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第35話 淑女という試練

「おいで、イリューザー」

 外に出て作業をするときは、誰もいないのを見計らってオルゴンを呼ぶ。あれから部屋でおとなしくしていたが、ずっと部屋に閉じ込めているのも可哀相で、日中は暖かいこともあり、救護舎の周辺で遊ばせていた。もちろん、人目につかないように、と言い含めてある。咲羅の言葉はわかるのか、今のところ、言ったことはきちんと遂行されていた。人を襲うことも、当然ない。


「今度、森の中にでも行ってみようか。あなたがどんな暮らししてたかわからないけど、毎日こんなんじゃ窮屈だよね」

 耳の根元を掻くように撫でてやると、気持ちよさそうに目を細め、鼻からふすん、と息を吐く。そうして「もっと構え」というように、ぐりぐりと咲羅に顔を押しつける。イリューザーが懐いてくれたことは、単純に嬉しかった。


「サクラ様、どちらですか、サクラ様」

 お昼を呼びにきたルースに「はあい!」と声を上げると、ルースは干してある洗濯物を避けながら来て咲羅を見つけた。


「よく、懐いておりますわね」

「見た目よりずっとおとなしくて、ちょっとびっくりしています。お昼ですよね? 戻りましょう」

 言った咲羅に、ルースが口を開いて、何も言わずにうつむいた。


「どうしたんですか? もしかして具合、悪いですか?」

 のぞき込んだ咲羅に、ルースは首を横に振る。

「ルースさん?」


 少し黙って見つめていると。

「私にも、名を、いただけませんか」

 思い詰めた瞳で言われ、咲羅は目を見開いた。


「私は、このままサクラ様にお仕えしていたい。あなたがセルシアでなかったとしても、ここから出て行かれるというのでしたらなおさら……お傍にありたいのです」

 一気に告げられ、咲羅はルースの藤色の瞳を見つめた。


 毎日毎日、咲羅のすることに付き合ってくれている。先回りをして生活の色々なことを整えてくれて、夜眠る前には、小さな子供に聞かせるようなお話までしてくれた。世話になりっぱなしなだけ、むしろ不自由を強いているだろうに、何が彼女をそう思わせたのか、さっぱりわからない。


「サクラ様」

 彼女は両膝をついて見上げ、困惑している咲羅の手を恭しく取った。

「命を大切になさってるお姿が、私には尊く見えます。使用人たちに、分け隔てなく接してくださるところも、患者たちと打ち解けておられるご様子も。この世界に一所懸命に向き合おうとしてくださるお心が、私には愛おしい」


 ルースの手は、連日の水仕事で荒れ始めていた。それもこれも、咲羅付きだからだ。きっとほかの貴族が相手だったら、彼女の手はこんなことにならなかった。

「でもわたし……この世界に(のっと)った意味のある名前なんて、知らないですよ?」

「構いません。イリューザーと同じように、サクラ様にとってなんらかの思い入れがある名前なら」


 オルゴンに付けた名前は、昔、童話作家に憧れて書いた話に登場させた、狼に付けたものだった。その中から、この世界でもありそうな女性の名前、と思い巡らせ。


「本当に、いいんですか?」

「はい。私を、サクラ様のお傍にいさせてください」

 まっすぐに向けられる静かなまなざしに、咲羅のほうがためらってしまうが、彼女の思いは嬉しかった。


「じゃあ、あなたに名を贈ります。『サラシェリーア』」

 そう言って、咲羅は頬に口付けた。

 額を遠慮したのは、本来の名があるはずだからだ。


「サクラ様……」

「本当の名前、思い出したら絶対教えてくださいね。思い出して急にいなくなるは、なしですよ? その……淋しくなるので」


 言った咲羅の両手を握りしめたまま、「サラシェリーア」は眩しいほどの笑みで見上げると、自分の手にすっぽりと収まっている小さな手を、額に押し戴いたのだった。


*◇*◇*◇*


 昼食を終えた頃、扉をノックする音に「どうぞー」と気の抜けた返事をすると。

「ハーシェル王……」

 ラグナルを連れたハーシェル王が現れ、咲羅は自然と居住まいを正した。


「サクラは働き者だな。自由にしていいを『自由に労働していい』に取るとは思わなかったぞ」

「えと……ダメ、でしたか?」

「ダメではない。実際助かっているしな。バトロネスが褒めていた。細かなところに気が回ると」

「お邪魔になってないなら、良かったです」


 少しほっとしたところに、ハーシェル王は笑って言った。

「ユリゼラも淋しがっているから、少しは相手をしてやってくれ。あれ以来訪れもないと嘆いていた」

「会いに行って、いいんですか?」

「それも含めて、自由にして構わないと伝えたつもりだったんだが」

「そう、でしたか……」


 王妃、ともなれば忙しい人なのだろうと思っていたし、それでなくてもユリウスの話から、心労が祟って寝込んでいたりするのかも、と気を遣って遠ざかっていた。身分のある人に会う礼儀や仕来りもわからないため、訪問の手順を考えると気後れもあった。


