4 いくら父親を説得しても、父親は少しも趣味を止めようとしない
4 いくら父親を説得しても、父親は少しも趣味を止めようとしない
目を覚ます。最近こういうことが多いから慣れてきてはいたが、今回は異常だった。ドライヤーの風のように吹き付ける風圧。天を威圧するほどの顔圧。肌色のそれは暗がりの中でもぬらりと気持ち悪いテカリを見せている。でこぼことした表面は、それが何であるかを俺に理解させるのに十分だった。
「何してんだ。」
俺はそれを殴りつける。その感触は少しも慣れることはない。ぬめりと肌を滑る感覚は、今すぐにでも手の甲を拭いたくなってしまう。
「いや、キスで目覚めるかと。」
「二度とするな。」
アルラウネは地面に倒れていた。それほど力いっぱい殴ったわけでもなく、また、俺にはそれほどの力はなかったように思うが、マンティコアとなってから、少しは身体能力が上がったようだった。
「あんたら、呆れるわね。」
俺たちを花でも見るように素っ気なく座っていたのはヒュドラだった。
「どうして・・・」
俺は素直に言葉にする。その声は自然と吐息が漏れるように沼に響く。
「溺れてたあんたを助けたのは誰だと思っているの?」
ヒュドラは低血圧の女子のように粘っこく、憂鬱に声を響かせる。まるで沼みたいな女だと思った。
「それはどうも。」
俺は少し警戒しながらも、礼を言う。プライド高いのは真実だが、自分の命が危機に瀕していたのだから、素直に礼を言うのは当然のことのように思った。
「私はあなたが溺れるまで見ていたのだけど。」
「最悪だな。」
一瞬でも好感を持った自分を呪った。沼に吹き付ける風がヒュドラの顔を覗かせる。やはり、神話的な美しさを持った女だった。
「聞いちゃ悪いかもしれないけど、ここに来る前、どんな――」
「聞いたら悪いと思うのなら聞かないことよ。」
なんとなく、影のある女だとは思っていた。その美貌故に苦労もしてきたように思う。山の端は白くなりつつある。もうじき夜があけることを俺たちに知らせていた。
「私はあなたの仲間にはならないわ。負けを認めたからって、服従するつもりはない。」
「別にそうとは考えてなかったよ。」
「ちょっと、私、置いてきぼりじゃない。」
「キモい森の妖精は黙ってろ。」
ヒュドラはおもむろに立ち上がる。そして、一歩一歩確実な足取りで、と言っても、その姿は優雅さを存分に含んで、沼へと進んでいく。
「私も礼を言わなくてはいけないわ。」
止まったことを悟らせないほどの自然な運びでヒュドラは動きを止める。背中を向けたまま、ヒュドラは言った。その背中はひどくはかなげで、今にも壊れそうなジェンガを想起させる。
「私は色々あって、ここに籠ることを考えていた。だから、沼に入ってきたやつを襲ったわ。でも、今は少し間違いだった気もする。そんな気持ちにさせてくれただけ、感謝するわ。」
礼など言われたことがなかったから、俺は自身の奥に渦巻く感情に戸惑っていた。どうすればいいのか分からなかったし、そもそも、礼を言われるようなこともしていない。俺は俺が助かるために全力を尽くしただけだったからだ。
「闘っているあなたは少しだけかっこよかった。一ミリだけ褒めてあげる。」
その後、ヒュドラはジャバジャバと音を立てて、沼の中に入って行った。
「ほんと、かっこよかったわよ。」
俺は抱きついて来ようとする親父を片手で受け止める。唇が掌に密着して、それだけで胃液が逆流する。
「とりあえず、どうするかだな。」
鳥のさえずりが聞こえる。朝の訪れをまだかまだかと待ちわびて、毎日朝日が昇ることを喜ぶ歌だった。
そして、夜が明けた。
沼にそのままいれば、いつヒュドラに襲われるか分かったものではなかったので、俺とアルラウネは移動を開始する。
「でも、あいつって、いわゆる引きこもりなんだろうな。」
沼から大分遠ざかったので、ずっと胸のうちに秘めていたことを俺は口にする。
「あんただって引きこもりでしょう。似たようなものでしょう。」
「あれ、俺が引きこもりだって言ったっけ?」
ひょんなことから言ったかもしれない。俺自身、元の世界の記憶はまだ曖昧ではなかったが。
「あんた、気がついてないの。私よ。私。」
アルラウネは毛むくじゃらの指で顔を指差す。だが、こんなおっさんの知り合いはいない。
「誰だよ。俺は知らないぞ。」
アルラウネ自身、自分の名前を思い出せないのだろう。必死に自分のことを認識させようとするが、結局空回りしている。
