異界の者
「起きなさい。黒の一番」
冷たい声が響いた。記憶に無い呼び名。しかし自分のことだろうと、黒の一番と呼ばれた男はぼんやりとした意識をじょじょに覚醒させながら辺りを見渡した。見覚えのない部屋だった。その部屋は窓もなく牢屋のように金属製の格子があった。ガチャガチャと弄ってみるも、開かない。しかし部屋自体は快適で、適温適湿。それに柔らかなベッドもあった。
「……あんただれだ? いや、そもそもここはどこなんだ?」
異様な状況に眠気はすっかり覚めて、彼は金属格子の向こう側で、腕を組みながら佇む少女に視線を合わせた。同時、常識が崩れ去っていく。
いや、少女なのだろうか。身長はそれなりに高かった。医者が着るような白衣を薄紅色のブラウスの上に身につけていた。なぜか胸の下に黒いベルトを巻いていたが、それに意識を向けていると無愛想な面構えでこちらを見下すような金の瞳が一層鋭くなった。……気にしているのかもしれない。
それだけならまだいいのだが、赤く燃えるような髪を腰辺りまで伸ばして、さらにその髪を分けて頭から小さな二本角が生えているのだ。
さらには背中から髪と同じ竜のような深紅の翼、お尻の辺り、ロングスカートのなかからは尻尾が出ていて、ピロピロと活発に動いていた。造りもの? 否、あまりにも自然で、しなやかで、偽物とは思えない。
「ワタシの名前ですか。レーヴェ・アルトゥール。……レーヴェだとか、博士だとか適当に呼んでください」
ズキリと、脈動にあわせて頭が酷く痛んだ。彼女の姿を見ていると、鼓動が激しくなって息が掠れた。脳のなかでザザザザと、砂嵐が掛かっていた。こめかみに銃口を突きつけられたかのような焦燥感。頭のなかで誰かが彼女の名前を叫んでいる気がした。レーヴェ! レーヴェ! ……と。やかましくて、うるさくて、黒の一番は目を細めた。彼女も似たような痛みが生じたのか、冷たい相貌が僅かに歪んでいた。
「ここはどこなんだ? お前は……誘拐犯か何かか?」
黒の一番が尋ねると、竜の少女は……レーヴェは淡々と答えた。
「あなたが望んだのではありませんか。世界に絶望し、自分を恨んでいた。勇気があれば死すらも許容できるほどに。自己から逃避行為をしていた。あなたは現実を拒絶した。あなたがこの道を選んだ」
「意味が分からない。家に帰し……」
家……? どこだ? 帰る場所は一体どこにある。分からない。覚えていなかった。頭のなかは真っ白な白紙。いや、言語や物の常識はある。常識が間違っていなければこの状況は異常で、彼女の容姿だって狂っている。けれどどうしてか違和感を感じなかった。
何もかもが混濁していて、不思議と彼女に感じた異質さも溶けるように消えていた。
「帰りたいのですか? でしたら先に謝罪しておきましょうか。あなたに帰る場所などない。あなたがそこを大切に思っていたとしたならば、なおさらです」
「意味分かんねえ…………。そもそもここはどこだ? 牢獄か何かか?」
「ココハダイサン世界。オマエガイタ世界トハ別ノセカイ。……クロノ・イチバンニツイテハ、我ハ知ラヌ。イナ、理解ノ必要ガナイ」
聞き覚えのある声がした。下手くそで聞き取りづらい日本語が響くと同時、空間が歪み、何も無いところから少女が突然現れる。
玉虫色に輝く髪が揺れて、深紅の瞳が輝く。しかしその色はわずかな動きに合わせて波打ち、鮮やかな緑にも変わっていた。忘れようにも忘れることなどできるはずもない浮世離れしたその姿。……橋で花を売ってきた少女だった。
「い、今一体どこから……!?」
「ワレハ、一デアリ全ナルモノ。人共ハ我ヲ時空ノ神デアルトスル。我ガ名ハ、ヨグ=ソトホース。時空ヲ跨グコトナド容易デアル」
発言の直後、彼女の髪が逆立ち、虹色の輝きを強めたかと思うと、その場から消えていた。そして背後からポンポンと肩を叩かれた感覚がして、ハッとして振り返ると彼女はすぐ背後に瞬間移動していた。少女はどこか自慢げに自身の服の裾を掴み、優雅に一礼をする。金属製の格子を越えて、……手品には見えなかった。
黒の一番は唖然として、どうしようもなく言葉を失った。そこに付け足すようにレーヴェが口を開いた。
「そこの神の力を借りて、あなたをここに転移させました。……花を貰ったでしょう?」
「……貰ってはいない。ちゃんと買った」
「揚げ足を取らないでください。とにかく、その花は資格です。そこの花瓶を見なさい」
言うとおりに、テーブルを飾っていた花瓶に視線を向ける。そこにはヨグ=ソトホースと名乗った少女が寄越したあの雪のような花があった。しかしそれは蕾ではなく、白銀の花弁を開いて神々しく咲いていた。
「咲いているでしょう? 銀の花というのですが、それが咲くのはそこの融通の効かない時空の神に気に入られた証です。そしてあなたは花を咲かせて、元いた時間と空間を断絶しここに来た。時空の移動をした者の代償として大切な記憶を忘れ、忘れられる」
忘れる? なにを? もとよりこの脳みそは空っぽだった。なにを思い出そうとしても出てこない。大切な記憶を忘れる? なら言葉を忘れてしまえばよかったのだ。なんだってどうでもよさそうな思い出一つさえないのか。頭のなかにあるのは誰かへの罪悪感と虚しさ、何もできなかったという無力感だけだった。
「俺は、それで何をすればいいんだ?」
「あなたには生物兵器になってもらいます。そのために人体実験もします。あなたには誰よりも力強く、誰よりも魔を追求した存在になってもらいます。ワタシは魔王を殺さなければならない。あなたには最強になってもらう。そうでなくては困るのですよ。黒の…………一番。ワタシはワタシの理由のためにあなたにどんな非道なことでもするでしょう。先に謝っておきましょうか?」
リーヴェは薄気味悪い笑い声をあげ、ペラペラとまぁ饒舌にこれから人体実験をしてやると説明してくださった。……白衣の裾が寂しげに揺れていた。どうしてかその様子を見ていると胸が締め付けられる。
黒の一番は助けを求めるようにヨグ=ソトホースの方を見るも、既に彼女はどこかへ行ってしまっていた。拒絶の選択は……できそうになかった。ただ空っぽになった脳みそを埋めるにはちょうどいいかなんて考えて、深いため息をして受け入れたのだった。