第二話 記憶喪失の少女・二
アンダースには時間というものが存在しない。
否。
正確に言えば勿論存在はしている。だが、そういう概念はあっても、実際に機能はしていない。時を刻む仕組みが何一つとして整っていないからだ。
その概念は、古代人たちの遺した文献による。彼らは日々を『二四時間毎』に『一日』として区分けし、過ごしてきた。その正確な時間をはかるための道具も存在していた。だが、古代人たちが滅んだ今、時を刻む遺物はいまだ発見されていない。故に、時という概念はあっても、時というものは存在していない。
それでも、アンダーズが困ることはない。時というものが有ろうと無かろうと、そこに大した意味はない。それは、ハルも同じだった。
ハルたちがオートに出てから、どれだけの『時』が経過したのだろう。歩き疲れた二人は、瓦礫の陰で腰を下ろし、身体を休めていた。
「何か、思い出す気配はあるか?」
「いえ、あの……すみません。何も、思い出せないです……」
心の底から申し訳なさそうに謝るミカは、見るからに気落ちしていた。無関係のハルを巻き込み、こうして町を案内してもらっているというのに、何の手がかりも見つからないのが申し訳ないのだろうか。三角座りをして、くっつけた足の間に顔を埋めると、はぁぁぁ、と長い息を吐いた。
「私……何なん、でしょうか……?」
「さあ。俺の記憶ではあんたに会ったことはないし、だから……俺に聞かれても困るな」
「そう、ですよね……」
ハルのその言葉で、ミカはさらに落ちた。このまま放っておいたらどこまででも沈んでしまいそうで、何とかして励ますことはできまいかと言葉をひねり出したハルだったが、いかんせん、こういったことに慣れていない手前、良い言葉が見つからなかった。
……そもそも、ハルは巻き込まれた側なのだから、仮にミカがどうなろうと無関係であることに変わりはない。ただ、それでも、心のどこか……本能じみたものが、彼女を放ってはおくなと命令しているのだ。彼に。
「まあ……はなからここには期待してなかった。逆に言えば、あんたはオートの人間じゃないってことだ。それが分かっただけでも、収穫だと思えばいい」
「……ハルさん……」
小さく笑うミカ。それを見て、ハルは首を傾げた。
「……何かおかしいことでも言ったか?」
「いえ……私を助けてくれて、本当にありがとうございます、ハルさん」
「いや、突然庭に落ちてきたら、嫌でも助けるだろ、普通」
穏やかな空気が二人を包んでいた。
——そんな時だった。
「っ!」
突然、ハルがミカの身体を抱き寄せた。小さな悲鳴と共に、ハルは瓦礫に隠れるようにして身を潜めた。
「ははは、ハルさんっ……!?」
「静かに」
口元に指を当て、その指を、今度は二人が身を潜める瓦礫の裏へと向けた。その少し遠くにいたのは、青い衣装に身を包んだ二人の男。ハルのその行動が何を意味するのか。記憶は無くとも聡いミカはすぐに理解した。
「……あれがセイフ、ですか?」
「ああ。何か話してるみたいだ」
男たちは、ちょうどその場所で立ち止まり、何かを話し込んでいるようだった。何を話しているか、その内容までを聞き取ることはできないが、その手段ならば持ち合わせていた。
ハルは鞄から小さなボールを取り出した。手のひらの半分ほどしかない、灰色のボールだ。その形状を除けば、ただの石ころのようにも見える。それを、身を隠しながら、男たちの方へと転がしたハル。瓦礫の中を転がったボールは、彼の狙い通り、男たちのそばで停止した。
「音を記録できる遺物だ。こんなこともあろうかと持ってきておいて良かっ……」
それを終え、ミカへと視線を戻すハル。しかし、そこで言葉を失った。
「……ミカ?」
「……ぁ……あぁ……」
先程まで元気そのものだったミカが、突如として頭を抑え、塞ぎ込んでいる。言葉にならぬ小さな呻き声をあげながら、肩を震わせ、まるで『何かに怯えて』いるようだった。
「おい、ミカ。どうした、何かあったのか?」
肩を掴んで落ち着かせようとするが、ミカは震えたまま、ずっとその調子のままだ。
この様子を、ハルは知っている。ミカが名前を思い出した時、ちょうど、これと同じような状態になっていた。ならば、可能性としては一つ。
「ぅ……ぁ……」
「ミカ、落ち着け。何か思い出したのか?」
オートを散々歩き回っても何一つ手掛かりのなかったミカが、セイフの男たちを見た瞬間に、何かを思い出そうとしている。
なるべく彼女の負担を減らそうと、ハルはミカの背を撫でた。優しく、何度も、何度も。暫くして、少し安定してきたのか、彼女の震えは小さなものへと変わっていった。
浅く連続で行われていた激しい呼吸も、穏やかなものへと戻っていく。二人が初めて出会った時のものよりも一段階大きな動揺が、ほんの少しハルに希望を抱かせた。
「大丈夫か?」
「ぅ、ぁ、はい……マシに、なってきました……」
ミカの虚ろな目がハルを捉えた。だが、その目が映しているのは、ハルのようではない。何処か、遠いところを覗いているように思えた。
「ミカ。何か思い出せそうか?」
「いえ、何も……何も、思い出せ、ません……」
「……そうか」
落胆するハル。しかし、ミカは『でも……』と続け、
「私、あの服を、知ってる気がします……」
そう言った。
「服? セイフの着てる青い制服のことか?」
「はい……あの、『気がする』だけ、なんですけど……」
