第25話 ユリウス
最奥に戻ると、部屋の暖かさにようやく緊張がほどけ、咲羅はほうっと息をついた。
喉の渇きを覚え、同じように水を欲しているであろう黄金の獅子に、どうやって与えようかと、器になりそうなものを見回して探す。
そのとき、扉を叩く音がして返事をすると、先程のユリウスが何やらいろいろなものを持って部屋に入ってきた。
「失礼を。そのオルゴンを飼育するために必要な、とりあえずのものをお持ちしました」
「あ……ありがとう、ございます」
大きな器が二枚と、肩からぶら下げている塊はなんだろうか。
「このオルゴンには少ないでしょうが、鹿肉です。夕刻に届いていたので、鮮度もそれほど悪くはないでしょう」
咲羅の疑問を見抜いたように、ユリウスはぶら下げてきた塊を肩から降ろすと、持参した大皿のひとつにそれを開けた。もうひとつに、「水差しを戴いても?」と言われ、咲羅は慌ててその深めの皿に水を注ぐ。
「ホントに助かりました。お水ひとつ、どうしたらいいかわからなかったので」
礼を言うと、やはり彼は静かに微笑んだ。
「おいで。喉渇いたでしょ? このお肉も食べていいって」
咲羅の呼びかけに、金色の獅子はゆったりと近づくと、静かに水に口をつけた。これからの餌の問題も考えないといけないな、と思いながら、そっと離れる。
姿かたちはライオンのそれとよく似ているが、やはり一回りほど大きいような気がする。立っている咲羅と、同じ位置にあの宝石のような目が来るのだ。色はサンドラの髪のようなプラチナブロンドに近く、鬣にパサついた印象はない。空気を含んでふんわりとしているが、つやつやしていた。
護衛を言い渡されたガゼルとサンドラも、興味と戸惑いの混じった様子でじっとオルゴンを観察している。
「さっきはありがとうございました」
ユリウスの前に行き、頭を下げる。
「いいえ。お目にかかれて光栄です。呼ばれて駆けつけたものの、一見して私でどうにか出来ることではなかった。お出ましにならなければ、多数の負傷者を出した挙げ句、このオルゴンは殺されていたことでしょう。一番犠牲の少ない形で収めていただき、感謝しております」
ユリウスの言葉に、咲羅は目を見開く。衝動に突き動かされたに過ぎなかった。怒られる覚悟をしていたのに、まさか感謝されるとは。
そんな咲羅をまじまじと見つめ、ユリウスはやわらかく微笑んで言った。
「この世界に、だいぶ馴染んで来られたようですね」
「そう……でしょうか?」
どうぞ、と椅子を勧めると、ユリウスは会釈をして腰かける。ガゼルとサンドラにも呼びかけるが、やんわりと断られ、咲羅はユリウスの近くに腰かけた。
「まだ知らないことが多すぎて。いろいろ聞いてばっかりです。さっきだって、挨拶だとは思わなくてあんなだし」
「王宮のしきたりなどは面倒でしょうが、おいおい覚えていかれたらよろしいかと。私が申し上げたのは、サクラ様の存在が、この世界に馴染んでいらしたようだと思いましたので」
「存在……?」
ユリウスの言うことがいまいちわからずに首を傾げると、彼はまた、静かな微笑みを広げた。仕草や雰囲気が与えるのは老成した印象だが、見た目だけなら三十前半だろうか。彼の髪も目も、多分濃い茶色なのだろうが、暖炉のほかには数本の蝋燭しか灯りのないこの部屋では黒く見え、少しだけ親近感を覚える。
「本来、メルティアスとレア・ミネルウァは交わらない世界です。それぞれの世界に生きるものもまた、交わらぬよう世界には境界があります。それを超えようとするなら、その世界と繋がらなくてはいけません。たとえば、握手のような、それぞれの世界の者同士の接触。直に触れることで、互いの世界の境界がわずかに馴染むのです」
ああ、と咲羅はクレイセスを見つけたときのことを思い出す。
呼気を確認したあと、何度か呼んだが気がつかず、本当に生きているのかわからなかったから、頸動脈が振れているかどうか確認した。あれがいわゆる「ファーストコンタクト」だったのかと、自分からこの世界に近付いたことを知る。
「接触を果たせばまず言語が解され、言語を介して互いの理解が深まれば、互いが互いの世界に近くなります。サクラ様はあちらで、クレイセス騎士団長と話を?」
「はあ……話はしましたが、最初は全然信じられなくて。ちょっと危ない人かなって、思ってしまいました。でも翌日、もう一度話をしたときに、クレイセスに腕を掴まれて『光響』が見えました」
「掴まれた?」
「あ、危険かなって思って、逃げようとしたので……」
クレイセスは本当のことしか言ってなかったとわかった今は、疑ったことを申し訳なくも思うが。
するとユリウスはふっと、「彼でも女性に警戒されるのか」と口許に手を当てて、密やかに笑った。
「まあ、クレイセス様も必死だったのでしょうから、何卒お許しください。でもわかりました。彼はあなたの起こした光響でメルティアスに馴染み、あなたはクレイセス様が図った接触で、この世界と繋がった。あなたが了承を示してくださったことで、クレイセス様はあなたを連れて、境界を超えることが出来た」
「でも、最初はどうやって? お話の感じだと、クレイセスはここであっちと馴染んだ訳じゃないんですよね?」
「それは……それなりの代償と引き換えに、我々は世界を超える術を、持っています」
「それなりの代償……?」
少し困ったように、歯切れの悪い返事をするユリウスに、咲羅は先を促す。
「サクラ様」
ガゼルの声がして、諫めるような微笑みでもって首を横に振る。
「秘術ですので、どうか」
追及するな、というガゼルの様子に、困惑したユリウスの様子に。
咲羅の胸中に苦い思いが広がる。二人の様子から、半ば確信をもって言葉にした。
「……人命、ですか。わたし、誰かの犠牲の上にここにいるんですか」
咲羅の問いに、全員が息を呑んだのがわかった。
「なぜ……そのようにお考えに」
ユリウスが、動揺を悟られまいとするように、ぎこちない笑みでもって問う。
「だってわたしは、あなたの名前を教わらなかった。ただ『生き残った』セルシア補佐官だと聞きました。最初は、フィルセインて人の『襲撃から生き残った』のだと思ってました。でも……この世界では不思議な力を使う人は限られてるんですよね? だったら、召喚の代償として差し出されたのは、今いた補佐官たち。そして召喚したあとにあなたは『生き残っていた』……そういうことなんじゃないんですか?」
咲羅の言葉に、誰もが黙った。
その沈黙は、何よりの肯定だ。
それと同時に、彼の纏う空気が、「儚さ」であることを悟る。
わずかに警戒を帯びた雰囲気に、彼らはこれ以上、咲羅に犠牲の詳細を話す気はないことを察した。しかし、目の前にいる人のことくらいはと、口を開く。
「ユリウスさんは……? 大丈夫なんですか……?」
恐怖を宿した目で問われ、ユリウスは微笑む。
「さすがにまだ本調子ではありませんが、このまま死ぬような感じはしておりませんよ」
「じゃあ、その……王妃様が具合が悪いのって、おんなじ理由なんですか」
「それもあるかもしれません。ですがあの方は立ち会われただけです。世界を繋ぐために力を差し出していただくようなことはしていません。ユリゼラ様は元々、お体が弱くておいでです。聡明な方だが、出自が出自です。あれほど張り詰めた毎日を送られていれば、体調を崩されるのも致し方ないことかと」
「出自……?」




