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第15話 父

「父に最初にひどく怒られたのは、四歳のときでした」


 幼稚園に上がった日。名前を呼ばれたら手を挙げてはーいと返事をする、それだけのことだが、上手に出来たね、と先生に褒められたのが嬉しくて、咲羅はにこにこしながら、仕事から帰ってきた父に報告をしたのだ。父の機嫌を、察知しないままに。


 「七瀬咲羅ちゃん」と呼ばれたのと同じように、父の名前を(くん)付けで呼んだ。それと同時に、自分の体が宙を飛んだことを、今も不思議と鮮明に覚えている。「親の名前を君付けで呼ぶ奴があるか!」と割れるような怒声が降ってきて、壁に叩きつけられた。一体、何がどうなって自分が宙を飛んだのかは、具体的には覚えていない。ただ叩きつけられた痛みよりも、父が恐ろしくて泣いた。


「生まれたときから、わたしはどういう訳だか父には懐かない子だったそうなんです。父が抱っこすると、泣き叫んで嫌がったらしくて。多分、父にしても最初から愛情がなかったとか、そういうことではなかったと思います。うちは男の子が欲しくて、父方の祖父母は名付け親になりたいと主張しながら、女の子の名前をひとつも用意していなかったそうなんです。父がそれを言うと、『じゃあ、愛で』って、辞書の最初に載ってる女の子の名前を示されたそうです。それくらい、七瀬の家にとって、女の子はどうでも良かったみたいで」


 欲しいものに純粋なだけ、だったのだろう。欲求を満たしてくれないものに、興味が持てない人たちだった。


「でも、父はそれに腹を立てて、一所懸命にわたしの名前を考えてくれたんだそうです。わたしは三月中旬に生まれたので、弥生とか桃とか、色々候補がある中で、その年は早くからとても綺麗に桜の花が咲いた年で。両親は、この年の桜にあやかろうと、音はサクラに決めたそうです」


 満開の桜の下で、生まれたばかりの咲羅を抱いた、母の写真を見たことがある。


「わたしのいたところには漢字という文化があって、一文字一文字に意味や読み方があるんです」


 宙に指で「咲」と書き、花が開くことや、笑うという意味を持つこと。「羅」と書き、薄衣を表す文字であり、同時に連続した、という意味を持つことを説明する。


「連綿と咲き誇れ。笑顔であり続けられるように。そんな意味を込めて、『咲羅』と名付けてくれたんです」


 名前は、親から最初にもらう愛情の形だと、幼少期に誰かに教わった。確かに、生まれたときには愛情があったのだと思う。幸せを、願ってくれていたのだと。


 けれどそれは、成長するにつれて「例外」もあるのだと、身に染みるようになった。あるいは、変化してしまうものなのだと。


「わたしが八つのときに、父が浮気をしました。当時勤めていた会社の令嬢に手を出したらしくて、その人が自宅に来た日のことも、よく覚えています。だってびっくりしたんです」


 写真で見た、祖母の若いときにそっくりで。


「彼女は、母に離婚を迫りました。お金は出すから子供を全部連れて別れてくれって。母は、そんなはした金で子供を三人も育てられるかと突っぱねたそうです」


「サクラには、兄弟がいるの?」


「はい。四つずつ離れた妹が二人います。当時は、まだ一番下の妹が生まれたばかりでした」


 ユリゼラは黙って、咲羅に続きを促す。


「その日の夜、遅くに帰って来た父と、母は大喧嘩をしました。わたしはその騒ぎで目を覚ました二番目の妹が、怖がって泣くのを抱っこしながら、それでも両親の喧嘩を聞いていました。父の言い分は、この年になった今でも理解できません」


 お前が夜俺の相手をしないからだ! お前が悪いんだろ‼ と母を責め立てる声に、母が泣きながら、妊娠中にところ構わず出来るわけがないでしょう⁉ と立ち向かっていた。

 お前なんか妻でも嫁でもない! と罵倒した父の声を、咲羅は自分が否定されたように思って聞いていた。子供たち連れて出て行けと叫んだ父の言葉が、咲羅の胸を圧倒的な抑圧とともに貫く。


 要らない子なんだ。


 子供心にも、あの視線は「(さげす)み」だと、感じていた。だからこそ、その事実は何よりの質量をもって、咲羅にすとんと収まった。


 とにかく離婚するからな、と言って部屋を出た父に、絶対出ていきませんから! と叫んだ母は、感情を持て余したのか、食器棚にあった皿を気が済むまで床に叩きつけて割った。聞こえてくる破壊の音が怖くて、咲羅は妹の耳を、必死に塞いだ。翌朝、恐る恐るリビングをのぞくと。そこには憔悴した母と、一面に広がる大小の破片が存在していた。


 動かないのか、動けないのか。咲羅を見てテーブルに突っ伏した母を尻目に、とにかく破片を箒でかき集め、妹たちが怪我をしないように出来るだけ丁寧に雑巾をかけて……そのまま眠ってしまったらしい母に気がつかれないよう、ランドセルを持って家を出た。


 それから数日、母はほとんど口を利かなかった。あのときはわからなかったが、今はわかる。母も思ったのだ。子供たちさえいなければ、自由にやり直せるのにと。母は「別にわたし、子供が好きって訳じゃないのよ」と、何かの折にそう言っていた。それは静かな、抵抗と主張だったのだろうと思う。けれど幼い咲羅には、自分たちのことが好きじゃないのだと、そう言われた気にしかならなかった。


 母が好きになるようないい子でいなくちゃ捨てられる。


 その危機感が、今の咲羅の大部分を、形成しているようにも思う。


「結局、社長が母に謝罪を申し入れたそうです。父は相手の家から拒否されたのでしょうね。母が応じないこともあって、離婚にはなりませんでした」


 けれど。


「あのとき、離婚してくれていたらと、わたしは何度も思いました」


 父は、会社に居られなくなったのだろう。転職して、教師になった。咲羅のいた地域では、地理的な問題から必ず離島への赴任が課せられる。今思えば、父にとってはいい制度だったろう。居づらくなった場所から、正当な理由をもって移動出来るのだから。


 そしてその引越は、咲羅にとってもいい環境で過ごすことが出来た時間だった。七瀬家が、再スタートを切れたかに、思えた。

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