そんな矢先であった。
「こんなところにいた!お父さん!」
急に木の上から何者かが飛び降りてくる。声は女のものだった。俺は女というだけで警戒した。ここのところ、女ばかり嫌な目に遭わされている。
女が上げた顔に俺は見覚えがあった。
「あんたは――」
「お前は――」
それは幼なじみの顔だった。忘れるわけがない。そいつは俺が一番苦手としている幼なじみ。
俺は田舎で育った。小さな小学校に通っていて、同級生は十人未満。女子は半数にも満たなかった。そいつはその一人。そして、何故か事あるごとに俺をなじり、腕をつねるなどの暴行を加えた。俺は殴り飛ばせばよかったのだろうが、小心者であるし、そもそもに女を殴るのは最悪の行為だと思っていた。よく家庭内暴力で殴っているやつはいるが、俺には人間とは思えない。まあ、今は人間じゃないのだが。
俺は忘れるわけもない女の名前を思い出せなかった。それは向こうも同じ様だった。女は驚いた顔をしていたが、次第に顔を険しいものに変える。
「お互い思い出せないみたいね。」
「・・・ああ・・・」
俺は女を恨んでいた。ビビっていたと言う方が正しいかもしれない。とにかく、体は硬直して、蛇ににらまれるように身動きが取れなかった。ヒュドラに睨まれてもなんてことなかったが、幼なじみに睨まれて身動きが取れないというのはひどく滑稽であった。
「私はネフィリムよ。」
「マンティコアだ。」
「へぇ・・・マンティコアなんかになったのね。」
「マンティコアなんかとはなんだ。」
「使い古されるだけのぼろ雑巾ってことよ。」
「テメェ・・・」
俺はこの女なら殴ってもいいと思った。他の幼なじみが別の高校に行ったりしたのに、コイツはずっと、高校まで一緒だった。我慢の限界だった。
「ダメよ、マンティコア!」
アルラウネが止めに入る。
「このこだけは戦ってはいけないわ。あの暴食の怪物、ネフィリムよ。」
暴食の怪物とは滑稽だった。アルラウネやヒュドラと違い、普通の服装で、まるで町に散歩に来た女子大生というなりだったが、騙されてはいけない。
「お父さん、ひどい言いようね。」
「お父さん?」
そこで、ようやく思い出した。この人は幼なじみの父親だったのだ。
「ああ、おっちゃんか!」
直接話したことはないものの、顔くらいは見ることがあった。通りで俺のことを知っているわけだ。
「ようやく思い出したのね。」
アルラウネは王子が夢から覚めたことを喜ぶ姫のような視線を俺に向ける。だが、気持ち悪い。
「お父さん、その格好止めてって言ってるでしょう。」
ネフィリムは口を押えて言った。必死に吐き気を堪えているのだと分かる。
「嫌よ。」
アルラウネはきっぱりという。険悪な風が流れる。これは、モンスター同士が戦う時のあの漲るよく分からないものだ。大気から色々な要素が引き出される。それは闘志であったり、恨みつらみであったり。
「どうしても止めてくれないっていうのなら。」
「止めろよ。」
俺は二人の間に立ちふさがる。家族同士で争うのはいけないと思う。
「ホームレスごときが私たち家族の問題に口を挟まないでくれる?」
「お前・・・」
俺は歯を食いしばる。煙草で弱った歯ぐきから血が出て、口の中に鉄の香りが広がっていく。
「私は――」
アルラウネは叫ぶように話し出した。それはアルラウネの原型となった、叫ぶ妖草、マンドラゴラの叫びに似た悲壮感を含んでいた。
「私はやりたいことをずっと我慢してきた。家族のために働いてきた。でも、もういいいじゃない!私の好きにさせてくれて!」
それは全国のサラリーマンを代表する叫びだった。まあ、女装は止めた方がいいと思うけど。
「だそうだ。」
その叫びが一番こころに響いたのはネフィリムだろう。今まで親に世話になった身なのだから。俺とは違い、親の期待に応えてしっかりと就職したのだから。
「でも、恥ずかしいことは止めてよ。」
ネフィリムの覇気は収まっていた。もう戦うことはないだろう。
「お前もいいやつだな。」
俺は気恥ずかしくなりながらも言う。親のことを思うやつはいいいヤツだ。俺とは違う。わがままで迷惑をかけ続けた俺とは。
「別にそんなんじゃなわよ。」
でれるわけでもなく、冷ややかな刃物のようなぞっとする目つきでネフィリムは俺を見る。
「ところで、ネフィリムはどうしてここに?」
父親の口調になってアルラウネは言った。本当に二人は家族なのだと思った。親し気というわけでもなく、ただ、自然に溶け込んでいく会話。これこそが家族。仮面を被らなくてもいい、自分を偽らなくてもいい、もっとも安心できる温かさ。
