16 いくら筋トレを頑張ろうとも、猫は水の上を泳げない
16 いくら筋トレを頑張ろうとも、猫は水の上を泳げない
マーメイド式筋力トレーニング その一
砂浜で大岩を持ち上げろ
「これ、無理じゃね?」
目の前の自分の背丈ほどもある大岩を前に俺は言った。
「最近の若者は軟弱だな。やる前に文句が出てくる。」
「そう言われると、返す言葉もない。」
だが、どうみても地中に埋まってそうな岩を持ち上げるのは無理でなかろうか。
「仕方がない。なら、難易度を下げて、岩を破壊しろ。」
「それこそ無理だって。」
俺に必要なのは基礎体力とかそう言うものではないと俺は思っている。俺に必要なのはマンティコアの力を何とかして使えるようにすることだ。そうすれば、白鯨とも十分に戦える。
「なんとかマンティコアの力を使えるようになれば何とかなるんだけど。」
「甘い!」
マーメイドは胸筋をピクピクさせる。
「そうやって何かに頼るからいけないんだ。見ていろ。」
マーメイドは岩に一発殴りを入れる。すると、岩は粉々に吹き飛んだ。
「どうしてこんなことに――」
「俺の怪物としての能力は高くない。明らかに、お前やあの勇者に劣るだろう。だから、俺は力に頼らず鍛えてきた。それがこの成果だ。」
だが、人の力でも岩は粉々になど出来はしないはずだ。どんだけの怪力なのか。
「実はな、俺はさっきは本気を出していない。」
「まさか、変身を二度残しているとか言わないよな。」
「違う。あれはな、岩の弱点を探ったんだ。」
「弱点?」
「ダイアモンドは知ってるな?」
「ああ。世界で一番硬い鉱石だろ?」
「でも、ダイアモンドを簡単に砕く方法がある。」
「それは?」
「ダイアモンドには一か所、強度の弱い部分がある。そこを狙えば、簡単に崩れ去る。」
「つまりは、さっきのはその弱点を狙ったと。」
「そういうことだ。」
だとしても、どうやって弱点を探すのか。
「碌に力を使えないお前は、出来て一発殴れるかどうかだろう。だから、そのチャンスを見逃すんじゃない。確実に狙えると思えるタイミングを見計らって、そして、渾身の一撃を放つ。そのためには相手をよく観察しなければならない。」
「確かにそうだけど。」
「本来はこれを話すためにやって見せたんではなかったな。次は、そこの小さな石を背負って砂浜を駆けろ。」
「小さな石ですか・・・」
どう見ても小さくはない。先ほどの岩よりは格段に小さいが、十分腰かけとして使えるレベルのものである。そんなものを背負うなど、どうやったって無理だ。
「ほら。初めから諦めない!」
マーメイドは岩を俺の背中に押し付ける。とんでもなく重い。
「背負うというのはな、確かに筋力も必要だ。だが、もっとも重要なのは、力の使いどころだ。それはむやみに力を使えということではない。背負う場合、どんなに重いものでもバランスがとれる場所がある。それを体で感じろ。さあ、歩け。」
「くそっ。」
確かに、言われてみれば、安定する場所がある。だが、その安定する場所に重心を持っていきそれを維持するのに大分な筋力を使う。そして、歩くとなると、ぶれるので、より一層難しい。
「ええい!ままよ!」
俺は一歩踏み出そうとした。だが、砂地に足を取られて、そのまま転ぶ。転ぶ瞬間、ああ、死ぬ、と思ったが、そんなことはなかった。マーメイドが岩をキャッチしたのだ。
「先ほど、重心うんぬんと言ったが、あれは本当に教えたかったことではない。ああいうのは数をこなせば自然と身に着く。考え方だけ覚えておけばいい。本当に教えたかったのは、この足場の悪さだ。」
確かに、身をもって体験できた。重いものを持つと、自然とさらさらの砂地は沈んでいく。
「どんな場所でも足場の悪さが命取りだ。それは岩の上でも同じ。むしろ、岩の上はより劣悪な環境だ。だから、靴を脱げ。」
俺は指示通り、靴を脱ぐ。砂は驚くほどさらさらではあるが、いかんせん、照り付ける日光に温められて、足の裏が熱い。
「そのままで全速力で走ってみろ。」
言われるがままに全速力で走る。だが、砂は柔らかく、足で地面を蹴ることができない。だから、あまり早く進むことができない。それはおろか、だんだんと砂にはまって、身動きが取れなくなる。
