21
芹那にとって、見も知らない兄。
何をしに来たのか、目的は何か、さっぱり分からない。
当の兄とやらが言うには、ミュリエルが追放されて以降、ずっと行方を捜していたが、この度ようやく噂をたどってヴァンドール家にたどり着いたとか。
「タブレ……ううん、サクラに聞いたのだけれど」
メイドの耳を気にして、芹那は慌てて言いなおす。
ファシオは、鳥についていた、兄の来襲を伝える手紙をじっと睨んでいる。
「兄は、私の婚約破棄と引き換えに、王子の側近に取り立てられたんですって。
これって、味方かしら、敵かしら」
下唇に人差し指を添えていたファシオは、
「タイミングがきな臭い。
お前を襲った悪党どもが向こうに引き渡されてすぐだぞ。
どう考えても、そいつらを放った聖女から、お前の居場所について情報を得たとしか思えない」
「だよねえ……。
でもそんなバレバレのことする?」
「それだけ切羽詰まっているのかもしれない」
「ええ、聖女様はね。兄は?」
「さて。お前が生きているデメリットがあるか、お前が死ぬメリットがあるか」
「どっちにしろ殺しにきてるじゃない!」
ファシオは立ち上がる。
つられて立ち上がりつつ、
「ど、どうするの?」
「そうだな。新婚旅行にでも行こう」
「はっ? だ、け、けけけっこんしてないじゃん、まだ!」
「そうか、じゃあなんだ、婚前旅行か?」
いかがわしい!
声もない芹那に構わず、
「時間を稼ぐ意味でも、物理的に離れるほうがいいだろう。
お前の兄とやらとは、対面しない。良い結果になるとは思えないからな。
何を企んでいようと、目の前にいなければ何も出来ないしな。
今から婚約を成立させる書類を整える。
もちろん、父上の署名が要るから、誰かに走ってもらわねばならん。
あー、ちょうどいい、クラリス」
「嫌です」
ファシオは目をむいた。
ものすごい勢いで拒否されたからだ。
芹那は、唖然としている彼にニヤッと笑いかける。
「彼女は私が雇ってるのよ、勝手に使われては困るわ」
「ぐ、そ、そうだったな」
すん、と横を向いていたクラリスは、私の後ろに移動した。
「私はお嬢様から離れるつもりはございませんので」
「ううん、わ、分かったよ、心苦しいがリャナザンド卿に人を貸してもらおう」
そう言って立ち上がる。
「旅行先も含めて、諸々相談してくる。
お前はもう休め、また明日来る。
おとなしくしてろよ」
「はいはい」
さよならの代わりにいつものセリフを言われ、適当に肯く。
ファシオが出て行った後、クラリスが話しかけてきた。
「長いご旅行になるかもしれません。
どこに行くにしろ、避暑地や別荘地となれば、王都やここほど便利ではございません。
準備なさいませんと」
「ああ、そうね。ファシオにはない注意点だわ、ありがとう、そうしましょう」
クラリスがいて良かった。
ちゃんとした女性のアドバイスに従い、諸々買い揃えた後、芹那とファシオは馬車で西へと向かった。
そこは、リャナザンド家の別荘があるそうだ。
馬車で一週間ほどもかかる距離で、王都からはだいぶ離れることになる。
湖があるそうだ。
都市ではないが、活気のある田舎町で、海も近い。
馬車が出て、三日で、芹那は気づく。
なんだか楽しい。
それは久しぶりの感情だった。
旅行に行く楽しさ、知らない場所に行く楽しさ、美しい車窓の喜び。
クラリスとたわいもない話をする楽しさ、海を久しぶりに見る期待感、名産だというワインを楽しみにしているファシオを見ている喜び。
芹那にとって、旅行の楽しさは学生時代で終わっている。
お金はないけれど、気の合う友人同士で観光地を巡った日々。
卒業後はほとんど連絡を取らなくなってしまった。
なぜだろう。
わざわざ連絡を取らなければ会えない距離は、埋められない関係だったということかな。
夫と付き合い始めてからは、失敗しないようにいつも気を張っていた。
忘れ物をしないように、時間に遅れないように。
宿の予約はしたかしら、レンタカーの予約はちゃんとできているかしら、寄り道する店は混みすぎていないか、行列は駄目、並ぶような人じゃないから。
なんで、気づかなかったんだろう。
