹那も、その感想を口にも顔にも出すことはなく、
「お土産があるの」
「お、みやげ?」
きっと珍しいのだろう、やや狼狽えたような執事の顔が見られた。
そういえば聞いたことがある、お土産の文化は、海外にはあまりないとか。
日本人なんて、自分のものよりお土産のほうが多いというのに。
「ええと、差し入れってことよ。これから予定外にお世話になるのだし。
すごく美味しい焼き菓子があったの」
「ああ、これは、お気遣い痛み入ります」
「それでね、お願いがあるのだけど」
やり口がえげつないな、と後ろでファシオが呟いたが、芹那は無視した。
「お台所を貸していただきたいの」
醤油はあった。
やはり、異世界から先に人が来ていることもあり、チート発明はとっくに誰かがやっている。
コルセットなしの軽い服装に着替え、借りたキッチンで、神様のバッグから取り出した魚をさばいた。
夫が、料理に手を抜くことを許さない人だったから、必死で覚えたことを懐かしく思い出す。
うろこと内臓を処理し、頭を落とし、三枚におろすと、綺麗な白身が出てきた。
タイのような淡白な身質だ。
本当はマグロかサーモンが食べたいけれど、仕方ない。
それはまた探すことにしよう。
「口、開いてる」
「あら失礼」
この体はミュリエルのものだ。
だから、芹那のこの期待感に覚えなどないはずなのに、なんだか涙がこぼれそうだ。
しみついたかつての食卓の味は、心に刻まれているのだろうか。
丸い皿に円形に並べ、塩とオリーブオイル、しょうゆとビネガーを少し、ケッパーと砕いた粒こしょう。
「食べるわよ!」
「食堂を借りよう」
「先生も食べるでしょう?」
「これだけ不信まるだしの顔をしている俺になぜそう思う」
「でも、食べたいでしょう?」
むっとした顔をしたファシオは、メイドに指示し、カトラリーを二人分用意させた。
そう思って、純粋な刺身ではなくカルパッチョにしたのだ。
和食じゃないけど、居酒屋にすらおいてあるんだから、もう国民食だろう。
今日はわさびが見つからなかった、というのも、ひとつの理由ではあるけれど。
「ワイン飲む」
追加でお願いしたそれと、メイドさんがサーブした取り分け皿が目の前に出されると、芹那は笑みをこらえきれず手を合わせた。
「いただきます」
タイだ。
香り高いオリーブオイルに、少し垂らしたしょうゆが程よい塩味を加え、最高に美味しい。
「ワイン、美味しいわね、驚いた」
「この辺りは産地だって言っただろう」
「買って帰ろう、ね?」
「当たり前だ」
「で? 感想は?」
「魚か? 美味いよ。生臭くもない」
「鮮度よ、魚は鮮度が命なの。夜も食べたいわ」
ファシオは少し考え、
「残りは厨房にやれよ、料理人たちが後ろで身を寄せ合って怯えていたぞ。
食えるもんだって、味わわせてやれ」
「食べたくないなら食べなきゃいいのよ」
「客が食べてるもんが得体のしれないものだなんて、プライドが傷つくだろ」
かーっ、なによそれ!
それでも、居候の身だし、と仕方なくメイドを振り向き、生魚の注意点をゆっくり説明した。
「は、はい、シェフに伝えます」
お願いね、と皿に向き直ると、一切れ残してあったはずのタイ、じゃない、ティモアがない。
真横にはファシオがいて、フォークを持ってもぐもぐしていた。
「なにすんのよー!」
「残したのかと思って」
「残してたわよ、最後に味わうために」
「また明日買えばいいだろ」
あら、と芹那はころりと機嫌が直った。
「明日も連れてってくれるの?」
「おおせとあらば、婚約者殿」
「そうだったわ。私、今、人生で一番、わがまま言って良い時期じゃないかしら」
呆れたようなファシオは、それでもその後、庭でのお茶などというハイソな遊びに付き合ってくれた。
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エドガーは、体よくヴァンドール家から追い出され、激怒していた。
「くそが!」
馬車の中で、手当たり次第に暴れ、いらいらを発散させる。
「おい、調べはついたか!」
「は、はい、確かに伯爵のおっしゃった通り、ご子息とミュリエル様のご婚約は成立しておりました。
神殿で確認したので、間違いございません。
また、ご旅行に発ったのは六日前のことで、これも確認いたしました」
連れてきた下男の報告に、エドガーは少しだけ、落ち着きを取り戻した。
婚約などという話はどうでもいい。
問題は、エドガーがやってくるのに合わせて逃げたように見えたことだ。
だが、六日前ならば、エドガーと聖女の契約すらまだ成っていない。
本当に偶然、離れたのかもしれない。
「逃げたわけじゃないのか……?」
「しかし、ご自分が襲われたことはさすがに認識しておられるでしょう。
そこから理由をたどって……」
「はっ、あの馬鹿妹が、聖女まで考えをさかのぼらせることなんて出来る訳がない、お前も知っているだろう、あいつの馬鹿さは」
下男といっても、彼、カールは、小さい頃から同じく下男だった父と屋敷に住み込んでいて、遊び相手としてエドガーに与えられたものだ。
だから、ミュリエルのこともよく知っている。
「馬鹿ではないと思います、ただ、お優しいだけで」
「そこが馬鹿だって言ってんだよ、馬鹿。
優しいだけで、自分を弁護することも、他人に反論することも出来ないなら、それは貴族として無能ってことだ」
黙り込むカールに構わず、エドガーは爪を噛んだ。
「ミュリエルの行先を調べろ」
「……はい」
絶対に殺してやる。
そして、なんの憂いもなかったころと同じように、輝かしい未来だけを見て生きるんだ。
あいつを殺せばそれが叶う。
次第に、エドガーはニヤニヤと口元をゆるめた。
自分にふさわしい未来が、すぐそこにあることを想像して。




