1 いくら素数を数えても、生い茂る葉の数にはたどり着けない
異世界に飛ばされて、マンティコアとかいうマイナーな怪物になったけど、これはこれで楽しいからいいかもしれない
1 いくら素数を数えても、生い茂る葉の数にはたどり着けない
ああ、死ぬな、と俺は思った。
視界はとうに何も見えていない。ただ、真っ白だった。どうして真っ白なのかはわからなかった。一つ言えるのは、これが死ぬときに見る光景だという実感。体が冷たい。本当は冷たいのかどうかさえ分かっていなかったが。体は動かなかった。動かそうとも思わなかった。俺はとうに生きる気力とやらを失っていた。死ぬのならそれでいいや。そんな思い。だから、死ぬことに恐怖はなかった。人はどうして死ぬのが怖いのだろう、と思う。それはきっと、死ねば手放さなくてはいけないものがあるからで、俺にはそれもなかった。家族、財産、名声、友だち。そのどれもが俺の前から消えていった。だから、もういいと思った。
目を覚ます。目を覚ます?目を、覚ました。
視界がぼやけて景色が良く見えない。温かな風が顔に当たる。そして、湿っぽいような、色々な匂いの混ざった風が俺の鼻腔内を刺激する。でも、それは悪いものではない。お互いが調和し合うように混ざり合った匂いは、快感さえ与えてくれる。
「そなたは今日からマンティコアとなった。」
摘んでしまえばそれだけで花弁が全て崩れ落ちそうな、幼い声が耳に入ってくる。回復した視界から、どんどんと情報が送られてくる。
金色。肌色。黒色。金色。赤色。
「おい。ボケておるのか。」
幼い声が俺に語りかける。ガキが俺に文句を言っている。その瞬間、俺の体に何かが走った。どこどこと日本家屋を子どもが駆けていくような刺激が体中をめぐる。
突如として俺の目の前に少女が現れた。異国情緒あふれる金色の髪。肌は日本人の色。金の装飾が施された赤い布地の大きな椅子に座っている。その椅子は少女の背丈にあっていない。
「お前は誰だ。」
「カリテ様にお前など、無礼極まりない。」
横から槍が飛ぶ。その時は槍だと気が付いたわけではない。先のとがった凶器が俺の首元に突き付けられただけである。俺は身動き一つできない。
「よせ。ベヒモス。」
カリテと呼ばれた少女が言う。俺は槍の根元にそっと目をやる。すらりと伸びた槍は鎧に捕まれていた。その鎧から視線を上にずらすと、そこには青い眼。そして赤い髪。燃え滾る怒りや情熱のような赤い色は俺に恐怖を与える。
「しかし――」
「下がれ。」
少女は慄くほどの威厳で赤い髪のベヒモスを下がらせる。ベヒモスは青い瞳で俺を一瞥した後、槍を戻し、俺から一歩下がる。
「さて。マンティコア。お前には説明しなければならない。」
マンティコアとはなんだろうか。少女は宝石のような神秘的な瞳で俺を見ている。
「そうか。それも説明していなかった。」
その瞳は少女のものというよりも、もっと威厳のある、王のような印象を俺に抱かせた。
「お前はマンティコアとなったのだ。故に、今からお前の名はマンティコアだ。」
理解の範疇を超えていた。これは夢なのだと気がつく。だが、なかなか醒めない。いつもなら、夢だと分かった瞬間、目覚めるというのに。
「・・・・・・」
俺は自分の名前が思い出せなかった。目を上の方に逸らし、必死で名前を思い出そうとする。マンティコアなどという聞きなれない名前ではなかった。俺は日本人だから、もっと、こう、和風な名前・・・和風な名前ってどんなだっけ?