元から、優しさは見せかけだったのに。
結婚してからはその見せかけすら消えた。
旅行と言えば、なぜかいつもイライラしている夫の機嫌をとるものだった。
飲み物は切らしてないか、ガソリンスタンドは入れやすい場所で、トイレは寄ってくれないから事前に済ませて──。
「どうした、眉間にしわが寄ってるぞ」
「えっ」
言われて、芹那ははっとした。
なんで前の夫のことなんか思い出して不愉快になってるんだろ。
そんなことで楽しい時間を使ってしまうなんて、馬鹿なことだ。
「ううん、ねえ、魚を生で食べる習慣とか、ある?」
「はぁ? いや、無理だろ」
「やっぱりかー、あー、海が近いなら美味しいだろうなお刺身」
「なんだよそれ。美味いなら食わせてやるぞ」
「料理できるの?」
「別荘は使用人付きだ、料理人にやらせればいい」
ふむ。
芹那は、この際、タブレットを駆使して出来ることはやってみようと決めた。
今まで色々ありすぎて、落ち着いて生活を楽しむ時間がなさすぎた。
美味しいものを食べて、楽しいことをする。
だってお金も時間もあるんだもの。
芹那は初めて、神様にちょっとだけ感謝した。
「うわあ、綺麗なお屋敷!」
馬車から降りた芹那は、声を上げた。
滞在先の別荘は、まさに白亜の城、といった風情の壁に、どういった加減か、ピンク色に見える屋根が付いている。
いくつかの塔があり、円錐状の屋根が可愛らしい。
正面の大扉前は、馬車が回れるロータリーになっていて、新緑のツタと真っ赤な薔薇が美しく配置されている。
「可愛い! 最高!」
「所有者は、若い公爵令嬢だとか」
「リャナザンド家の別荘って言わなかった?」
「親戚だとさ。そこの娘の持ち物だ」
「へえええ、若いのに凄いわね」
使用人たちに迎えられたエントランス、そして応接室も、クリーム色の大理石と淡い色の調度品でまとめられている。
置かれている品はいずれも高そうだが、金ぴかではなく、落ち着いた印象だ。
「素敵、センスがいいのね、持ち主のかたは」
「おほめに与り光栄でございます。
ヴァンドール伯爵様より、直々にお言葉もいただきました。
当家の執事でございますこのウォーレン以下、ご子息様ならびに婚約者様が居心地よく滞在されますよう、心よりお仕えさせていただきます」
びしっと決めた執事は、別荘ということもあるのか、まだ年若い。
三十そこそこといったところか、若すぎる気もするが、物腰は上品で申し分ないようだ。
「ああ、世話をかける。
特に、我が婚約者は、平民の身分であったからな、皆を驚かせることもあるだろう。
大目にみてやってほしい」
「よろしく頼みます」
にっこり笑った芹那に、執事もまた、微笑み返す。
「田舎ゆえ、王都ほどかしこまった風潮はございません。
また、当家の主人も、常識にとらわれないお嬢様でございます。
どうぞ気張らず、ご実家のようにお過ごしになられますよう」
海を見たかったが、さすがにその日は無理だった。
軽い食事を取っただけで、疲れて爆睡した。
お嬢様育ちのミュリエルの身体は、若さによる体力を加えて、ちょうど前世の芹那くらいの体力だ。
一週間の馬車旅は、さすがに堪えた。
「転移ってないの?」
「転移って?」
「瞬間移動よ、遠い場所にぱっと移動するの」
「ないけど、不可能じゃないわよ、あなたの魔力なら」
朝、ベッドでごろごろしながら、サクラに聞いてみた。
ないのか。
ないものを試すのは、ちょっと不安だ。
要検討、といったところでおいておこう。
「出かけよう!」
まずは、この世界を好きになろう。
つまり、この時、芹那はここでずっと生きていくことを決めた。
諦めたのかもしれない。
元の世界には戻れそうもないし、戻ったところで、多分生きる場所はない。
悲しいような気もする。
けれど、執着するような関係が、あの世界にあっただろうか。
実家とも淡白な関係で、兄夫婦と姪っ子を猫かわいがりしている両親は、芹那がいなくとも大丈夫だろう。
夫はどうか。
きっと──困っているだろう。
あの人は、自分のバスタオルも出さない人だったから。
ニヤッと笑った芹那は、勢いよく、飛び起きた。




