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「そうですの、ファシオ様はこちらのお嬢様にお世話になっていたのですね」
芹那は、モーガンに叩き込まれた令嬢の手つきで、紅茶を飲みながら言った。
お嬢様言葉は、かつて見た映画や漫画の見様見真似だ。
なんでも、家出中の間ずっと、ファシオは、迎えてくれた女性の実家である、男爵家で働いていたのだそうだ。
商人である当主について、商売を手伝っていたはずが、いつの間にか、娘であるメレディアというこの女性に使われるようになったとか。
「どうぞメレディアと呼んでちょうだい。
お嬢様でもないし」
「はい、メレディア様」
まごうことなく、いい人だ。
芹那の直感がそう告げている。
頭も良い。
どうやら、既婚者のようだけれど。
「それにしても、ファシオが結婚なんて、嬉しいわ」
だから、絶対何かおかしいと気づいてると思うのだけれど?
「あら、駄目ね、ファシオだなんて。伯爵家のお坊ちゃんだったわね」
「やめてくださいよ」
「うちはただの商家ですからね、今はあなたほうが身分が上だわ」
「二年前の功績で、ジェラルド様も爵位を賜るとお聞きしましたが」
ジェラルド、というのは、旦那さんだろうか。
「そのようね。でもあれから音沙汰もないし。
夫にはあとひとつくらい活躍が必要か、あるいは時期をみているのかも」
「立太子の式典が近いですからね」
メレディアは、機嫌の良さそうなファシオから、やっぱり夫がいるんだ、と考えていた芹那に目を移す。
「あなたも、ファシオよりずっと波乱万丈な人生だったようね」
「恐縮です。
この度は、難しいお願いをしておりますことは承知でございます」
「いいのよ、つらい人生を乗り越えるには、信頼できる伴侶が必要だわ」
メレディアは、にっこりと笑った。
「それでね、夫とも相談したのだけれど」
「はあ」
「ファシオとしては、私の実家である、シェルライン家に養子に、という話だったわよね?」
「はい、旦那様にもお話は通してあるので」
「うん、でも、うちってほら、一代限りの男爵じゃない?」
「商才で得た立派な爵位です」
「ありがとう。それでもやっぱり、伯爵家にお嫁に入るには、不足な気がするの」
にこにこしているメレディアだが、目は鋭くファシオに向いている。
あーあ。
芹那は、思わず、馬鹿じゃないの、という顔で同じようにファシオを見た。
こんなに頭の良さそうな人に、がばがばの計画を持ち掛けたものだわ。
形だけの婚約だからと、設定も甘かったし。
なにより、婚約者よりも、よその奥さんをこんなに熱心に見つめてる男なんて、いないわよね。
「だから、うちよりも、ジェラルドの実家のほうがいいと思うのよ」
芹那が口出しできる問題ではない。
黙って聞いていたが、ファシオもまた、黙って何かを考えている。
ちらり、とメレディアを見る。
「……ジェラルド様の御父君……リャナザンド子爵は、なんと?」
「面白いね、って」
「はあ」
「連れておいで、とおっしゃっていたわ」
「そうですか」
どうやら飛びつきたくなるようないい話ではないらしい。
芹那にしてみれば、爵位が上なら婚約も自然にみられるのでは、と思えるのだが、何かあるのだろうか。
結局、また後日、ということで、とりあえず引き揚げることになった。
ドアマンが開いた玄関先まで、メレディアが送ってくれる。
そして、なぜか芹那の手を握り、
「初対面で信じてもらえるとは思わないけれど、私はあなたたちの味方よ。
悪い話は持ち出さないし、応援もしている。
すごく正直なことを言うと、ファシオは頭より先に手が動く方だから、どちらかと言えば私を信じて欲しいのよ?」
でもそれは難しい話よね、と彼女は苦笑する。
「いえ、ファシオ様の評価は同意いたします」
ふふっ、と可愛らしく笑うと、メレディアは芹那の手をクラリスに渡した。
馬車に乗り込み、ドアが閉まる間際、彼女は言う。
「四人とも、今日はゆっくり休んで。またね!」
御者の鞭が鳴り、馬が走り出す。
思わず車窓から首を出したが、誰も無作法を咎めない。
芹那と、ファシオと、クラリス。
クラリスだけは首をかしげていたが、残りの──三人は顔を見合わせる。
「まあ。私、姿を消す魔法を使っていたのだけれど。
どうやら彼女には、見えていたのだわ!」
なんだかちょっと嬉しそうに、サクラが言った。
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「たかが女一人始末するのに、失敗したですって?」
アンリエットは、声を殺しつつ、苛立った。
「ああ、そうだ。だから、俺たちは下りる」
「冗談言わないで。やり直してもらうわ」
小山ほどもある大きな男は、無表情のまま首を振った。
「あんたは大事な情報を黙ってた。この失敗の原因は、あんただからな」
「何よ、情報って」
「獲物が魔力持ちだって言わなかっただろ?」
思わず歯ぎしりをした。
「あいつ……使えるのね、魔法」
「ああ、それもとんでもねえやつをな」
「ちっ、一体どうやって……」
「エルサンヴィリアに潜入した二人は、外見こそぴんぴんして送還されてきたが、内臓はボロボロだとよ」
「どういうことよ」
「だーかーらー、送り返すのに傷一つつけずに、軽微な事件として扱われたがな、実際は見えない部分をやられたのよ。
かわいそうに、長くはねえだろうな」
少し驚く。
「そんな真似を、あの女が?」
「知らねえよ、とにかく、うちはもうあんたの仕事は受けねえ。金もいらん。とっとと帰ってくれ」