「もしも、だ。お前が能力を使ってこの足場で駆けたとしよう。より強い筋力では余計に埋まってしまうだけだ。そうなれば、お前は確実に殺される。」
「靴を履けば――」
「靴は滑る。むしろ、滑った後、体勢を整えることができない。」
「じゃあ、もっと戦いやすいところで――」
「モービィ・ディックに巧みに誘われたことを忘れたか?向こうは狩りにおいてはこちらより数段上だ。あらゆる危機的状況で何とかする術をお前はいち早く覚えなければならない。」
貝殻ビキニのゴリマッチョに言われるのは癪だが、それは本当のことだった。海の中から攻撃してくる相手に対して俺たちは常に不利な状況を強いられている。
「では、ここで一度組手でもしてみるか。なに。俺も本気は出さん。だが、お前もマンティコアの力を使うな。使わずに勝てる術を見つけろ。」
「なるほど。」
勝てるとは思わないが、手加減してくれるのなら、安心して挑むことができる。
「いざ!」
足場の悪い砂浜でマーメイドに向かって行くのも大変だった。だが、バランスを崩さないように、なるべくかかとから砂に突っ込むように注意しながら、前へと進む。そうした方が安定することが分かった。
俺はマーメイドに拳を突きつける。だが、それは空を切り、俺の体は簡単に宙に投げ出される。マーメイドが俺の胴を掴んで、後ろに投げ飛ばしたのだ。鈍い音とともに、俺は背中を砂浜に勢いよく打ち付ける。とんでもなく痛い。
「まだまだだ。来い。」
吐き出された空気を取り戻して、俺は素早く立ち上がる。そして、再びマーメイドの胴へと――
「ぎゃはっ。」
マーメイドは握り合わせた拳を俺の背中へと突き刺した。俺は再び肺の空気を全て吐き出し、砂浜に倒れる。
「手加減するって言ったじゃん。」
俺は苦し気な声で言う。
「十分手加減している。」
俺はふらふらと立ち上がり、すぐにマーメイドと間合いを取る。
「今度はそっちから来いよ。」
俺はマーメイドがさっきから移動していないことに気が付いた。あの人魚の足では移動が難しいのだろう。
「ほう。誘うか。それもいいだろう。」
マーメイドは宙に飛び上がり、上空から俺を狙う。俺もマーメイド体を狙って拳を振るうが、かすりもせず、マーメイドの一撃を腹に食らう。
「う、うう。」
もう少しも動けなかった。火照ったからだがもう動くなと言っている。
「攻撃は常に躱される可能性を考えて、次の一手を繰り出す準備をしていなくてはならない。先ほどはそれさえできていれば、俺に一撃を繰り出すことができただろう。」
「くそっ。」
俺は思いっきり砂を叩く。完全なる八つ当たりだった。マンティコアの速さがあれば、なんて思ってる自分が嫌いで、卑怯で、悔しくてたまらない。
「だが、相手の弱点を読むということはしっかりとできていた。俺は跳ばないと移動できない。まあ、その弱点を補うために鍛えてはいるが。」
「俺はどうやったら強くなれる。」
「自分の弱点を知ることと、それを補う努力をするんだな。それが筋トレだ。あとは、その悔しさをずっと持っていることだ。」
「マーメイドも悔しいことがあったのか。」
「俺は常に悔しがりだからな。負けず嫌いだから、余計にな。誰かに負けるのは自分が弱いからだ。それははっきりしている。そして、その弱点さえ補えば強くなれることもな。だが、そのことを諦めるのは自分に負けることだ。俺は決して自分にだけは負けたくない。だから、常に自分を鍛えることを忘れない。」
「流石だな。」
その話を聞いて、俺も少しはやる気が出てきたように思った。
「さあ、次は何をする?」
「筋トレだ。今日中に腕立て腹筋背筋スクワットをそれぞれ100万回はしないとな。なに、怪物の回復力があればすぐに疲労回復はできるさ。」
「今日中に終わるかな。」
ともかく、俺はもう文句を言わないようにした。鍛えて鍛えて鍛えまくる。その時だけは、船のことやら白鯨たちのことを忘れられた。気が楽だった。
午後からはセイレーン探しだった。午前はハレイシャが船の見張りをしていたが、午後はマーメイドと交代し、俺とハレイシャでセイレーンを探すことにした。
