第42話 クロシェ
「…………なのよ。あなたが、ずいぶんとつれなくするから」
待たせていたイリューザーを連れ、最奥に戻るのはユリゼラの様子も見てからにしようと、後宮への近道を走る。そこでクロシェを見つけ、声を掛けようとしたものの、一人ではないことに気が付き、自然と足が止まった。
これは見ちゃいけないヤツだ、と、とっさに身を隠す。一緒にいるのは、クロシェよりはだいぶ年上に見える、妖艶なご婦人だ。どうやってバレずに後宮まで行こう、と周囲を見回し、二人が去ってくれたらいいなぁと思いつつ、長引きそうなら引き返すかとそっと様子を見たとき。
(あ……)
婦人の白い手がクロシェの頬に伸び、もうその先はキスですよね⁉ という距離に顔を傾けて近付ける。しかしその寸前で、表情が抜け落ちた顔で横に逸らしたクロシェを見て、邪魔することに決めた。
イリューザーをクロシェの元に行くよう促し、婦人の悲鳴が聞こえたところで「ごめんなさい!」とイリューザーを追いかけて出る。
「サクラ様」
驚いたクロシェが、いつもの表情を取り戻した。
「ごめんなさい。イリューザーと散歩してたら迷ってしまって。ちょうど良かった、クレイセスが急件があるって探してましたよ」
男の子の恰好をした、どう見ても下働きの自分を「様」と呼んでしまった時点で、使用人の振りは出来なくなってしまった。婦人の訝しげな、それでいて鋭い視線には、怖くて目も合わせられない。
「そうでしたか、ありがとうございます。それより、目的地までお送りします。イリューザーが一緒とはいえ、お一人で歩かれるのは危険です」
そう言うと、クロシェは婦人には目もくれずに咲羅の背中を押して歩き出した。
無言のまましばらく歩き、沈黙がつらくなった頃、咲羅はそっとクロシェを見上げる。すると視線に気づいたクロシェは、「ありがとうございました」と、いつものやわらかい微笑みを広げて言った。
「一応確認しておきますが、クレイセスが呼んでいる、は、サクラ様の機転ですね?」
「あははー……、はい、嘘です、ごめんなさい」
「いいえ、本当に……助かりました」
どことなく疲れたような表情で深く息をつくクロシェに、「それなら良かったです」とだけ言って笑う。あんな、咲羅にも見て取れるほどの動揺と硬直を露わにするなど、初めて見る姿で。深く聞いてはいけない気がした。
「どこかに行かれる途中だったのでは?」
「ユリゼラ様に会いに行こうかと思って。でもお昼時だし、あとにします」
「大丈夫でしょう。むしろユリゼラ様も、サクラ様を心配なさっておいででしたし。後宮までお送りしますよ」
「クロシェさんは? それこそどこかに行かれる途中だったんじゃないんですか?」
「俺は兵舎に戻るだけですから、お気になさらず」
やわらかく笑うと、昨日捕らえられた賊の、取り調べでわかった余罪などを教えてくれながら、後宮へと送ってくれた。
「まあ、サクラ!」
後宮では入り口でクロシェに見送られ、案内されて部屋に入るなり、ユリゼラが駆け寄ってきて、手を取られる。
「良かった、本当に無事だったのね……!」
うっすらと涙すら浮かべてそう言うユリゼラに、「ユリゼラ様こそ、お怪我ないみたいで安心しました」と笑って見せると、ユリゼラは泣きそうな顔で微笑んだ。
「あなたが来てくれなかったら、私は助からなかった。本当に……ありがとう、サクラ」
「いえ……ご無事で良かったです。あの、セレトさんは?」
先程扉を開けてくれたのはセレトではなく、初めて見る人だった。部屋の中を見回しても、ユリゼラのほかには誰もいない。
「ええ。彼女の怪我も浅いものだったから大丈夫。セレトにも怖い思いをさせてしまったから、今日明日は、休みに」
「そうでしたか。大事ないなら、良かったです」
微笑む咲羅に、ユリゼラは少し屈んで、イリューザーに略式の礼を取る。
「イリューザー、あなたもありがとう。あなたがサクラの言うことを遂行してくれたお陰よ。イリューザーは役者ね」
そっと鬣を撫で、ユリゼラは微笑んだ。イリューザーの表情はわからないが、ふすん、と鼻息をひとつすると、ふいっと横を向いたそれが、照れているようにも見えた。
