6 いくら星を眺めても、この世界のすべてを窺い知ることはできない
6 いくら星を眺めても、この世界のすべてを窺い知ることはできない
「ねえ、マンティコア。マンティコアってば。」
深い海底洞窟。そこには生命の奥深くに隠された神秘があり、その神秘は何も語らない。語るのは、ただ、愚かな人間のみ。
「ねえ、聞いてるの?」
喉に引っかかる、変に甲高い声。
「おりゃ。。」
直後、俺の頬にピシリと得も言われぬ、ただ、鞭で打たれたような痛みが走った。
「何するんだ。」
俺は振り向く。そこには、でっぷりとした主張の大きい腹。体を覆う、芝生のような黒い毛。そして、てかりにてかった脂ぎった顔。それらは緑色の面積の少ないドレスに身を包んでいる。
「アルラウネか。いたのか。」
「いたのか、じゃないわよ。どうしたのよ。しっかりしなさい。」
そんな母親のような口調でアルラウネは言う。
「俺は大丈夫だ。」
アルラウネに構っている暇などない。こんなことをしているうちにヒュドラの生命は刻一刻と失われていくのだ。体を蝕むあの激痛。それを意識がない中もヒュドラは苦しみ続けているに違いない。どうして俺が死ななかったのかは知らないし、今はどうでもいい。カリテはあれを呪いだといった。なら、俺の何万倍の苦痛をヒュドラは受けているに違いなかった。
ぎりぎりと、俺の心臓は見えない手で握られる。それは苦しくて、苦しくて、今にでも逃げ出したくなる気持ちの悪さだった。それでも、俺は、一歩進むごとに胸が苦しくなろうとも、俺は、前へと進まなければ、ならない。
「あんた、どこに行けばいいのかわかっているの?」
「リバー魔ウンテンだろ?」
「それがどこか分かっているのかって聞いてるのよ。」
「あれだろ。」
空にはだんだんと白い雲が増えてきていた。少し、青空が見える。雲はまだ白いので、雨が降る恐れは少なそうだった。
「そうだけど・・・分かってて進んでたの?」
「いいや。」
ただ、進んでいたかった。進めば進むほど、胸は苦しくなる。でも、進まなければもっと、もっと苦しい。涙が出そうになって、何もかも諦めたくなってしまう。
その時、一陣の風が吹く。湿気を含んだ、風。冷たい風。それが俺を責めるように俺の頬を殴りつける。そして、空気が変わる。それはこの世界に来てから味わったものとは少し違っていた。殺気を含んだ、鉄を口の中にそのまま突っ込まれているような無機質な空気ではない。もっと、有機的で、柔らかみがあって、そして、驚くほど苦い空気だった。
「待ちなさいよ。」
アルラウネが進もうとしていた俺の背に投げかける。
「急がないといけないんだ。」
「何を、悲劇のヒーローぶってんのよ!」
叱り飛ばすような声。それは、震えることのなかった俺の心を微かに揺るがす。
「悲劇のヒーローぶってるだと?」
それは聞き流せない言葉だった。それは俺を侮辱する言葉でもあり、俺にとってはそれ以上にヒュドラを侮辱する言葉に聞こえた。
ざわざわ。俺の心は、歯車が軋むような嫌な音を立てた。それは奇妙な感情だった。今まで感じることさえなかった、奇妙で、一層胸が詰まるような感情。
「そうよ。女がかばって死にかけてるからって、そんな自分が死にそうな顔をして。あんたのキャラじゃないのよ。」
「お前は!お前は何を言っているのか分かっているのか!」
途端、俺はアルラウネに殴りかかっていた。アルラウネは俺の攻撃を予想していたかのように蔦で俺を襲う。無数の蔦を蛇のように俺の体に打ち付ける。だが、俺は避けない。真っ向からツッコむ。
そして、体中痛みで熱くなりながら、俺はアルラウネの蔦の壁をつっきり、
そして、俺の顎を衝撃が襲った。俺は力なく、その場に倒れる。アルラウネの強力なアッパー。目に火花が飛ぶ。
「今のアンタでは私に勝てない。」
「くそっ。」
俺は立ち上がる。そこをアルラウネは容赦なく襲う。体勢を整えることができていなかった俺はもろに蔦の攻撃を食らい、後方に突き飛ばされる。そして、倒れた俺を容赦なく、蔦が叩き潰す。
「このっ。このっ。」
アルラウネの出す声は何故か湿り気を帯びていた。すりつぶされた地面の草が、かぐわしい匂いを立てている。どうして、お前が苦しそうなんだよ。
「今のあんたを見ていると、ムシャクシャするのよ。なんで落ち込んでるのよ。しゃきっと、しゃきっとしなさいよ。いつものように世界をバカにしたように、ニヒルに生きなさいよ!」
蔓が俺を打ち付けるたび、俺の体は地面をはねてバインドする。赤黒い血が口から溢れる。
俺は立ち上がる。どんな攻撃よりもアルラウネの攻撃は体に響いた。内臓が潰れたかもしれない。目の前に蔦が迫る。俺はその蔦を勢いよく手の甲で薙ぎ払う。蔦は簡単に粉々になる。