「しっかし、セイレーンね。」
セイレーンという怪物の知識くらいは俺も知っていた。確か、美しい歌声で船を誘導して沈めるとかなんとか。だが、マーメイドも女ではなくただのマッスルだったのだ。どうせろくでもない男に違いない。
「何にせよ、油断大敵だ。傍観を決め込んでいる輩こそもっとも注意すべきだからな。」
「あれだな。壇ノ浦の戦いだっけ?いや、違うな。関ケ原?」
「お前が何を言っているのか時々わからんな。」
外の世界を知らないからどうとも言えないが、ハレイシャの姿を見る限り、外の世界の文明は中世かそれより前なのだろう。家康ってたり、三成ってたりはしないんだろうな。
「昼まで船が来るかどうか見てくれてたんだってな。」
「ああ。文句あるか。」
「いや、別にそう言うわけではないけど。」
やっぱり俺は勇者様のお気には召さないらしい。
「ありがとう。でも、どうして協力を?」
別に特別な意味を求めてなどはいない。
「それは船を奪って帰るためだからな。」
「どうどうと言いよった!」
「ふん。」
「いや、そこ、薄い胸を張るところじゃな――」
ハレイシャは至近距離から無数の矢を放つ。
俺はハレイシャの動きをよく観察する。矢の向き、角度、力の入れ具合、そして、ハレイシャの目の先。それらをよく観察すれば、矢がどこを狙っているのかが分かる。
「って、こんなところで修行の成果を出してもな。」
ハレイシャの矢を躱し終えて、俺は言った。
「ふん。修行の成果が出ているじゃないか。」
「さっき、本気だったよね。一歩間違えれば俺、死んでたからね。」
ハレイシャの矢はそれこそ全て必殺の動きだった。一つ目の矢が躱されたときを考えて次の矢を放ち、それが躱されたときのことを考え、次の矢を放つ。ハレイシャは全力ではないとはいえ、訓練の前までの俺では躱せなかっただろう。
「私からも一つ伝授しよう。」
ハレイシャは俺に近づいてきて、胸に手を当てる。武人の手という感じの硬めの手だったが、中は女の子らしく柔らかい。
「足元はよく見ることだ。」
ハレイシャは俺の体を軽く押す。それだけで俺の体は滑って回転する。地面に海藻が落ちていたのだ。俺はそのまま海に落っこちた。
「いやあ、そう言えば上半身裸設定忘れていたな。」
「もっと言うことあるだろ。」
海から上がった俺は、岩山の上に突っ伏す。どうも俺は自分で思っていた以上に泳げないらしい。
「きっと悪魔の実を食べたんだな。」
「そう言うことじゃない!」
そう言えば、猫は水が嫌いだったということを思い出す。ライオンも水が碌にないところで生きているんだから、泳げるはずがないのか。
「でも、欠点を知れてよかったかもな。」
モービィ・ディックと本格的に戦う前に弱点を知っておいてよかった。本番で溺れて使い物にならないとか、ダサいにもほどがある。
「ふん。そういうことだ。」
「あんたは少しくらい反省しろよ。」
ハレイシャの耳は都合のいい事しか聞こえないようで、俺のことを無視して岩山を進んでいく。俺も後をついて行く。
「しかし、セイレーンってどこに――」
そんな時、俺たちの向かう先から悲鳴が轟く。その声は甲高いが確実に男のものだった。
「なんだ!?」
驚くより先に体が動く。その声の周波数には聞き覚えがある。
「アルラウネ!」
駆けて行った先、少し翳りになっている岩山に緑色の服を着たおっさんが血を流して倒れていた。
「どうした!おい!」
俺はアルラウネに駆け寄り、体を起こす。
「とんでもない化け物に襲われた――ここから逃げて・・・」
そういったきり、アルラウネは瞼を閉じる。
「おい、しっかりしろ!おい!」
「静かにしろ。」
ハレイシャが冷静に言った。
「この気持ち悪い物体は近くに敵がいると言ったんだ。注意しなければ。」
ハレイシャの言う通りだが、冷静ではいられない。
「私がここで敵を食い止める。お前はその気持ち悪い物体を連れて隠れろ。」
ハレイシャは腕を振るう。すると、いつの間にか一振りの剣が握られていた。
「死ぬんじゃねえぞ!」
「お互いにな。」
