第2話 少女
「……──すか。大丈夫ですか」
どのくらい時が経ったのかわからないが、空はまだ青かった。
初めて見る黒い瞳が、心配そうに自分を見つめている。
クレイセスははっとして、上体を起こす。急な動きについて来ない頭がくらっとして揺れたところを、恐る恐るといった体で、小さな手が支えてくれた。
「まだ急に動かないほうがいいのかも。救急車を呼びましょうか」
「いえ……それには及びません。ありがとうございます」
礼を言うと、目の前の──幼い少女は、安堵したようだった。ゆっくりと立ち上がり、短い丈の衣装の裾を払う。
先程見た高齢の女性とは違う、けれど簡素な衣服。元の世界では、女性は長い丈のドレスを着ていたから、膝丈で足の出ている衣装など、初めて見た。
「どちらからいらしたんですか? 軍服……ってことは、米軍の方ですか?」
そういうのは見たことないですけど、と呟く少女に、クレイセスは答える。
「私は、セルシア騎士団に所属している、クレイセスと申します」
「クレイセスさん、ですか」
ベイグン、とは、この世界の組織なのだろうと見当をつけて答えたが、少女が拾ったのは名前だけだった。まじまじとクレイセスを見ながら、次に何を聞くべきか、迷っているのがわかる。
「ええと……もの知らずですみません。その、『セルシア騎士団』というのが、わからなくて。ここは基地の街だから、あなたはてっきりアメリカの方かと思ってたんですけど、騎士ってことは、もっと別の国の方なんですね」
「別のクニ……というのが、わかりませんが。アメリカというところから来た訳ではありません」
言いながらゆっくりと立ち上がると、少女は驚いたように目を見開いた。
「どうしました?」
「あ、いえ……めっちゃくちゃ身長高いなあと」
少しのけぞる彼女に、クレイセスは笑う。
「私は平均的ですよ」
身長の差が高圧的になってしまったのか、少女はさりげなく数歩の距離を置いた。
改めてよく見ると、無造作に一つに括られているが、見たことのない黒髪だった。自分も黒い髪だが、それとは明らかに質の異なる黒だ。肌の色も、白いが自世界では見たことのない不思議な色合いをしている。
初対面の男に対する警戒心なのか、心なしか、彼女の顔色は悪い。怯えているようにも見えないが、なんと言うべきか、覇気が、なかった。
(違う)
(の、か……?)
自分が知る「セルシア」は二人だけだが、どちらも他を圧するほどの雰囲気でもって存在していた。彼女に、その片鱗はない。
しかし、自分をここへ送り出した界王妃・ユリゼラは、必ず会える場所に着くようにすると言ったのだ。そして、会えばわかる、とも。
自分はユリゼラのように、大地の意思を受け取る力は持たない。力を持つ者は、同じように内包する者を認識出来るらしいが、クレイセスには判別出来なかった。
「助けてくださって、ありがとうございます。ここには、よく来られるのですか」
「あ、はい」
返事をしたあと、彼女は不意に口許を押さえ。
「あの……わたしに、何か……されました?」
何かを窺うように、問いを発した。
「……? 何か、とは?」
しかしクレイセスには質問の意味が理解出来ず、そのまま問い返す。
「クレイセスさんの話してる言葉は日本語でも英語でもない……のに、言ってらっしゃることが、わかるから」
クレイセスは、当たり前にものを話しているだけだ。少女の疑問に対する答えは持っていない。ニホンゴやらエイゴやらはわからないが、この少女にとってはクレイセスと会話出来ることが不思議らしい。少女の目が、クレイセスを探るようなものになっている。
「そうだな……私は、人を探してここに来ました」
「人、ですか」
「信じてもらえるかどうかはわからないが、私は別のクニではなく、別の世界から来ました。自分でも、超えられたことに驚いています」
少女の目が、完全に「どうしたものか」という困惑に変わった。
「あなたの世界は、どんなところなんですか」
少しの逡巡を経て、少女が切り出した。
「そうですね……今は世界の一柱であるセルシアが失われて混沌としていますが、常なら豊かで美しい世界です」
「セルシア……?」
「セルシアは大地から遣わされた、人間と大地の世界レア・ミネルウァとを繋ぐ役目を果たす者のことです。我々の世界は、人心を掌握する王と、大地に安寧を祈るセルシアとの二柱がそろっていることで鎮定されています」
「……クレイセスさんが嘘をついてるようにも見えないけど、そんな制度で回ってる国は、聞いたことないですねえ」
クレイセスを見る瞳に変化があった訳ではないが、少しだけ、微笑んだように見えた。
「私から、質問をしても?」
「答えられることなら」
「この世界は、どのように回っているのですか」
「一口に答えるには、難しい質問ですね」
苦笑した彼女に、クレイセスは質問を変える。
「では、あなたがこちらにおいでの理由は?」
ここは、明るくなっている場所から少し外れたところだ。木々ばかりで、用事がなければわざわざ足を踏み入れないだろうと推測された。
「ストレス発散、ですかね」
「すとれす?」
ややあって、少女が答える。
「外圧から来る疲れ、みたいなものです」
「そのストレス発散は、しなくていいのですか」
「驚いたら気分が変わったので、もう大丈夫です」
邪魔したようで申し訳ない、と言うと、少女は軽く首を振った。
「お荷物とかは、初めからなかったんですか?」
「特に、持っていたものはありません」
「そう、ですか」
世界を超えることがどういった状況かわからなかったから、身ひとつで来た。武器も、持っていることで警戒されることを想定し、携行していない。
日差しが緩やかに夕暮れの色合いを帯びてきて、少女は黒く四角い鞄から白い袋を取り出すと、クレイセスに差し出した。
「わたし、そろそろ帰らないといけないので。よかったら、これ、召し上がってください」
薄く、カシャカシャと音のする白い袋の中を見ると、透明な袋にパンと思しきものがひとつと、同じく透明で硬い容器に入った紅茶らしき飲料が入っている。
「ありがとうございます。これは、どうやって開けたら良いのですか」
この質問に、少女は目を見開いて笑った。
「異世界設定、完璧ですね」
そう言うと、袋から出して、ふたつとも簡単に開封して見せてくれる。それをまた袋に戻して、「では」と踵を返して去って行った。