第28話 救護舎
セルシアを
殺せ
頭の中に、濃い霧が詰まっている。
誰の声かわからないが、どこか懐かしく思えた。
せるしあヲ
殺セ
いいえ、あの方はセルシアではなかった。
そんな想いが去来するが、響く声には届かない。
ここのところ、明け方の寝覚めの前に訪れる声は、一方的だった。
セルシアを
殺せ
セルシアは、失われたままだ。
焦燥感が、胸に迫る。
コノ世界ヲ滅ボスせるしあヲ
ソノ手デ殺セ──……
その願いを、私は……
*◇*◇*◇*
「──……様、サクラ様」
目を開くと、藤の花を思わせる紫が、心配そうに咲羅を見つめていた。
「ルースさん……」
「ずいぶんとうなされておいででした。お加減がよろしくないのでは」
「いえ……。夢見が悪かった、だけです」
そろそろと起き上がると、咲羅の目の前に構ってくれと言わんばかりに、大きなライオンの頭が載せられていて。
「うあ。そうだった……」
手を伸ばして鼻筋を撫でると、気持ち良さそうに目を細める。
「オルゴン、でしたっけ? 意外におとなしいですね」
「いえ……それは、どうでしょうか……」
咲羅の問いに、ルースは微妙な表情での笑みを作る。
「ガゼル様とサンドラ様は一度騎士団の宿舎にお戻りになるとのことです。今は部屋の外に、別の騎士たちがおりますわ」
「別の騎士?」
「サクラ様に一人の護衛もつかないことはありません。これまでも、目障りにならぬようにと、騎士たちは少し距離をとった形で、護衛についておりました」
「あ……そうなんですか」
それでようやく、昨日の入浴の際、あのタイミングでサンドラが来た理由がわかった。諍う声を聞き、サンドラに報告に行ってくれた人がいたのだ。
朝食の用意が出来ていることを告げられ、咲羅は礼を言って席に着く。
「今日は午後から、長官全員で、前の騎士団長だった方のところへお連れする、と伺いました。服装は昨日と同じで良いとのことですので、お食事が終わりましたらお召し替えを」
簡潔にそう伝えると、ルースはおっとりとした仕草で空いた杯に水を入れる。
「だったらその、午前中は好きにしていてもいいとか、そういうことですか?」
「はい。昨日あれほど広範囲を動かれたのです。しかもあんな騒動まであり、お疲れであろうからゆっくりなさるようにと」
気遣ってくれる、それ自体はありがたいが、この世界の「普通」を早く体得したい咲羅には、動きにくい空気感もあった。しかし、昨夜の怪我人の具合は気になる。
「あの。昨日怪我した人、どうなったか知りませんか」
「怪我人が出たのですか? それでしたら、きっと救護舎のほうに集められているかと……」
「救護舎?」
「はい。怪我人は一カ所に集めて治療や看護を行いますので」
「そこ、着替えたら連れてってもらえませんか」
「はあ……」
そんなところに興味を持つこと自体、不思議に思われているのが雰囲気でわかる。ユリウスは「一番犠牲の少ない形」で収まったと言っていたが、このオルゴンに噛まれたりした傷が、軽傷であるとは考えにくかった。行ったところで、何が出来る訳でもないことは、わかっているけれど。それに、何もかもわからないことだらけなのだ。きっと救護舎も、咲羅の知る病院とは異なるだろう。
食事をしている間にも、ルースは咲羅の着替えの準備や、額の傷に塗る薬の用意をしてくれている。動いている量は多いのに、おっとりとした動作に見える所為か、バタバタしている印象はない。彼女は貴族だろうとクロシェは言っていた。きっとこういった振る舞いにもそれが表れているのだろう、と彼女のすることを眺めながら、咲羅は朝食を完食する。そうして両手で三角形を作り、「ごちそうさまでした」と言うと、「大地に感謝を、ですわ」とルースに微笑まれた。
片付けを手伝おうとすると制されてしまい、「決まり事がございますので」と微笑まれてしまう。いろいろと覚えたいと思う自分に反し、周囲は、咲羅の手を煩わせてはいけないと思っている。その空気が、なんとなく動きにくい。
実際に体験しながら覚えていくほうが性にはあっているが、今はルースや長官たちの動きをつぶさに観察しながら、見えないルールを探っていくより手がなかった。