ハレイシャは鼻で笑った。でも、俺が初めて見た、ハレイシャの笑顔だった。
俺はアルラウネを抱きかかえて岩山を駆けだした。
あらゆる生の匂いの入り混じった香りと吹き抜ける清廉な香りの混ざりあう地点で俺はアルラウネを下ろした。
「大丈夫だったか?ハレイシャ。」
少し経って現れたハレイシャに俺は聞く。
「ああ。どうも周辺には敵はいないようだった。その気持ちの悪い物体を傷付けた後、どうも興味を無くしたらしいな。」
「崖の上から落とされたのよ。」
アルラウネは傷口を自分で押えながら口にする。
「一体誰に・・・」
モービィ・ディックの仕業だろうか。だが、白鯨の伴っていないモービィ・ディックはそれほどに強いとも思えない。
「あいつらはどうしたんだ。」
「質問ばっかり。」
焦る俺を鬱陶しそうに見て、アルラウネは口にする。
「私たちはあんたと別れた後、増援を呼ぼうとしてね。カリテ様のところに行こうとしたの。そうしたら、あのモンスターに襲われて。私とスライムで抑えるから、サキュバスにはカリテ様のところに行ってもらったの。」
「まさか、俺のために?」
「別にあんたのためなんかじゃないんだからね!」
と、アルラウネに剣が飛んでくる。
「危ないじゃない。それ、呪いが着いてるんでしょ?それと、なんでその女が一緒にいるのよ。」
アルラウネはハレイシャを見て言った。
「それはだな――」
もろもろを説明しようとした時、俺の耳元を剣がかすった。
「余計なことは言うなよ。」
「もちのろん!」
俺はなるべくハレイシャの不利にならないようにアルラウネに説明した。
「つまり、船のために一時的に協力してるってことなのね。」
アルラウネは不審げにハレイシャを見る。
「まあ、そんなところだな。それより、その襲って来た怪物はどんな姿なんだ?」
俺はアルラウネに聞いた。だが、答えたのはハレイシャだった。
「姿は女。犬の足と魚の足を持つ怪物だ。」
「そう。名前はスキュラ。船を沈めるギリシャの怪物ね。」
「なんでハレイシャが知ってるんだ?」
ハレイシャは俺を突き放すような狂気に満ちた目で俺を射抜く。
「なぜって?それは私たちの軍をほとんど殺した張本人だからだよ。」
ハレイシャが放った威圧感は初めて相見えた時以上の殺気に満ちていた。それは怪物さえも射すくめるほどの殺気。人間が持っていい類のものだとは思えなかった。
「どこに行くんだ。」
立ち去ろうとするハレイシャに俺は声をかける。
「そんなこと、分かっているだろう。」
怒気を噛み殺そうとしているが、どうしても噛み殺せていない。吹き荒んでいた海からの風も一瞬で止んでしまうほどだった。
「待て。」
ハレイシャを止めたのは、どこからともなく現れたマーメイドだった。
「今スキュラのもとに向かってもなんの意味もなさないだろう。万全の状態で、必ず勝てる状況でなければ――」
「あいつは私の仲間を殺したんだ。見るも無残にな。森から奇襲をかけてきて、私は皆を守れなかった。だから――」
「みすみす勝機を逃すのか?襲われたものが二人もいる。ならば、何かしらの弱点を見つけることができるかもしれない。」
「なあ、アルラウネ。お前がやられたってことは、戦ってるのはスライムか?」
「そうよ。私がもともと手出しできるような相手ではなかったから、サポート役だった。でも、運悪くやられちゃってね。」
「そうか・・・」
俺はスライムを助けに行きたかった。だが、今はスライムを信じる時ではないか。
「マンティコアも仲間を助けたいのを我慢している。まずはセイレーンのもとに急ぐべきだ。」
「じゃあ、さっきとは反対方向に進むべきだな。」
「スライムが手こずるような敵だから、早めに援護をお願い。」
「よし!セイレーン探し、二ラウンド目だ!」
俺とハレイシャアルラウネは、アルラウネが襲われた方とは逆の岩山に向かって歩き出した。
「あなた、マンティコアの呪いを解呪できたりしないの?」
「なんだ?気持ち悪い物体。」
岩山を進み始めた頃、ハレイシャとマンティコアは喧嘩を始める。
「誰が気持ち悪い物体ですって?ゴリラ女。」
「おい、アルラウネ。そいつにケンカを売るな。」
