第4話 レア・ミネルウァ
気がつくと、そこは異世界だと認識出来た。
世界遺産を紹介する番組や、歴史の資料集に掲載それた写真でしか見たことのない、精緻な細工を施された内装が、まず目に飛び込んで来たからだ。壁の下半分は紺色で、上半分が白、そこに金彩で蔓植物を思わせる繊細な模様が連続しており、落ち着いていながら高貴な印象を醸し出している。
咲羅は起き上がり、自分が豪奢なベッドに寝かされていることを確認して、息を呑んだ。シングルサイズを横に四つ並べた幅に、縦にももうひとつ付け足したような、見たこともない広さのベッド。それに、天蓋からは繊細なレースと緞帳のような厚手のカーテンが下がっていて、今は横に纏められているが、重厚感が漂っている。
(本当に)
(超えた……?)
人の気配はない。
ベッドから部屋を眺めると、海外の時代物に出てくる貴族の城のような、これもまた見事な細工の施された暖炉やローテーブル、椅子やソファが目に飛び込んで来た。
広さも、教室なら三つ分くらいだろうか。天井も高く、空間に贅を凝らされた意匠が、なんだか威圧的だ。
恐る恐るベッドから出ると、靴下を履いた足が、毛足の長い絨毯にふっくらと沈む。
窓辺に寄ると、一本の大きな木がそびえ立ち、この部屋に木陰を作っていた。
(ああ……)
(多分、本当に)
世界を超えたのだと、咲羅は実感した。
目の前に広がるのは確かに木々や草花だ。しかし、近所に生い茂るそれらとは違う。そして何より。
(空気が)
(違う……)
そして自分が、どのくらいの間意識を失っていたのかはわからないが、こんな屋敷だか城だかは、近所には存在しない。某国を模したテーマパークのそれらの造りと、ここは明らかな一線を画している。
誘拐だとしても、あの彼が言った通り「すぐには帰れない」場所ではあるようだ。
咲羅にとっては、クレイセスと遭遇したあそこだけが、息をつける秘密の場所だった。
住宅街の外れから上がれる山の中腹に、ひっそりと安置されている小さな神社。神話時代の神が祀られた小さな祠と、一段下がった場所に設えられた土俵以外、周囲を森に囲まれた静かな場所だ。訪れるのは、祠の裏手に住む女性が、犬の散歩に来る程度。あとは年に一度、祭りのときに、準備を含めて二三日、賑やかになるくらいか。
そのとき以外は、すべてから切り離されたように、忘れられたように、静寂に包まれた場所だった。
そこで、端正な面差しの男が倒れているのを見つけたときは、死体かと思って血の気が引いた。しかし、口許に手を翳すと鼻で呼吸をしていることがわかり、呼びかけた。
目を開けば、とても印象的な青い瞳の持ち主で、立ち上がれば二メートル近い大男。
彼はクレイセスと名乗り、理解に困る話を真顔でし出した。せっかくのイケメンなのに残念な、と思ったのが、正直なところだ。
しかし、彼の品のある物腰や真摯な話し方は、咲羅の警戒をぐらつかせた。嘘をついているようには思えなかったからだ。けれど、巷にあふれる小説めいたことが、実際に起こる訳がないと自分を戒める。あれらは、あくまでも「空想」なのだと。
しかしながら、翌日の再遭遇は、咲羅の疑念を払拭した。
ストレスを発散するための一人カラオケを邪魔されて、顔から火が出るかと思うほど恥ずかしかったが、驚愕しているクレイセスを見ると、自分のほうが何かしでかした気分になった。そして、逃げようと思っていたときに見せられた、あの光景。
彼が「光響」と言っていた、虹色に輝く木々を見せられたときに、「ひょっとして」という、ほんのわずかな気持ちが芽生え、彼の言動を信じてみる気になったのだ。
自分には、失うものなど何もないのだし。
必要だと、嘘でも言ってくれるなら。
咲羅に、ためらう理由などなかった。
むしろ、咲羅が彼を詐欺にかけたかもしれないとすら思う。
咲羅がクレイセスに決意を述べたとき、怪訝な表情をしたのを覚えている。けれどそれ以上に。
「おいでいただけるのでしたら、我々はあなたを大切にします」
そう言って手を取り、恭しく額に掲げてくれたことが、胸に痛いほどで。
お互いのことなど何も知らないのに、むしろ通報すべき勢いで怪しむべき人物からそう言われたのに、胸の奥が震えるほど嬉々としている自分が、どれほど人の情に飢えているかを思い知り、情けなくて涙が出た。
クレイセスは何も言わず、涙を拭おうとしてくれた指先が頬に触れたとき、視界が徐々に白く薄らいでいった。
──そうして、咲羅は今、ここにいる。