その様子に二人で笑い合い、ユリゼラは咲羅を見る。
「この時間に来てくれたなら、お昼は一緒に出来るのかしら?」
そう言いながら向き直ったユリゼラは、不意に微笑みを引っ込めてじっと見る。
「サクラ、あなた……」
そう言いながら伸ばされる手に緊張を覚えていると、白くたおやかな手は、そっと咲羅の首筋に触れた。
「やっぱり。あなた、熱があるわ」
「え? そう、ですか?」
「そうですかって……ずいぶんと、熱いわよ? こんなに高くて、具合は悪くないの? 顔が少し赤い気がしたのよ。ああ、レスティー、すぐにお医者様を。クロシェはまだそこにいる?」
レスティー、と呼ばれた女官はすぐに駆けつけ、クロシェがまだ後宮の入り口で待っていることを告げると急ぎ呼びに行く。
「この世界に来て、短い間にいろいろなことがありすぎたわ。疲れが出たのね。栄養を摂って、ゆっくりするといいわ」
そうして頬を優しく両手で包まれ、美しい憂い顔が間近で微笑んだ。咲羅はむしろ、その仕草や距離に動悸を覚え、体温が上がる気がする。
それからすぐに来たクロシェは、ユリゼラから熱が高いことを知らされると躊躇なく抱き上げようとし、それを「自分で歩けますから!」と固辞する。咲羅はユリゼラに挨拶をすると、後宮をあとにした。
「サクラ様、ふらついたりとかは」
「ありませんよ。朝起きたとき、ちょっと怠い気はしたんですけど、動いてるうちにそれも忘れてましたし……。ここに来るまでだって足取り、おかしくなかったでしょ?」
ただ歩いているだけなのだが、気が気でないというように、クロシェは軽く眉間にしわの寄った表情で何度も咲羅を見遣る。
「ひょっとして、サクラ様は熱にお強い?」
「熱に強い?」
「頻繁に発熱する方は、具合の悪さに気がつかないことも多いので」
身内にでもそんな人がいたのだろうか。言われて、咲羅は心当たりに頷いた。
「そうかもしれません。微熱が続いたり、いつの間にか高熱になってたこともありますね。高熱になっちゃうと、むしろ調子が良くなってしまうというか」
「勘違いですので、それは。大事にならないうちに、今回ばかりは大人しく休んでいてください。午後の練習はなしです。明日の朝も、救護舎に行くのは控えてください。医師の許可が降りるまで、部屋から出てはなりません」
いつにない強い口調で、矢継ぎ早に指示をしてくるクロシェに、咲羅はのけぞる。
「ええええ~……クロシェさん過保護……」
「サクラ様が動きすぎなんです!」
これで動きすぎとか、貴族はホントに動かない生き物なんだなーと改めて思う。なんかちょっとしたことでも感謝のされようが大袈裟だったりするし、この世界の倫理観が今一つ掴めない。市井に出れば違うのかもしれないが、「貴族社会」において自分が浮いていることは、納得していた。
「そんなにゆっくりしてたら、ダンスだって覚えられないじゃないですか。やっと一曲、相手が上手だったらなんとか踊って見える程度になっただけなのに」
「そこはご心配なさらなくても。ハーシェルはせめて一曲とかは言いませんでしたか。最初の一曲さえなんとか出来れば、あとはどうとでもなります。そんなことは気にせず、お休みになってください」
心底困ったような顔をされ、咲羅は黙って最奥まで歩く。
クロシェを困らせるつもりはない。けれど、やらなければ自分が困るのだ。
最奥に着くと、昼食の用意をしていたサラシェリーアに咲羅の不調を伝え、クロシェは医師を呼びに出て行く。
「まあ、サクラ様。朝、きつくていらしたのでしたら、そのときに仰ってくださいませ。私も気付けなくて、申し訳ありませんでした」
眉尻を下げてそう言う彼女に謝ると、やっぱり困ったように笑って言った。
「謝る必要はございません。お体を大切にして欲しい、それだけですわ。サクラ様は、周囲のことを考えすぎです。迷惑などではありません。心配は、勝手にするものなんです。どうか罪悪感など、抱かないでください」
さあ、まずはお食事を、と勧められ、咲羅はしっかりと昼食を取ったあとに診察を受け、「疲労」との診断を下され、強制的に寝かされたのだった。