全ての武器をアルラウネにぶちまけようとするハレイシャを俺はなんとかなだめる。
「ともかく、セイレーンを見つけなくちゃいけないんだけど、なにか手がかりがあればなあ。」
だが、マーメイドもセイレーンを見たことがないらしく、どこにいるのかもわからないらしい。住処が海底なら、どうしようもないし、だが、それはそれで、俺たちの邪魔をする可能性は低いかもしれないからいいのかもしれない。
「コイツもそうだけど、あのマーメイドってのも信用していいのかしら。」
アルラウネは俺に耳打ちをしてくる。
「今のところ、俺たちを裏切る理由もないしな。」
「勇者はともかく、マーメイドはスキュラとかの仲間じゃないの?」
「それは絶対にない。」
モービィ・ディックとマーメイドのやり取りは演技には見えなかった。本当に百年ぐらい戦い続けていそうに思ったのだ。
「自信がありそうね。でも、あんまり誰かを信用し過ぎちゃダメよ。裏切られるから。」
「お前らみたいにか。」
「そうね。」
少しくらい悪びれてくれてもいいのに、と俺は何故かがっかりする。
「まあ、なんだかんだで俺のことを思って言ってくれたんだろ?ありがとな。」
「気持ち悪い。」
「その姿のお前が言うか。」
アルラウネに言われるのは少し、いや、大いに心外だった。
「でも、なんだか寒くないかしら。」
アルラウネは腕を組み、寒そうにする。
「まあ、少し日陰に入ったからな。」
俺は少し肌寒くなったかなと感じた程度だった。アルラウネは日光がないと元気が出ないからオーバーなリアクションになってしまったんだろう。
「静かに。」
ハレイシャは俺たちに黙るように言う。俺たちはハレイシャの指示に従う。すると、どこからか歌声のようなものが聞こえる。。ずっと聞いていると思わず自分自身を見失ってしまうそうな、耳から魂にまで到達するような、うっとりとする歌声だった。
「もしかして、セイレーンか?」
「かもな。」
ハレイシャは剣を構える。
「待てよ。今回は話しあいだろ?武器はいらない。」
「襲われたらどうする。」
「お前はあれだ。喫茶店に剣をもって来られたらどう思うよ。」
「喫茶店?なんだ、それは。」
「ええっと、食卓に剣を帯刀するってのはお前らのところじゃあマナー違反じゃないか?」
「騎士は特別に認められている。」
「その騎士が反乱を起こすとも考えられるだろうが。一瞬にして、上手い料理が水の泡だぞ。」
「許さないな。」
ハレイシャは大人しく剣をしまう。俺はハレイシャの扱い方が分かってきた。つまりは、ご飯で釣ればいいんだ。
「この交渉がうまくいけば美味しいご飯が待ってるぞ。」
「私は犬か。」
だが、むやみに武器を振り回すことはない。結構有効なようだ。
「そこの洞窟から聞こえているようだな。」
遠くに洞窟があった。そこから反響し、ここまで華麗な歌声が聞こえている。
「暗いところね。」
アルラウネは気落ちしていた。
「もしかして、傷が痛むのか?」
化け物の脅威の治癒力で傷口は塞がっているように見えるが、もしかしたら、まだ傷は治っていないのかもしれない。
「いえ。潮風とか海水って、植物とお肌の敵なのよ。はあ。」
フィールド上の不利とかそういうことのようだった。
「お前がお肌など気にしてどうする。」
「あら。女のくせに少しも気にしないあなたがいうのかしら。ほら、顔が潮風でパンパンじゃない。」
ハレイシャも一言多いが、アルラウネもムキになり過ぎているような気がする。とんでもなく女嫌いなのだろうか。
「なんだと?」
「なによ。」
「はあ。これが女同士なら、れっきとしたラブコメなんだが。」
一方は殺伐とした女勇者様だし、もう一方は女装したおっさんである。ほんと、やだよこれ。
「俺は先に行くからな。」
そう言って、洞窟に近づく。近づくたび、歌声は大きくなっていき、だんだんと俺の脳を揺さぶり始めた。
「なんだ、これ。」
後ろからついてくるハレイシャたちも頭を抱えている。震えるのは脳だけではない。体も微妙に振動し始めている。
「これは攻撃を受けているのか。」
「とんでもない声ね。」
