第54話 見習い騎士の誓い
「よっ。ずいぶん来なかったから、みんな心配していた」
医師のバトロネスが顔を上げ、咲羅に笑いかけた。
「すみません。ちょっといろいろあったので」
「団長から聞いた。体調崩してたんだってな? 最近冷え込むもんな。今日もあんまり無理するなよ」
「ありがとうございます」
宴の日から三日目。咲羅はようやく体調を取り戻して、救護舎にやって来た。今朝はずいぶんと寒く、雪でも降りそうな空気だ。いくら温めてあると言っても、床の上は冷たいだろうな、と講堂を開けると、転がされていた怪我人は、もう十人ほどになっていた。
「サクラがいなかった間に、みんな退舎してったんだ。お前に感謝してたぞ。よろしく言っといてくれってさ」
「そうですか。お役に立てたなら良かったです」
あれほどの怪我人がこうもいなくなるほど、自分は臥せっていたのかと自嘲する。どう考えても、休みすぎだ。
宴のあと、足を怪我したショックなのか、クロシェの発言による知恵熱なのか、咲羅は再び発熱し、ダウンした。サラシェリーアには「おみ足が痛いはずですのに頭を抱えておいでです」とサンドラに報告され、サンドラからいたく心配されたが、クロシェのことを相談するのもためらわれ、この二日間、一人悶々とした。
その間、見舞うクロシェにはなんの変化もなく、あれは自分の煩悩が作り出した幻覚だったのではと思ったくらいだ。
そして咲羅の出した結論は、「今は考えないことにしよう」だった。あの時の会話を反芻し、結論は今でなくてもいいことが大きい。つらいならという話をしていたが、咲羅は別に、現状はつらくない。身体的に痛い思いはしているが、心情的にはここの生活に感謝している。特に役に立てないなら養われるだけなのも心苦しいので、働き口を見つけたいとは思ったが、ここから逃げたかった訳ではない。誰かと結婚することなど、思いつきもしなかった。そしてまた、自分にそんな提案をする人が現れようなど。
(いちいち難易度が高いのよ)
回収した水差しを洗い終え、井戸から汲み上げた新しい水を入れる。もう氷水手前のような冷たさに、咲羅の手はすぐに赤くなり、指先は感覚を失った。
(恋愛したことない人間に)
(いきなり結婚から話に入るとか!)
「あんた何難しい顔してるのよ」
「へ?」
「腹立つことでもあったの? それ、破かない程度にしといてよ。縫うのも大変なんだから」
「はーい、ごめんなさーい」
洗濯物を洗う手についつい力が入ってしまい、また考えてしまっていたことに反省する。思考はすでに、振り回されていると言っていい。これが「ときめいて」考えている状態ならまだしも、疑問符だらけで解答のない難問に取り組むのと変わらないなど、時間の無駄だ。
咲羅が手早く洗濯物を干していると。
「よう。やっと出てきたな」
シーツの影から、リクバルドが顔を出した。
「リク」
「長官たちがよく許してるな、こういう雑事すんの」
「あー……ハーシェル王が好きにしていいって、最初に言ってくれたからね。セルシアの選定をも一回受けるまで、なんにもしないのも落ち着かなくて」
「ふーん。サクラの正体、みんなに話してもいいのか?」
「サンドラさんには、特に隠し立てをする必要はないって言われたから、別にいいんだと思う。言ったら、距離を置かれたりするのは淋しいなあって思ってたから、黙ってただけで。それに、男の子だと勘違いされたお陰で助かったこともあるしね」
「ああ、うん。今のお前と、あの夜のお姫様が同一人物とか、いまだに騙されてるんじゃないかって気がしてる」
「胸見て言わない!」
怒った咲羅に、リクバルドがいつものように笑った。
「サクラ、手え出せよ」
「手?」
なんかくれるの? と両手を広げて見せると、またプッと笑われた。
「手荒れがひどくてまあ、ホント、貴族のそれじゃねえな」
そう言って眺める視線はひどく優しいもので。
存外大きな手が咲羅の右手を取ってひっくり返すと、すっと片膝をつき、額に手を当てた。
「は? ちょっとリク……」
取り返そうとするが、リクバルドのまっすぐなまなざしが、それを留めた。
「私リクバルド・イオレスは誠心より恒久の忠誠をサクラに捧げることを誓う」
騎士が主君に忠誠を誓うときの定型文らしき言葉を、リクバルドが紡ぐ。しかし。
「わたし、セルシアじゃないよ?」
眉根を寄せた咲羅に、リクバルドは「馬鹿じゃねえの」と言わんばかりの迷いなさで言い放った。
「どっちでも、守ってやるって言ってんの! 返事は!」
そのまっすぐさに、咲羅は戸惑いつつも、顔がほころぶ。
「そもそもなんて答えるのが定型なのよ?」
「一言許すって言えばいいんだよ。そんなことも教わってねえのか」
「教わってないんだよねえ、そう言えば」
セルシアになったら、儀式としてのそういう形を教わればいいだろうと思っていた。セルシアでなくても、という気持ちで向かい合ってくれる人が現れるなど、思ってもみなかったから。
