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鳴海芹那の人生は、不満だらけだった。
そこそこの顔、そこそこのスタイル、そしてそこそこの両親。
もっと美人なら良かったとか、誰でも思うことだけど、芹那が言えばみんなが『贅沢だ』と嫌な顔をした。
芹那は決して怠け者ではなかったし、なんなら班長や委員長やリーダーをやってみんなをまとめたし、誰もやりたがらない幹事を引き受け奔走したし、勉強だってちゃんとやった。
けれど、誰かが企画した飲み会には呼ばれない。
行きたいなんて言えないから、仕方なく趣味を作った。
SNSを漁って、おしゃれそうな人がやっているものを真似るだけだが、それはそれで楽しい。
手当たり次第に本を読んだり、ちょっとした手芸に手を出したり、絵を描いてみたり、美容に凝ってみたり。
ただ、それは時間をつぶす役には立っても、芹那の人生を変える何かにはなり得なかった。
それでも、そこそこの人生。
そこそこの大学、そこそこの会社、そこそこの給料。
なんか違う、とずっと思っていた。
こんなはずじゃなかった、やり直したい、20年、いやせめて10年前からならきっと修正できるのに。
叶わない現実逃避をしながら、そこそこの結婚をする。
専業主婦になってほしいと言われて会社を辞めたが、そのとたん、なんだか気力も体力も萎えてネットにはまった。
掲示板に出入りしながら、いろんな人間のいろんな人生をのぞき見し、自分の人生と比べた。
こいつよりマシ、と思うこともあれば、単なる自慢じゃん、と不愉快になることもあった。
そして──そして?
何が起こったのか全く分からない。
気づいたら、芹那は、森の中にいた。
「は?」
そこは森だった。
仰向けに倒れているらしく、見えるのはおそろしく生い茂った大木の梢と、その間から見える小さな青空だけだ。
首を巡らせると、後頭部で土がじゃりっと音を立てる。
「はぁ!?」
飛び起きて、髪の毛に交じり込んだ土をわしゃわしゃと振り落としてから、右を見て、左を見て、背後を見た。
森だ。
全てを大木と茂みと岩に囲まれていて、ピチチチチという小鳥の鳴き声が聞こえる、典型的な森。
道はない。
ちょっと意味が分からなくて、もう見る場所が下しか残っていなかったので、俯いてみた。
見たことのない服を着ている。
緑っぽいやや大きめのチュニックワンピースに、生成りのブラウスだ。
ひざ下丈のスカート部分はタックがよっていて、それなりに手はかかっていそうだが、なんだか布がごわごわする。
ブラウスも、ナチュラル系のお店で買えば高そうな色をしているが、手触りはやっぱりざらざらだ。
なんだこれ、こんな服持ってない。
足元はグラディエーターサンダルっぽいけど、靴底がゴムじゃない、コルクかなにか、つまり木だ。
足に寄り添うだけの柔らかさはあるけど、丈夫ではなさそう。
「誘拐……?」
きっとそうだろう。
分からないけど、きっとそう。
そうじゃないならなんだか分からない。
とにかく、自分はさらわれて、着替えさせられて、森に捨てられた。
家族が心配しているに違いない。
その時、ワオーン、と、どこか遠くで声がした。
腹の底が冷える。
野犬だろうか。
こんな森の奥で襲われたら、ひとたまりもない。
まだ遠いようだが、近くに別の獣がいる可能性だってある。
芹那の住んでいる市では時々熊の目撃情報があるし、人里が近くても遠くても危険はゼロじゃない。
「お、落ち着こう、落ち着いて、おち、落ち着いて」
明らかに落ち着きがなくなり、あたりをきょろきょろと見回す。
岩がそこそこある。
ということは多分、川が近いだろう。
なんにせよ、人間食べなくてもある程度生きていけるが、水がなければ三日で死ぬ。
水場を確保する意味でも、ここを抜け出るにしても、川沿いに移動するのが良いような気がした。
それから体感で5時間ばかりが経ち、芹那は諦めた。
いろんな趣味に手は出したけど、運動だけははまらなかった。
だから体が出来ていないし、そもそも、もう27歳であって、激しい運動をする年でもない。
慣れない森を、道のない藪をかき分け、平たんではない地面を石やくぼみに蹴躓きながら歩いた結果、靴が壊れた。
途中で怪しいなとは思っていたが、だからと言ってどうしようもない。
切りっぱなしの革が足の甲に食い込み皮が破れ、とても気を遣って歩くなんてできなかったし、疲労が何度も足元を見失わせた。
靴が壊れたらもう、歩くことは出来ない。
現代人まるだしの芹那の素足で森を歩けば、数分で血まみれだ。
今でも十分、怪我人だけど。
「何よこれ」
芹那は疲れ切って、大きな木にもたれかかって座り込んだ。
あたりはすっかり暗い。
逢魔が時とでも言おうか、闇ではないけれど、遠くはもう見通せない。
うっすら明るさの残る空を見上げながら、芹那は倒れこむ。
「あー……肌寒いかも。寝たら死ぬかな」
寒さで死ぬか、脱水で死ぬか、あるいは、獣に食われて死ぬか。
残念だがもう、これ以上歩く気力はない。
死んでもいいかな。
なんとなく思う。
そこそこの人生で、多少未練はあるけど、執着はない。
死にたいわけじゃないけど、なにがなんでも生き抜いてやると頑張れるほど、思い残すこともない。
なにもかも自分のせい。
いつも誰かの目を気にして、どう見えるかだけで生きてきた。
馬鹿みたいな人生だった。
それで結果が出ればまだしも、後にはなんにも残っていない。
日が落ちて、次第に寒さが体をこわばらせて、もう自力では動けそうもなかった。
遭難するなんて思いもしなかったから、サバイバルの方法なんて知らないし、多少何かをしたって無意味だろう。
明日の朝はもう自分には来ないんだ。
芹那は、なんだか、すっかり落ち着いた。
ぽつりぽつりと見え始めた星を見上げ、誰もいないたった一人の世界のようなこの場所で、終わりを迎えるのだ。
なんだかそれは素敵なことに思えた。
「そうだ」
一度言ってみたいセリフがあった。
今しかない!
「神様のバカヤロー!!」
あたりにまぶしく白い光が唐突に溢れた。