第36話 教育係の奮闘
二人を見送ったあと、咲羅はイリューザーの前にしゃがんだ。
「あなた、まだ大人じゃなかったんだね」
このサイズ感で大人じゃない、と言われると、今後どれだけ大きくなるのやらと少し不安にもなる。しかし、二人のときにはやたらとじゃれついてくる理由は理解した。
いつもは耳の外側を撫でるからわからなかったが、ハーシェル王が触っていた辺りを触ると。
「ホントだ……」
鬣に隠れてわからなかったが、ほんのり盛り上がった程度の小さな白い角が二つ、確認出来た。小さいので、最終的にどんな形状になるかまだわからないが、うしろに向けてまっすぐに伸びている。
「今でも十分強そうなのに、角まであるんだねぇ」
角と角の間を撫でると、気持ちよさそうに目を細め、手を引こうとすると「もっと」とねだるように肘を鼻先でつついてくる。
「サラシェはオルゴンに角があるって知ってました?」
食器を下げる彼女に訊くと、「いいえ、存じませんでしたわ」と首を振る。
「オルゴンなんて、滅多に見られない動物ですし……遭遇したら敵意を見せずにゆっくりと後退れ、と教えられた気がしますわ」
「それは、お父様とかにですか?」
「そう、ですわね……私、それを、誰に教わったのでしょう……?」
困惑したように目を伏せ、考え込んでしまったサラシェリーアに、咲羅は「思い出せるといいですね」と笑う。時折、記憶に引っかかるようなことがあるようだが、それを契機に「思い出す」には至らない。記憶を探ろうとすると強い頭痛に見舞われるようで、無理強いはしないようにしていた。
*◇*◇*◇*
翌日の午後から、ハーシェル王が言ったとおり、レッスンが始まった。
サンドラとクロシェに加え、三日目の今日からは楽士もついてきた。ろくにステップも踏めないのに、迷惑をかける人数だけが増えていくようで、申し訳なさだけが募っていく。
「お顔をお上げください。足許ばかりご覧になるから、返って視界に翻弄されるのです」
クロシェに注意されるが。
(この人たちの顔を)
(正面から見ろとか)
難易度が高すぎて、出来る気がしない。
そもそも、他人とこんなにも近接することなど、生活の内であったか。彼氏もいなかった咲羅には、異性と手を繋いだ記憶など、小学校低学年の遠足以来だ。それが、容姿端麗を謳われる彼らを相手にダンスなど。頭が白くなって胃が痛くなり、冷や汗が出るのに顔が熱くなるという、もう何か重篤な病気にでもかかったかのような気にしかならなかった。
(距離って)
(めちゃくちゃ重要……っ)
小さい頃は、童話の中のお姫様に憧れたのに。裾をさばくだけでも重労働だ。
「お姫様」に見せるためのスキルを習得するということは、なんと難しいことかと、もう何度目かの大きな溜息をつく。
二人は決して怒ったりはしない。根気よく教えてくれて、忍耐強く付き合ってくれている。けれど残り七日であと二曲、詰め込んだところで混乱しそうだ。この一曲だって、ようやく足と手の順番がわかってきた程度のことだ。
「サンドラさん、どっちも覚えてるんですよね? 混乱しないんですか」
「相手に合わせていると、それほど混乱はしませんね。間違っていても、堂々としていればばれません」
サンドラの答えに、間違えるたびに体が固まる自分としては、もう少し別の回避方法を探そうとまた溜息をついた。
「これくらい出来たら、相手に任せて踊れるので大丈夫ですよ」
サンドラの言葉の意味がわかりかねて顔を上げると。
「今はサクラ様の練習ですから、特に先導などしてませんが。実際には相手が踊りやすいように合わせます。クロシェ、普通にやってみたらどうだ? もういけるだろ」
サンドラが言うと、クロシェは頷いた。
「この曲は最後まで通せそうですよ。お手を」
クロシェの言葉に、楽士たちがまた最初から、曲を奏でてくれる。
そうして、今までは「練習」のための動きだったのだと、サンドラの言った意味がわかった。クロシェの動きがまったくと言っていいほど、違うのだ。
(嘘……)
(踊れてる……っぽい?)
信じられない気持ちで見上げると、クロシェが少し微笑んだ。
「そう、そのまま下を向かないでください。大丈夫、ちゃんと踊れています」
映画などでも、相手のリードがうまければなんとかなる、といったシーンがあったが、こういうことかと体感をもって納得する。ある程度出来れば、相手に任せていれば動けるのだ。
初めて一曲を通し終え、サンドラとサラシェリーアが拍手をくれた。
「サクラ様お見事ですわ!」
「これは、クロシェさんが見事としか」
「いえ。上達は早いですよ。これだけ出来れば、ハーシェル王もクレイセスも、問題ありません」
そう言われ、ようやくほっとする。
「あれ、でもクレイセスと躍るのは、曲が違うんですよね?」
「一曲覚えてしまえば、あとは早いですよ。しかもハーシェルと躍るこの曲は、そもそも難易度が少々高めです」
「うぇ?!」
サンドラの言葉に思わず出た声に、「サクラ様悲鳴」とサラシェから指導が入る。舞踏会までに言葉遣いにまで指摘が入るようになり、時々めまいがしそうだった。
ダンスの練習を終え「夕食までの間ごゆっくり」、と言われた咲羅は、ドレスを脱ぎ捨てていつもの少年仕様に着替え、イリューザーを連れてユリゼラのところへと走った。
後宮に行くとピアノの音色が聞こえ、咲羅は「ユリゼラ様かな?」と思いながら、部屋の扉をノックする。すると初日に会った侍女と思われる女性が、微笑みを浮かべて中に促してくれた。
案内されたのは、寝室とは逆の扉。そこを開けると、ユリゼラがピアノを弾いていて、絵になる光景に思わず見入ってしまう。ピアノもまた、美しい木目に細かな彫りの入った、美術品のようなものだ。
「サクラ! 来てくれたのね」
気が付いたユリゼラが、手を止めて立ち上がった。
「この短期間で、いろいろなことがあったようね? まあ……オルゴン。実物を見るのは初めて。こんなにも綺麗なのね」
歩み寄って咲羅の隣に立ち、遅れて入ってきたイリューザーに見入る。
「ハーシェル王のお話では、これでまだ子供らしいです。角が生えてないって仰ってました」
「言われてみれば、絵に描かれるオルゴンには、白い角が二つあるわね。この子に名前は付けた?」
「はい。イリューザーと名付けました」
そう、と微笑み、ユリゼラは目を輝かせてイリューザーを見つめた。咲羅はイリューザーに視線を遣ると、イリューザーは素直にそこに伏せる。
「触って大丈夫ですよ、ユリゼラ様」
「でも……サクラ以外の人に触られるのは、嫌ではないかしら?」
「鬣をみつ編みしたら嫌がりましたけど、今のところ、撫でられるくらいなら誰のことも大丈夫みたいです」
咲羅の説明に、ユリゼラは窺うようにしながらもそうっと手を伸ばし、鬣に触れた。
「まあ……野生の獣は大体毛が硬いのに、オルゴンの鬣は見た目通りなのね……」
とても気持ちがいいわ、と目を細めるユリゼラに、咲羅はときめきを覚える。威圧感など、今は感じない。むしろ目を輝かせているその姿は無邪気なほどで、違う一面に触れた気分だ。