アルラウネはこの状況で平気そうだった。
「超振動波というやつね。」
「どうしてお前は平気なんだ。」
「それは、怪物だからでしょ。」
アルラウネは俺より前に進む。そして、洞窟の入り口に入った瞬間、大声を上げる。それは甲高い声でった。二重の騒音、いや、暴音のせいで俺の体は引き裂かれるかとおもった。だが、その内、両方の音が聞こえなくなる。とうとう鼓膜がいかれてしまったかと思ったがそうではない。音が消えている。
「どういうことだ。」
ハレイシャが理解できない、と辺りを見渡す。アルラウネは引き続き叫び声を上げているようだったが、声は聞こえない。
「たしか、同じ周波数の音をぶつけ合うと、その音が掻き消えるんだ。アルラウネはそれをしているんだろう。」
高速道路の騒音を消すために用いられていたりする技術だった。アルラウネのモデルとなった奇声を発する植物、マンドラゴラの能力だろう。たしか、その声を聞いたら意識を失うとか、処刑台の下に生える呪われた草だとか言われていた気もするが。
「セイレーンの歌も似たようなもの、ってか。」
アルラウネは早く何とかしろ、というような目で俺たちを見ている。洞窟の中は寒く、暗い。そして、潮風が吹き抜けている。つまりは、アルラウネにとってかなり不利な状況なのだ。
「中に急ぐぞ。」
俺とハレイシャは声の主の下に急いだ。
洞窟の中はひどかった。鍾乳洞というやつなのだろうが、道らしい道もなく、ハリのような岩が侵入者を拒んでいる。どうやってセイレーンは入り込んだのだろうかという問いには簡単に答えられる。洞窟には海からの水が流れ込んでいる。それ故に簡単に侵入できるのだろう。
「こんなところでセイレーンは何をしているのか。」
俺は夜目のおかげで洞窟の中ははっきりと見ることができる。でも、油断していると岩に足を貫かれそうだった。
「目は見えるか、ハレイシャ。」
俺はハレイシャに問いかける。
「ああ。辛うじてな。だが、今の私はお前より早くはいけまい。」
ハレイシャは俺に向けて手をかざす。すると、俺の手には弓が現れた。
「これは――」
「私の弓をお前に託す。使命と遂げろ。」
「だが、この矢でお前を攻撃するかもしれねえぞ。」
「そのために矢は一本しかないんだ。撃ち損ねれば、みんなおじゃんだからな。」
「ったく、頭がいいな。」
だが、ハレイシャは俺を信用してくれたんだということにしておく。
「期待はするなよ?」
俺は急いで針のような岩を飛び越える。少しでも着地の角度を間違えれば足が串刺しになる。少しでも次の行動が遅れれば、足は滑り、体は磔になる。集中力が求められる行動だった。マーメイドの特訓がなければ、どうしようもなくなっていたところだろう。
「ふう。ここまでくれば、なんとか。」
針山のような岩山を乗り越えた俺はセイレーンを見据える。まるで大昔の、ギリシャ彫刻のような恰好をした乙女だった。目を閉じ、口を小さく開けて歌っている姿は、それだけで心を奪われる。
「おい、セイレーン!」
俺の声は届いていないようだった。渾身の声でもう一度声をかけるが返事はない。
「あんな小さい体でどうやったらあんな暴音が出せるのかってところだな。」
仕方なく、俺は弓を引く。
そんなときになって、俺は弓矢を使うのは初めてだったということに気が付く。上手く当たるかな。
矢を引き絞り、的を見据える。セイレーンは小高い崖のようになっている場所で無我夢中に歌い続けている。とにかく、セイレーンの注意を惹きつけられればいい。体に当てないように。この矢は当たったら怪物は死ぬ。無駄なプレッシャーだった。せめて普通の矢であれば。
「てえい!」
面倒なことを考えるのは止めた。とにかく撃つ。矢は真っ直ぐセイレーンの下に向かって行き、セイレーンのすぐそばを掠める。
「ねあっ!」
驚いたセイレーンは避けようとして、体を揺らす。その時、近くの岩肌に足を引っかけた。そして、そのまま――
「まずい!」
セイレーンは海面へと真っ逆さまに落ちていくだろう。例え怪物であれど、無事では済まない。だから――