「ねえ、一つだけ教えてよ」
「なんだ?」
「リクも、主君のためには命を惜しまないって思ってるの?」
「そりゃ、当たり前だろ? 騎士ってのはそういうもんだし」
「だったら、許すって言えないや」
「はあ?」
思いっきり怪訝な顔をするリクバルドを、立てという意味で引っ張り上げるようにすると、彼はしぶしぶ立ち上がり、手を放した。
「わたしはさ、誰かが自分のために死ぬのは、嫌なんだ」
「自分のために死ねる人間の数が、主君にとっては勲章みたいなもんだろう」
「わたしは、そんな勲章は要らない。欲しくないの」
一言一言、力を込めてリクバルドに告げる。
「わたしが言ってることは、この世界の騎士精神を真っ向から否定してかかってることかもしれない。でもね、命懸けでわたしのこと守るって言うなら、自分のこともちゃんと守って、生きていてくれる人がいい」
この世界に来て、恐怖したこと。それは何よりも、簡単に命が失われることだった。
「わたしのいたところに、戦いはなかったの。この世界に来て初めて、本物の剣を使って人を斬るところを見たし、わたしもそれがどれだけ痛いか経験した。人はこんな簡単に殺されたり消されたりするのかって、怖くて怖くてたまらなかった」
遭遇したいくつかの事件を思い出し、咲羅は涙目になるのを堪える。
「だから、生きて戻ることに命懸けになれる人じゃないと嫌だ。死ぬことで尽くされる忠誠とか……わたし多分、耐えられない」
「俺たちだって、簡単に諦めて死ぬ訳じゃねえんだけど」
ガシガシと頭を掻きながら、どうしたらいいかと迷う素振りを見せ、リクバルドは咲羅の頬を引っ張った。
「わかった。サクラの言うとおり、命懸けで生きてやる。だから俺をお前の騎士として認めろ。……まあ、正騎士章取るまであと何年かかかるだろうけどな」
「その正騎士章って、見習いからだとどれくらい上なの?」
「ああ、お前そういや知らないって言ってたな」
言うと、この世界の騎士章について簡単に説明してくれた。
正騎士章、それ自体は強さを示すもので、規定の試合をすべて勝ち抜けたら与えられるものだという。ただそれが難しく、通常はそれを取れるようになるのは二十五歳前後だとか。もちろん、一生取れない者もいる。示した強さにより与えられる騎士章は異なり、大体見習いの次は従騎士に、そして准騎士となり、正騎士となるのが通例とのこと。そして正騎士になったらなったで、階級は別にあるという。
「じゃあクレイセスたちはみんな正騎士章持ってるってこと?」
「ばっ……! お前救護舎で話聞いてなかったのかよ、あの人たちが馬鹿みたいに強いの」
「うん、そういう話はたくさん聞いたね」
「セルシア院はさ、平民出の騎士が上に上がっていくほうが多いんだ。けど、貴族の長官たちが上の地位を全部占めてても文句言われないのは、実力、あんだよ、あの人たち」
心底認めているのだとわかる発言に、改めて若いのにすごいんだなと思う。
「ふうん。じゃあ、あの人たちは正騎士章取るのも早かったとか?」
「ああ、早えなんてもんじゃねえ。クレイセス様は騎士学校在学中に、正騎士章を取られた。まだ十四だったとか」
「わお。それは早いね」
「その記録はいまだに破られてない。今の長官たちは全員、十六のときに取られてる。しかも団長とクロシェ長官は、騎士学校を入学したときも卒業したときも首席で、法務系の試験なんかも合格してるんだと」
「へええ。頭いいんだ」
「そういうこと。貴族の立場を利用して上にいる、じゃなくて、マジ実力でそこの地位にいるんだよ」
「そういうこと聞くと、わたしのお守りさせてるのがますます申し訳なくなるねえ」
長官たちに心酔している人間は多い。リクバルドもその一人かと、彼らの詳しい経歴を羅列出来ることからも察することが出来た。
「でも長官たち、忙しいのにサクラのことちゃんと見てるってことは、サクラが院を離れたらついてくんじゃないかって、みんな言ってる」
「それはどうだろうね? ハーシェル王と幼馴染みだから、命じられた以上断らないだけかもよ」
「そうかなあ……お前にスゲー心酔してる感じするけどな」
咲羅の答えに懐疑的な表情を見せ、リクバルドは言った。
「でもさ。サクラがセルシアであろうがなかろうが、俺はお前を主君として選びたい。多分、ほかにもいるぞ? 抽象的な主を戴くより、きちんと人としてのお前に仕えたいってヤツ」
まるで心当たりでもあるような口振りに、咲羅はますます顔を顰める。
「わたし、そんなに思ってもらえるような何したっけ?」
「馬鹿みたいに一所懸命なところが評価されてる」
「全然褒めてない……」
むくれた咲羅に、リクバルドは笑って言った。
「まあいいじゃねえか。サクラは騎士たらしなんだろうよ」
「嬉しくない!」
叫んだ咲羅に、時間だからとリクバルドは手を振った。
「じゃーな。俺誓ったからちゃんと数に入れとけよ!」