「そうだった。」
途端、ネフィリムは慌てたようにせわしく辺りを見回す。
「カリテ様の居場所を知らないかしら。」
確かに、俺はカリテのいたところからここまで来たが、日差しが限られ、方向を得るものが何もない今、どちらに向かえばたどり着けるのか分からなかった。
「俺はカリテのところから来たから、多分沼を越えた先ではあるが・・・」
「沼?あのヒュドラの沼か。あそこには近づきたくないわね。」
相当に有名であるようだった。ご近所の迷惑家族のような扱いである。
「カリテ様、であろう。」
聞き覚えのある声。そして、地面を割るかのような轟音。土煙に視界が遮られる。音を立てて、空から何かが落ちてきたのだ。
「ごほっごほっ。お前は――」
湿っていて舞い上がるはずのない土煙がだんだん収まっていく。土が鼻の中に香りを充満させ、俺は勢いよくくしゃみを何度もしてしまう。
「バカが風邪をひくとはな。」
一々癪に触る言葉。燃えるような灼熱の髪。騎士のような物騒な鎧。そして、男か女なのかはっきりとしない中世的な顔立ち。
「ベヒモス様。」
ネフィリムが地面にひざまづく。
「ワイバーンちゃんもいるよ!」
再び突風を上げてワイバーンが降り立つ。よくあるヘリコプターに乗り込む前、風に吹かれるというのがあるが、あんな感じを俺は生で体験していた。結構あれ、大変みたいだな。
運ばれている時には気が付かなかったが、ピンク色の幼女は体から大きな翼竜の翼を生やしているわけではなかった。駄々をこねる子どものようにぱたぱたと手を振っているだけ。それだけで、体を吹き飛ばさんばかりの突風が吹きすさぶ。
「何があった。ネフィリム。」
「はい。」
ネフィリムは頭を上げてベヒモスに進言する。
「人間がスリラーパークに入り込みました。」
「だが、そなたなら、人間くらい簡単に追い払えるだろう。」
「それが、全く歯が立たなかったのです。あれは恐らく――」
「勇者、か。」
「はい。」
少し異世界っぽくなってきたことに俺の体は喜びの雄たけびを上げていた。倒されるモンスターの側なので喜ぶことはできないが。
「仲間も簡単に倒されてしまいました。」
「勇者はどこにいる。」
「それが必死に逃げてきたもので。森の入り口で遭遇したのですが、今日まで三日間逃げ続けて参りました。もうすぐこの辺りに来るかと。」
「なるほどな。」
幼い声が響く。それは俺にマンティコアとなれと言った少女のものだった。
「どこから・・・」
「ここだ。」
ベヒモスの手にしている小型の機械から、立体映像のカリテの頭だけが投影されている。世界観ぶち壊しだなっ。
「ここにいる皆で勇者の撃退に当たれ。」
「しかし――」
「あと一日足らずで私のもとに来るのだろう。なら、私の護衛をしようがしまいが同じだ。モンスターたちは私の恐ろしさを知っているからな。ベヒモス、ワイバーン。そなたらが倒されれば私は必死で逃げよう。この辺りでお前たちほど強いものはいない。」
「わかりました。」
ベヒモスは厳かな声で言い、頭を下げる。
「お前たち、勇者の撃退に向かうぞ。敵の詳細は?」
「はい。勇者らしき者が一人。あとは連れのものです。十人ほどであろうかと。そいつらは普通の人間なのですが。」
「人間というのは恐れを知らぬな。愚かな。私たちの恐ろしさ、存分に知らしめてやろうぞ!」
俺はそんなタイミングで小さく手を挙げる。
「すいません。それ、俺たちも行くんですか。」
「何を言っている。当たり前だ。」
ベヒモスは虫を見るような目で俺を見る。
「ですよね。」
俺は別に血なまぐさいことを好んでいるわけではない。こんなことなら、スローライフを楽しんでおけばよかったと俺は思った。ベヒモスとワイバーンがいるから、負けることはないと思うが。
夜はすっかり明け、真っ白な太陽が俺たちを照らす。それは人類の夜明けを祝福するかのように見える。大きめの雲がぷかりと微笑むように浮かんでいた。
マンティコアの現在について
獅子の姿で、毒を吐く俊足の魔物。
現在のマンティコアは瞬発的なステータスで、攻撃力A、スピードA、防御B。毒耐性あり。EX。マンティコアの魅了毒も、ヒュドラの猛毒も効かない。ヒュドラの毒は耐性がなければ即死レベル。人間なら骨も残らない。その他にもいろいろな能力が隠されているけど、まだ、全力は引き出せていない。
地味に俺最強系。