「俺がヒュドラをあんな目にあわせたんだ!だから、俺が、俺が、俺が助けなきゃいけないんだ。」
いちいち蔦に構っている余裕はない。体で受けながら、再び突破する。痛みは何故だか俺の気持ちを軽くしていた。やはりマゾなのかもしれない。蔦の壁を突破し、俺は渾身の一撃をぶちかます。だが、それはアルラウネのその体格には似合わない軽い身のこなしで簡単に避けられる。そして、俺の顔を連続ラッシュが襲う。でも、倒れることはできない。
「あの女は勝手にあんたを助けた。だから、あんたが気負うことなんてないじゃない!」
一発一発、アルラウネの拳に、アルラウネの思いが乗せられていた。それは俺を思いやる温かい、いや、むせかえるほどに熱い気持ち。友情。
「あんたが、やらないといけないんじゃないわ。あんたは、やるの。自分のためじゃなくて、あの女のために。だから、だから・・・」
アルラウネの顔を見る。その顔は鼻水と涙とでとんでもない現代アートと化していた。きっとどんな美術家でもその顔を表現できまい。絵や彫刻なんかでは、この俺たちの熱い友情を現すことはできまい。
「私もいるの。私がいるの。だから、頼りなさいよ。辛いんでしょう。辛いんなら、私に言いなさいよ。助けを求めなさいよ。だって、私たち――」
そして、アルラウネは言った。
「恋人じゃない!」
森に響く反響を打ち消すように俺は神速に達した拳でアルラウネを殴る。
「どさくさに紛れて何を言っとるのだ!」
だが、俺の胸のつっかえはもう小さくなっていた。無くなってはいないけど、もう、苦しむほどじゃない。アルラウネは鼻を抑えて地面に転がり、身もだえている。
「俺の負けだよ。アルラウネ。」
ぴトンという、携帯の着信音がする。俺の情報が更新されたのだろう。俺は馬鹿々々しくなって、笑えてきて、そのまま地面に転がる。そして、沈むように眠った。
目を覚ますと、一面の星空が踊っていた。ただただ、喜びのまま無邪気に笑う子どものような星空だった。この自然の中では、砂粒のような星でさえ見ることができる。田舎でも街灯はあったからこんな星空は久しぶりだった。山の上で一人で自転車を走らせて見た記憶がある。その頃は色々と大学の進学について悩んでいたころだった。親に目指していた大学とは違う大学に行くように言われて、悩ましい限りだった。その時の星空は俺の悩みを消し飛ばしてくれた。今の星空もそう。俺の悩みなんてちっぽけで、悩んでいるなんて馬鹿々々しい、なんて青臭いセリフを言うつもりはない。ただ、心を洗うような星空は、俺の目も、心も楽しませてくれた。そんな楽しみの中、俺は辛いことなんか忘れてしまっていた。無くなったわけじゃない。こうやって思い出していると、胃に押し込めてくる何かがある。
でも、やっぱりちっぽけだ。それでいいんだ。アルラウネを怒らせるほど俺はアルラウネを心配させていたんんだ。
「起きてるか?アルラウネ。」
俺は傍らにいるはずのアルラウネに問う。
「怪物は眠らないわ。」
「じゃあ、俺はどうなるんだよ。」
「心が疲れたってだけよ。」
「そんなものなのか。」
俺は細かいことを考えてなんかいなかった。ただ、清々しい気持ちでいっぱいだった。
「私はね、ずっと寝てたの。何もやることもないから。だから、あんたが眩しかった。羨ましかったの。だから、尻の軽い女みたいにひょいひょいついていったの。私がこんなことするなんて、滅多にないんだからね。」
「可愛い女に言われたかったな。」
まるでギャルゲのラストシーンみたいなセリフ。文字では女が言っているのだが、声は無理に声を高くしたおっさん。
「ネフィリムみたいな?」
「あんなやつ、願い下げだよ。」
「あんた、ネフィリムのこと、好きでしょ?」
は?そんなわけないだろ。
「ボケが入ったか?」
「あれでも私の娘よ。まあ、私にはできた娘だったけど。」
どこができた娘なんだか。まあ、正々堂々とはしているだろう。一人で俺に嫌がらせをしてきたんだから。
「そうか。」
俺はそんなくらいしか言えそうにない。
降りしきる雨のように星空は俺たちの間に笑顔を向けてくれていた。一筋、流星が横切る。
今回は暴食の怪物ネフィリムについて
人間時のネフィリムは普通の女子大生(っぽく見える)。別に暴食というわけでもないのですけど、なぜかネフィリムに。この怪物は意外と知名度がないですが、旧約聖書において、とっても重要な怪物。なにせ、大天使がソドムとゴモラを焼き払う契機となった怪物ですので。悪魔と人間との間に生まれた暴食の巨人。
能力としては筋力A、速さD、防御BからA。敵の攻撃を食らう能力を持つ。基本的にどんなものでも食べられますが、ネフィリムは気分的に、かつ絵面的に、無機物を食べることを望みません。絵面を気にするので、食べるときは麵をすするように食べる。