ハルは俯瞰した。今まで何の反応も示さなかったミカが、これほど強い反応を起こした。恐らく、ミカとセイフの二つの存在は無関係ではないのだろう。
「……となると、ミカはセイフと何か関係があるのか……? そうなると、セイフがミカを知らないはずがないけど……」
おかしな話になる。レンコの話によれば、セイフはミカの情報を一切掴んでいない。だが、ミカとセイフに関係があるとするなら、そこには大きな食い違いが生じる。
或いは、レンコさえ……若しくは、セイフの下層部にさえ知らされていない情報がある、ということだろうか。
ハルは瓦礫の裏を覗き込んだ。先程までいたセイフの二人の姿はとっくに消えており、転がしておいた記録用のボールは変わらずそこにあった。立ち上がり、それを回収してからミカのもとへと戻った彼は、それを鞄に仕舞い込むと、ミカに肩を貸して立ち上がらせた。
「一旦帰ろう。こいつの確認もしたい」
「はい……大丈夫です、歩け、ます……」
若干ふらつきの残るミカと共に、ハルは自宅へと足を向けた。
地下工房の作業机の上で、ハルは例のボールを操作していた。両手でそれを掴み、それぞれ反対方向に捻ると、パカリと開いたボールを引っ張った。真っ二つに割れたその中から、四角い板が姿を現わす。
慣れた手つきで、その板の中央に位置する赤いボタンを押したハル。すると、その両端から音が発され始めた。ノイズがかっているが、それは二人の男の声だった。
『しかし……何なのかも分からないものを探せって、上も酷な命令するよな』
『上も分かってないんだろ。空から落ちてきたって言うけど、それも本当か怪しい。見間違いじゃないのか?』
『町の人間が見てるんだと。遠くて何かまでは分からなかったらしいけどよ』
『そんな情報だけで探せってなぁ……何言ってんだって感じだよ』
『ま、適当に探してるフリしてれば済むだろ。どうせ見つかんないって』
『そうだな。行くか』
その言葉を最後に、彼らの声は聞こえなくなった。最後に残った足音から、その場から立ち去ったものと思われる。
しかし、これで幾つか判明したことがある。会話の内容から、彼らはセイフの下層部。幹部クラスではない。そして、『少なくとも』下層部の人間はミカの存在を知らない。そして、ミカの落下を見た人間も、それが何なのかまでは分かっていないということだ。
ハルは開いたボールを閉じ、鞄に押し込んだ。そして、ソファで虚ろな目をしているミカの隣に座る。
「焦るな。記憶喪失なんて、そう簡単に治るもんじゃない」
「……はい。それは、分かってるんです、けど……」
どうにも歯切れが悪い。何かを悩んでいるようだった。
「何をそんなに気にしてる?」
「いえ、あの……彼らの着てた服、どこで見たんだろうって、気になって……」
「そこは思い出せないのか?」
「はい、すみません……」
「ああ、いや、責めてるわけじゃない。気にするな」
慰めるつもりが余計に気負わせてしまう形となって、ハルは慌てて修正した。
「ハルさん、私……」
「なんだ?」
ミカは少しの間口を噤んで、またすぐに開いた。
「やっぱり、セイフと何か関係があるんでしょうか……」
「さあ。特徴のある制服だし、それをたまたま強く記憶していただけかもしれない。今はどうとも言えないな」
何も、あの服に見覚えがあるからと言って、ミカとセイフに関係があると決まったわけではない。確かに、あそこまで整った服は珍しい。それが強く印象に残っていただけという可能性もある。
今はとにかく、情報が少なすぎるのだ。何かを断定するにはその証拠も根拠も、何もかもが不足している。判断するには些か早計だというものだろう。
「ただし……」
と、ハルは付け加える。
「何か情報があるとするならセイフ管理塔だろう。あそこに行けば、或いは何か分かるかもしれない」
「でも、管理塔は危険なんじゃ……?」
「入るだけなら問題ない。セイフも知らない裏口がある。俺とレンコで発見したものだ」
管理塔への裏口を二人が発見したのは、ほんの数ヶ月前の出来事。時折観察に向かうが、セイフがその存在に気付いている様子はない。
入る『だけ』なら、危険はない。問題は、その後だ。それほど重要な情報をその辺にポイと置いているわけがない。故に管理塔の奥深くまで侵入しなければならないが、そうなるとセイフの人間との接触の機会も増える。管理塔への不法侵入は基本的に死刑。見つかれば死ぬ。
それを説明すると、ミカは青い顔になった。
「忍び込むなら俺一人だ。身動きが取りやすいし、最悪、見つかったとしても遺物を修復できるという有用性がある。死刑にはならないかも」
「忍び込む気ですか!?」
「いや、流石に準備も何も整ってないし、しないさ。するとしたら、って話だ」
襲い掛からんばかりの勢いで迫ったミカを押し返しながら、ハルは否定した。準備もないままに管理塔へ忍び込むほど、彼も愚かではない。
何にせよ、彼が最も伝えたかったのは、これで八方塞がりだということだ。町の中ではミカの記憶を取り戻す手がかりはない。あるとすればセイフの本部、管理塔だが、そこへ忍び込むにはまだ時間がかかる。今すぐに彼女の記憶を取り戻すことは不可能に近いということ。
「まあ……一先ずはここで生活するしかない。行く当てもないだろ?」
「それは、まあ……そうですね……」
ミカがそう言うと、ハルは太ももを勢いよく叩いて立ち上がった。
「なら、準備をしよう。こんな狭いところで二人で暮らすわけにもいかないだろ」
ポカンとするミカを他所に、彼は一人、乗り気だった。