「ふん、優秀だって聞いてきたのに、たいしたことないのね」
「なんとでも言え、他国まで出張って、魔力持ちの相手をするにゃあ、見返りが少なすぎる。
金の問題じゃねえ。
うちの人材を使いつぶされちゃたまらんと言ってんだよ」
「もういいっ、誰がこんな、兵士崩れの負け犬の集まりに頼むかってのよ!」
一瞬、ぎらりと男の目が光る。
アンリエットは、怯える気持ちに追い立てられるように外に出た。
とっぷりと暮れた街の、あまり治安のよくない地域だ。
「あっ、お客さん」
少し広い通りで待っていた御者が、おおげさに安堵した様子で、アンリエットを迎えた。
何の成果も得られなかった。
このままでは、まずいことになるというのに。
怫然としながら馬車に乗り込もうとした時、後ろから声がかかった。
「お嬢さん、ハンクに仕事を断られたんだろ?」
ぱっと振り向くと、暗がりにフードをかぶった男がいた。
思ったよりも若い。
「誰よあんた」
「いやー、次の依頼相手が必要かと思って」
アンリエットは、注意深く男を見た。
あまり大きくはないが、騎士のような体つきをしている。
よく鍛えてあるふうだ。
「見も知らない相手と取り引きするほど、馬鹿じゃないわ」
「まあそうでしょうね」
そう言うと男は、一歩前に進み出た。
月の明るい夜だ。
フードをぱさりと取ると、その顔がよく見えた。
「気が向いたら、ぜひ」
想像よりもずっと育ちの良さそうな顔と、手入れのされた金色の髪をしている。
男は、再びフードをかぶると、路地の奥へと消えていった。
「やあ、アンリエット」
「ジョスラン様!」
聖女に与えられた、王宮の敷地内にある離宮に、ジョスランは毎日顔を見せる。
さすがに夜を明かすことはないが、暇さえあれば訪れていた。
「今日も美しいな」
「ジョスラン様も素敵です!」
こめかみにキスを受け、そのまま、応接室のソファに座る。
「体調はどうだ?」
「ええ、少しは良くなったのだけれど……」
ミュリエルの襲撃で、ショックを受け、体調を崩した。
ずっとそうやってごまかし、実家にこもっていたが、とうとう先日から王宮に呼ばれてしまった。
調子が戻らない、という言い訳も、そろそろ限界なのを感じている。
「そうか、立ち直ってくれて嬉しいよ。君は強い女性だ、そうだろう?」
「ええ、そうね、ええ」
「聖女という立場は重責だが、君なら乗り越えられる」
「ええ……」
ジョスランは、アンリエットの肩を抱いた。
「ミュリエルのせいで少し延期になってしまったが、一か月後に、聖女のお披露目が決まった」
「一か月後……」
「ああ、君の王子妃教育も順調だし、マナーもダンスもきっと間に合うだろう。
なに、元は爵位が低いこと、国民みな分かっている。
自分たちに近いところから聖女が輩出されたと、身近に感じてもいるようだ。
だから、完璧でなくとも気にすることはない」
ありがとう、と呟く。
男爵という地位が、吹けば飛ぶようなものだと、王宮に入ってから知った。
父はいつも、家ではたいそうな話しかしなかったが、実際は頭を下げることのほうが多かったのだろう。
知らなかった。
だから、今更に、学園での自分の振る舞いがどんなに常識外れだったかも理解した。
「心配だわ、まだ、お茶の飲み方すら、先生から合格が出ないのですもの」
「ははっ、リンツ夫人は伝統に厳しいお方だからな。
代々、王家のマナー教育は夫人に任されている。言うことをきいておけば、間違いはない。
とはいえ、少し大目に見るように言っておこう」
「優しいのね、ジョスラン様」
王子の、苦労一つしたことのない手を握ると、二人は微笑み合った。
「お披露目のドレスを作ろう。一緒に。
アクセサリーも揃えるといい。王宮御用達の商会を呼ぼう。
きっとその日は、生涯で最も幸福な一日になるはずだ」
ええ。
そうね。
アンリエットはそう言いながら、背中を汗が伝うのを感じる。
教育の過程で、話には聞いている。
聖女お披露目の日は、聖魔法のお披露目の目的もある。
国中に花を降らせるとか、空中に光の粒を撒くとか、常人では不可能な特大の魔法を見せなければならない。
そしてその夜、聖女は神殿にこもる。
聖心力を通し、生涯に一度、国の未来を占う天啓を受けるのだ。
今のアンリエットは、せいぜい、髪の色を変えて侍女に化け、宮を抜け出す程度の魔力しかない。
花どころか雑草の一本も生やせやしない。
ましてや天啓など、受けるはずもないのだ。
ほとんどすべての魔力を、僕に吸われてしまった。
いつまで経っても戻らないそれらゆえに、ミュリエルが生きていると知った。
その後のミュリエルの痕跡をたどるのは、簡単だった。
早く、殺さなくちゃ。
魔力と僕を取り戻さなくちゃ。
もし──間に合わなかったら?
お披露目の日に、魔力がないとばれてしまったら?
考えたくない。
あの、実家の自室の、すりきれた絨毯さえ羨ましく思うような生活になるだろう。
それどころか、もっとひどい目に──。
「さあ、では、私は仕事に行かなければ」
「あ、ええ、はい、頑張ってね、ジョスラン様」
恐ろしい未来を振り払い、アンリエットはジョスランを見送るために玄関ホールへと向かった。
「間に合うか?」
予定の時間を超過して滞在したのだろう、ジョスランが、御付きの男に聞いている。
「馬車では難しいかと思われます。馬で参りましょう」
「相分かった」
深い礼から顔をあげた男を見て、アンリエットは息が止まった。
その顔は、数日前の夜、フードの下から現れたあの顔だった。