「ユリゼラに会うのは、気詰まりか?」

「いえ……逆です」

「逆?」

「会いたい気持ちはあるんですけど、お顔を見たら、際限なく甘えてしまいそうで」

「寄り添うのが、うまいからな、ユリゼラは」

 ふっと表情を和らげたハーシェル王からは、王妃に対する深い信頼が窺える。

 こんな夫婦の有りようを、素敵だな、と心の奥が暖かくなる思いで、咲羅はハーシェル王のそんな表情を眺めた。


 サラシェリーアが銘々に紅茶を運んできたのを機に、ハーシェル王はラグナルに手を出す。そこに白い封筒が載せられ、ハーシェル王はそれをそのまま咲羅に渡した。

「今日は、ちょっと話があって来たんだ」

「お話、ですか」

 改まったような口調で言われ、咲羅は少し怖いような気持ちでハーシェル王とラグナルを交互に見遣る。


「実はサクラが初日に起こした光響と、オルゴンの……イリューザーと名付けたんだったな? あの一件が噂として広まってしまって、抑えておくことが出来なくなった。それで、だ。サクラのお披露目を兼ねた宴を開くことになったんだ」

「え?」

「十日後、その宴に出席して欲しい。サクラは、ダンスは踊れたり……」

「しませんよ?」


 答えなどわかっているだろう王の問いに、変な汗が出てくる気がしながら、咲羅はぐるぐる考えた。

「お辞儀の仕方もわかりませんよ? え? どうしたらいいんですか? それってお披露目主体なんですか? なんかほかに理由ないんですか?」


「宴自体は即位式のとき以来なんだ。フィルセインの進軍経路から外れている貴族にとっては、そういった華やかな場がないことが不満でもあるからな。サクラは、格好の理由になってしまった」

 すまない、とハーシェル王は軽く眉間にしわを寄せ、その青灰色の瞳をまっすぐ咲羅に向けて謝罪した。

「サクラの額の傷が癒えて、セルシアの選定を今一度行うまではと思っていたんだが……中途半端に引き出すような形になって、本当に申し訳ない」


 ハーシェル王が悪い訳ではないことは、わかっているが。

 大勢の「本物の貴族」の前で動くなど、恥をかく気しかしない。


「明日から、クロシェとサンドラが必要なことを教える。宴までに三曲ほどなんとかしてもらえると有ありがたい」

「三曲も、ですか?!」

「難しければせめて一曲。貴族の手は取らずとも構わない。私と一曲、あとは各団長とそれぞれ一曲ずつでなんとかする」


 ハーシェル王と、ラグナル団長と。

 常に王のうしろに控え、険しい顔つきで直立不動のラグナルを見上げると、彼はすぐに人好きのする笑顔を浮かべて言った。

「クレイセス殿も私も、サクラ様に踏まれようが蹴られようが壊れることはございませんので、そこはご安心ください」


「そこは俺も付け加えて言えよ」

「知りませんよ、あなたの腕前なんて。即位式のときはあんた俺を捕り物に出したでしょうが。それまでの宴も、俺はそうそう参加してませんからね。王子の時分は義務をこなされたら姿をくらますことで有名でしたし、『俺のこと知っとけ』とか無茶な要求ってもんです」

「今、何倍の愚痴にして返されたのかな、俺は」


 ハーシェル王がげんなりとした表情で頬杖をつき、ラグナルを見上げる。

 「あんた」呼ばわりされても怒らないところを見ると、よほど気心が知れているのだろう。そんな主従関係というのは、理想的にも見える。


「なんならこの口の減らない男も練習に付けてやる。思う存分蹴りたくっていいぞ」

「可愛いお嬢さんのお相手ならいくらでも。むさ苦しい上司の顔を見ているよりずっと心が和みます」

「お忙しい人の時間をいただくのは、むしろ心苦しいです……」


 恐縮する咲羅に笑い、ハーシェル王は足許に伏せているイリューザーに近付いた。片膝をついて、イリューザーと目の高さを合わせる。

「あの時は気付かなかったが、こいつはまだ子供だな」

「へ?!」


 そうして頭を撫でるようにしながら耳と耳の間をかき分け、目を細める。

「成体だと角があるんだ。イリューザーはやっと生えかけてるくらいだからな。この分だと八ヶ月くらいなのか。シェダル殿なら詳しいぞ。連れて行かなかったのか?」

「はあ……。あのときは、まだ名前も付けてなかったし、おとなしくしてくれるかどうかもわからなかったので……」

「そうか。お元気だったか?」

「はい。それはもう」


 大音声(だいおんじょう)でクレイセスとやり合っていたことを思い出し、少し頬が緩む。

「楽しかったようだな。シェダル殿には、戻って来てもらえるとありがたいんだが」

「ハーシェル王も、懇意にされてたんですか?」

「懇意……そうだな。とても親しかったぞ、うん」

 真顔で答える王に、ラグナルが嫌そうに突っ込む。


「いや、あなたは絶対、頭痛の種だったはずです」

「なに、少し手のかかるほうが可愛いと言うだろう」

「はあ? シェダル殿から見たら嫌がらせ以外の何物でもありませんよ」


 ハーシェル王はどうやら、咲羅が抱いている印象とは異なる過去を持っているようだと、二人のやりとりから察する。

 イリューザーの顎を撫で、ハーシェル王は満足そうに笑うと立ち上がった。

「宴の件、悪いが頼む。不足があればまた相談してくれ」

 それだけ言うと、ラグナルを連れて去って行った。

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