力は誰かを守るために使え、と親父に殴られた。まだ十歳にも満たないガキだった俺はその意味が分からず、結局のところ、親父も誰かを守るために力なんて使ったことはないのだった。でも、目の前で命が奪われていく瞬間。そんな時、俺は力があればいいのに、と願った。いいや、力はある。ただ、代償が必要なだけで。
「俺の命を食らって、吼えろ!マンティコア!」
こんな中二病臭いセリフなんて役にも立たない。要は、ただ、気合を入れるだけなのだ。自分自身を犠牲にして、誰かのために力を使う。それはとてつもなく怖い事だった。自分は死ぬかもしれない。なのに、誰かを助けようとする。誰かの命と自分の命。どちらが重いかと言えば、当然自分の命なのだ。自分の命、なのだ。
「男はなあ!美人にゃ弱いんだよ。」
マンティコアの脚力で岩肌を蹴り飛ばす。体はロケットのように吹き飛び、セイレーンの元まで向かって行く。体は焼けるように痛い。骨の髄まで得体のしれない呪いが俺を蝕む。でも、手を伸ばせば助かる命があるんだ。
俺はセイレーンを抱き寄せる。セイレーンは気を失ったかのように目をつぶっていた。あとは無事に着地するだけである。だが、その時になって俺はようやく気が付いた。
地面は海水。
俺はネコ科。
イコール、泳げない。
「セイレーンだったら泳げた訳か。」
乾いた笑い声とともに、俺は海水に勢いよくダイブしていった。
アルラウネとハレイシャに助けてもらい、俺はなんとか海面から出ることができた。眠ったままのセイレーンはまだ目を覚まさない。
「もしかして、矢の呪いにかかったんじゃないでしょうね。勇者。なんとかしなさいよ。」
アルラウネはヒステリックに叫ぶ。どうも動揺し過ぎだった。おそらくだが、まだ娘の年齢にもいかないような子どもが目を覚まさないので、不安になっているのだろう。
「それはない。あれは私か天使が触れていないとかからない。それに、呪いは絶対に解呪できない。」
「あんたを殺しても?」
「ああ。そうだ。なんなら試してみるか?」
「やめろよ。」
いまは喧嘩などしている時ではない。
「一体どうなっているのか。」
「まさか、あんた、また呪いをその子から受け継ぐつもりじゃないでしょうね。」
熱っぽくアルラウネは言った。
「呪いはかかっていないんだろ?もしかしたらちょっとかすったかもって確かめたけど、傷一つない。」
「ちょっと待て。お前。さっきの話はどういうことだ。」
ハレイシャは顔を歪めながら俺に聞く。
「お前が差したヒュドラって女いただろ?俺をかばった奴。アイツの呪いを俺が肩代わりしたんだよ。」
「待て。それではお前は二倍の呪いを受けているということか。」
「そうだろうな。そのお蔭で碌に力も使えない。」
ハレイシャは驚いていた。その驚きようは尋常ではなく、俺に怯えているような、そんな印象を抱かせた。
「このキモい物体が怒った意味がわかった。お前はこの世界の何よりも無垢で怪物だ。竜でさえお前を恐れるだろう。」
「何の話だよ。訳が分からん。」
「呪いをかけたのは私で、それで碌に解呪もできないとなると、責任を感じる。だがな、お前は私を恨んでいる節もなく、また、ヒュドラと言うやつから呪いを受け取ったことに苦痛を感じていない。少し力を使えなくなったくらいの、そんな感覚でしかない。たしかに、死ぬまではいかなくとも、多少後遺症は残るだろうとは思っていた。だが、お前はそれをより悪化させたんだ。これ以上呪いを受けると、お前は確実に死ぬ。不死身であろうと、呪いが回復力を上回る。」
「早口に何が言いたいんだよ。」
ハレイシャは本気で怒ったような溜息を吐く。
「お前が馬鹿垂れと言うことだ。」
「どいつもこいつも。」
だが、問題はセイレーンをどうするかだった。目を覚ましてくれなければ困るし、目を覚ましてもあろうことか、矢で狙ったのだ。下手をすれば交渉決裂だ。
「ともかく、セイレーンを起こさなければ。」
ハレイシャとアルラウネは顔を見合わせる。そして、悪友のように二人はにたりを笑い合う。
「こういう時の対処法は一つしかないでしょ?ここまで延ばしてきたんだから。」
「そうだな。」
「勿体ぶらずに言えよ。」