その後少年仕様に身支度を調えられ、ルースに救護舎まで案内してもらう。
どこかの離宮かと思わせる、優美で清潔感漂う外観に圧倒された。しかし中の状況は、あまりにもかけ離れていた。
案内してくれたルースに礼を言って中に入ると、薬だろうか。様々な何かが混じり合った、独特の臭いがすることに気がつく。
そして最初に目に入った、両開きの木製の扉を開けると。
講堂のように広い造りのそこには、怪我人達が所狭しと床に並べられていた。
高い天井に、かすかにうめく声すら反響するように聞こえる中、立ち働いているのはごく少数だ。一見して、負傷者は五十名ほどはいるように見える。寝かされている人のほとんどが、巻かれている包帯に血が滲んでいて、咲羅はこの混じり合った臭いのひとつは血の臭いかと、背筋が寒くなった。
皆忙しく動いていて、咲羅に気がつく者はいない。呆然と中を見ていた咲羅だったが、枕元に置かれた水を飲もうと、苦心する一人が目に入り、自然と足をそこに向けて起きるのを手伝った。隣で寝返りを打つに苦労している男も、そっと背中を支えて手伝う。
昨夜の怪我人のことを聞きたくて、近くで包帯を替えている医師らしき男に近付くと、「あそこに軟膏と包帯置いてるからちょっと取ってきてくれ」と振り向きもせずに言われ、顎で示された場所から急いで取ってくると、咲羅は男の手許に差し出した。
血のついた包帯と、血を吸って赤黒く変色した何かの塊が、用意された受け皿の上に落とされていく。そして手渡した軟膏が塗られる傷口を見て、咲羅は思わず口許を覆った。
とても直視できず、先程の朝食まで戻してしまいそうな衝撃にそこを去ろうとしたが、「ここ押さえとけ」と言われ、慌てて言われたとおりにする。男は手早く処置をすると、慣れた手つきで綺麗に包帯を巻き上げた。
「あれ、お前新人か?」
ようやく振り向いた男は、咲羅を見て特になんの疑問も抱かなかったようで、咲羅は安心して指示を仰ぐことにした。
「そんなとこです。医療の知識はありませんが、お手伝いできることは」
「なんでも助かる。ここんとこ襲撃やら事件やらで、怪我人があとを絶たないからな。じゃあ、とりあえずあれ洗濯。で、この血のついたのは全部燃やせ。お前傷口とかないな? あったら素手で触るなよ。毒性強いからお前みたいなちっこいのはイチコロだ。あとは包帯の補給……は、まだ来てねえみたいだな」
ちらりと壁に目を遣り、表のようなものを確認してそう言うと、「あと全員の水差しの水、今日はまだ替えてやれてねえんだ。そいつも頼む」と思い出したように付け足し、次の患者のところに場所を移す。
咲羅は「あの、ゆうべの怪我人は?」と背中に投げかけると、男はチラリと振り返り、そんなことを気にするやつがいるとは思わなかったというような、不思議そうな顔で答えてくれた。
「五人全員、見た目ほど大した怪我じゃなかった。オルゴンに対する心理的な恐怖のほうが勝ってて、眠れてはないみたいだがな。まあそのうち、落ち着くだろうよ」
「そうでしたか。ありがとうございます」
安堵とともに礼を言い、咲羅は洗濯かごを持って外に運び出した。
「サクラ様?」
「ルースさん。戻ってて良かったのに。あ、でもその前に教えてください。洗濯する場所ってどこですか?」
「え……ええ?」
ルースは、勢い込んでそう言った咲羅に目を丸くする。
「おやめになってください。そんな……」
「明らかに人手足りてないじゃないですか。わたしでも出来ることありそうなので、やらせてください。で、洗濯するとこどこですか?」
眉間にしわを寄せたまま案内されたそこには、すでに一人、せっせと洗濯をしている女がいて、あの人に教わろう、と咲羅はルースを振り返った。
「ありがとうございます。あとはあの人に教わりますね。ルースさんもお仕事あるのに、付き合わせてごめんなさい。お昼までには戻ります」
渋面を作ったままのルースは少しその場にいたが、洗濯の仕方を教わり始めた咲羅が次に目を上げたときには、そこにはいなかった。




