葉
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しばし呆然としていた。俺は何が起きたか理解できず、途方に暮れていた。そしてふと我に還って、一つのことを思い出すように推定した。おそらくは受験に落ちたのだ。そう実感したのはすぐ近くで落ちたと号泣する者を見たときだった。
彼らは悲しんでいた。かたや歓喜を隠せずにいるなか、その差は激しかった。この身を焼き焦がすような虚無感はきっと彼らと同じ理由なのだろう。もはやなにも記憶は無かった。ただ辛いだとか、苦しいだとか、そういった負の感情だけが全身を支配していた。
いや、この心がそれそのもののような心地さえした。ひとまず、両親に事実を伝えなければと思った。彼らの顔も今このときは深く霞掛かっていた。手動の充電器が差しっ放しになっていたスマホを、気付けば手に持っていた鞄から取り出した。
何もかもに見覚えが無かった。けど漠然とこれは自分のものだという感覚がした。……連絡をしたが、『母』と書かれたアドレスは既に使われていなかった。『父』からも返信はこなかった。しばしぼんやりと画面を見詰めていた。
きっと失望させたに違いない。絶望せずにはいられなかった。どうせ何度繰り返したところで何も成し遂げられない。……心が限界に達して、嫌なことを全て脳の奥底へと封じ込めていく。
昼時に落ちたのを確認して、亡霊のごとき足取りで目的もなく歩き、また電車に乗り続けた。新宿から高尾山口まで各駅停車で向かい、けれども下りるわけではなくまた戻っていく。そんなことをして、適当にこの世界のどこにも無い場所へ向かい続けていると、気付けば夜になっていた。
スマートフォンが揺れる。確かめてみると、
『お前はどこにいる。生きているのか』
などと書かれていた。どうしてだろうかニホンゴの文章を見るのも久しい気がしたが文意は理解できる。……生存確認であった。自殺したと思われたのか、いや、いっそしてほしかったのだろうか。
『落ちたので、落ち着いたら家に戻ります。ごめんなさい』
俺は淡々とそんな返信を送った。その後もバイブレーションが連続するものだから、嫌になって電源を消した。ぼんやりと夜の喧騒で嫌になるくらい乱立し、光輝するビル群を抜けて、人通りの無い橋にいた。夜闇に染まる川。水の流れる音だけが聞こえた。この場所だけは明るくなかった。薄暗い公園へと続く大きな橋で、点々と遠感覚で並ぶ街灯のみが周囲を照らす。
なんとも哀愁漂うところだった。まるでここだけ違う世界でさえあるような気がした。……橋の中央に少女が立っていた。現実世界を完全否定するような虹色の長い髪をしていた。染めたのだろうかとも思ったが、風が吹くと白い簡素なワンピースと共にその髪は揺れ、光の色彩のごとく煌めき、繊細に赤を橙へと、青を紫へと変えていた。瞳はより奇っ怪であった。深い紅であり鮮やかな緑でもあったのだ。
「……こんな夜遅くになにしてるんだ? 両親はどこにいる? そんな薄着で寒くないのか?」
俺は平凡を装った。本当はこの非現実的な少女と関わりを持ちたかった。嫌な現実から逃げたかったとも言えるし、途方も無いほどの運命的なものも感じた。
頭痛がした。彼女を見ていると自分がここにいてはならない気がして、焦燥感がした。けどその感覚はまるで他人事のようでもあった。
少女はこちらに気付くと、大きく目を見開いた。幻想的で、夜を映しながら輝くその瞳は、さながらオーロラのようだった。
「オマエハ自分ガ分カルカ?」
下手くそな日本語だった。しかしそんなことはどうでもよくて、おかしなことに自分の名前を答えられない自分がいた。…………***。ぼんやりと、頭にその文字は浮かぶ。けれどそれは本当に自分の名前なのか? いままでその名前を呼ばれたことがあっただろうか。
――――記憶がなかった。だから沈黙した。
「ドウヤラ壊レテシマッタヨウダナ。クカカ……。記憶ハソノ人ガ歩ンダ道デアリ、人生ダ。貴様ニソレハナイ。貴様ハモハヤ誰デモナイ。分カリエルダロウカ」
「……はい? なんて言ったんだ?」
上手く聞き取れずにそう尋ねたが、少女は答えなかった。代わりに今この時代すらも否定するように花篭から大きな蕾のついた一輪の花を取り出した。雪のように白い花弁だった。けれども茎は若干うなだれていた。
「ハナヲカッテクレマセンカ?」
あまりにも唐突だった。それに花など、いらなかった。そもそも見せられた白銀の花はうな垂れていて、咲くとは思えなかった。しかし、その咲かない花が何かを揺すぶっていた。狂気的なまでに花に釘付けになっている自分がいた。
「いくらだ?」
「ジュウエンデス」
淡々としたやり取りだった。少女が花を手渡す。手に取ると何だか頼りなくて、葛花のように思えた。
「……咲くのか?」
「サキマス」
少女は断言した。刹那、心臓が震えた。世界が止まったような、景色が灰色に染まって、この花を中心になにか途方もないことが起きた気がした。
「今、一体……!? おい、この花」
咄嗟に何かを尋ねようとした。だがそのときにはもう、少女の姿は無くなっていた。
「サキマスヨウニ……サキマスヨウニ」
神に祈り願うかのような、酷くか弱い声だけが残っていた。しばし呆然としていたが、やがてふと現実に引き戻されて、萎んでしまいそうな花と共に帰路につこうと思ったのだった。……帰路なんて、思い出せないのに。