二人の意地の悪い笑いを見ていると碌なことを考えていないようにしか見えないが、話くらいは聞いてもよかろう・・・
「キスだな。」
「接吻よ。」
「お前ら、楽しんでるだろ。」
確かに、そういう話もありますが。
「俺がする必要はないだろ?」
「こういうのは男がやるものじゃない?」
「お前も男だろ!」
「あらあ。私、オカマよ。マンティコア、ひどい!」
「そうだ。くそったれ。早くしろ。」
「ハレイシャ、性格変わってないか?」
「自分を見失ったときにただ一つ残る信念。それこそが起源ではないだろうか。」
「微妙に言ってること分かりませんよ。」
だが、俺も嫌な気分じゃなかった。だって、不可抗力だ。それで、美少女の唇を吸うことができるのだ。ハンバート・ハンバートではないが、これは美味しい想い過ぎる。
俺は意を決して唇をセイレーンに近づける。
「おい、まさか、本気で――」
二人は冗談だと思っていたのだろう。でも、確かに多少の刺激を与えると起きる可能性はある。
乳白色の肌。目をつぶっていても美しい、人形のような造形。もうすぐで唇が触れあいそうになった瞬間、セイレーンの青い宝石のような目が開眼した。
「バラージの青い石。」
「はい?」
俺の顔面で目を開いた少女は謎の言葉を発する。
「ウルトラマン第7話よ。」
「それで?」
もうセイレーンの顔の前から退けばよいものを、俺はセイレーンの不思議というより意味不明な言葉に困惑して、鼻先数センチから動けなくなっていた。
「時々、ふと、胡坐をかいてると、プラモデルを作りたくならない?」
「はあ。」
「Vガンダムとかね。」
「それまたマニアックな――」
俺はその後、思いっきりぶたれた。首が吹き飛ぶかと思うくらいの衝撃だった。
「で、あなたたち、私が気持ちよく歌を歌っていたというのに、邪魔をしてきて。何の用かしら。」
セイレーンはハンカチを取り出して、俺をはたいた手を丁寧に拭っていた。少しショックではあった。俺は転げている自分の上体を起こして言う。
「少し話し合いをと。」
「それで私を犯そうとしたのね。変態。」
「起こそうとしたんだ。確かに、悪い起こし方だったけど。」
ハレイシャとアルラウネの二人は知らないと言う風に俺から目を逸らす。
「弓を向けたこととか、その他もろもろは後で追及しましょう。それで、あなたたちの用というのは?」
「俺たちはここに来る船を守るためにモービィ・ディックと戦う。その時に手出しをしないで欲しいんだ。」
「停戦協定と言うやつね。」
セイレーンは艶めかしく微笑む。
「手伝って欲しいとかではないのね。」
「力を貸してくれるのか?」
「嫌よ。」
セイレーンは断言した。この女は俺がショックを受けるのを楽しんでいる類だとその時知れた。
「別に私はあの二人と停戦協定を結んだ覚えはないのだけど。そもそも覇権争いには興味がなかったし。私は歌を歌えればそれでいいから。」
「うた、ねえ。」
歌というよりは一種の兵器だと思ったが、関わると面倒だと思ったので、大人しく黙っておく。
「わかったわ。私はあなたたちのすることには手を出さないし、あなたたちは私の歌の邪魔をしないってことで。」
「ありがとう。それと、すまない。諸々のこと、謝らせてくれ。」
今回は完全にこちらに非があったので、俺は男らしく、潔くかっこよく謝る。
「そうね。本来なら許さないところだけど。」
重苦しい口調から一変して、セイレーンは答える。
「あなたの必死さは伝わってきたもの。許してあげるわ。」
「え?」
「私を溺れさせまいと頑張って受け止めてくれたでしょう?私も泳げないからちょっと助かったの。」
「でも、セイレーンって海の中に住んでるんじゃ。」
「そうよ。でも、水の中で生きられるのと、泳げるのとはイコールにならないわ。」
俺は頭の中で、泳げないから海底を歩いているセイレーンを想像してしまった。それはまた、面白い光景だった。
「あら。なんだか楽しそうね。」
俺がくすくす笑っているのを見て、セイレーンは楽しそうに言う。
「折角だから、私の歌を聞いてゆっくりしてらっしゃいな。」
「いえ、急ぐ身ですので!」
俺たちは急いで洞窟を出た。