「お前は召喚されたのだ。マンティコア。故に、元の世界の記憶はない。」
元の世界、とは、なんだっただろう・・・
「ここはスリラーパーク。モンスターたちの楽園だ。お前は今からモンスターとして生きるのだ。」
「でも・・・」
俺はカリテを見て、その傍らのベヒモスも見る。そして、最後に自分の姿。そこには五体満足の、人の形をした俺がいた。断じて怪物などではない。
「俺は人間なんだが。」
「いいや。マンティコアだ。」
カリテの迷いのない口調に、俺は納得してしまう。夢のなのだから、これでいいのだろうと。
「スリラーパークは日夜、人間たちの侵略を受けている。だから、お前が召喚された。お前は今からこのスリラーパークを救うために命を捧げるのだ。」
カリテの声が身体に染み渡っていく。決して逆らおうなどと思わないほどのカリスマ。心がカリテの手の中に握られているような想像をしてしまう。
だが、頭を振って、正気に戻る。
「待ってくれ。まだ、何が何だか。」
「お前に使命を与える。スリラーパークのモンスターたちの生態調査ならびに、侵略してくる人間を追い払うのだ。」
有無を言わさぬ響きだった。
「あなたは、一体――」
ほとんど放心状態になっていた。体の中の魂が身体に定着していない。まるで昇天してしまうかのような錯覚。
「私はスリラーパークの王、カリテだ。」
「貴様、頭が高いぞ。」
ベヒモスにそう言われて、俺はカリテの前にひざまづく。
「ワイバーン。例のものを。」
「あいあいさ!」
甲高く舌足らずな声が俺の背後から響く。何だろうと後ろをちらりと見ると、小学生くらいのあどけない体をした子どもが俺の方へと近づいてくる。
「おぢちゃん。これ。」
ワイバーンと呼ばれた子どもは俺に何かを差し出す。それは黒い、掌くらいの大きさの機械だった。
「これは?」
「図鑑だ。」
「図鑑?」
「ああ。これにモンスターの情報が記録される。」
どこかで聞いた設定だった。
「お前はスリラーパーク中のモンスターと戦い、勝たなければならない。その片手間、人間を追い払ってくれればいい。簡単な作業だろ?」
俺は思わず納得してしまう。
「頼んだぞ。」
「はい。」
「用が終わったらされ。」
俺は名残惜しく、カリテに背を向け、段を降りていく。そこには屋根なんてものはなく、ただひたすらに木々の緑と、青い空があるばかりだった。カリテたちのいる、開かれた場所以外は森だった。下がれと言われたのだから、俺は森に入って行くしかない。どうすればいいのかもわからないまま、俺はとぼとぼと森へと入って行く。森は今時珍しく、かさの大きい広葉樹だった。俺は立ち止まる。木々の陰に隠れて、もうカリテの姿は見えない。そして、素数を数え始める。素数の定義とはなんだったか。長い間数学をしていないので覚えていない。だから、ゼロから数え始める。0,1,2,3,5,7・・・9は素数じゃないな。次は、十一?
「そうだ。ゼロから始めるんだ。」
つまり、ここは異世界というやつなのだと気が付いた。だから、きっと中世風の建物とか、剣と魔法の世界なはずだった。
広大な土地。数々の城壁。格好のいい武器の数々。大きなヒヨコに乗って風を感じる。柔らかな風。
「お前、そこで何している。」
「町とかないのか。」
俺は声に反射的に振り返る。くるりと回転するにつれて、靴が柔らかで豊饒な土を抉る。それは懐かしい感覚だった。そう。俺はこんな田舎に生まれたんだ。
振り返った先には燃えるような赤い髪をした騎士。ベヒモス。俺はマズったと思った。不用意に話しかけていいタイプの人間でないと初対面から分かっていた。
「ないな。モンスターたちはそんな文明的なことはしない。ただ、自然に生きる。」
どうも俺は異世界生活より、無人島生活をする羽目になりそうだと思った。荒れ狂う海。頬を打ち付ける荒々しい波風。しみる目をもろともしない、皺の刻まれた男の顔。
山に入るとそこは野生動物のテリトリー。迫りくる脅威。山は時に厳しく俺を迎え、気まぐれで実りを授ける。
「何か用か。」
「そう言えばいい忘れていた、というお約束のヤツだ。」
俺の頭にはドット画が描かれる。ことことと手足だけが動き、草むらに入ると突然可愛い、そして、どう見ても物騒な技しか放ってこない怪物たち――
「図鑑を埋めるには、モンスターを倒さなくてはならない。それはどんな方法でもいい。とにかく負けを認めさせるのだ。だが、多くのモンスターは拳と拳を交える。」
「どことなく機械文明が入り混じってるのは、どう表現すべきかな。」
省略していたが、俺がこの世界に呼ばれて立っていたその下にはどうみてもこの自然とは合い慣れない、機械的な装置が設置されていた。それは俺のいた世界の技術より進んでいるように思える。ターミネーターとか、そのくらい進んだ時代だろう。
「そこには触れるな。」
「で、俺はモンスターを倒さなくちゃならないんだよな。」
俺は確認までに尋ねる。ベヒモスはああ、とそれだけ言う。
「じゃあ、俺は魔法とか使えるのか?武器はないから魔法使いだろ。」
「現実とフィクションをごちゃまぜにするな。」
バカにしたような顔をされる。鼻で笑って、哀れな蛆虫を見る目。そして、靴で踏み潰すのだ。それは俺にとって屈辱だった。俺は爪を隠す鷹だが、それでも、プライドは人一倍高い。許せないという気持ちとバカにしやがってという憤慨が二本の糸のように絡まり、一本の糸となる。
「お前はマンティコアだ。なら、その能力を使うこともやぶさかではなかろう。」
「あんたはモンスターなんだよな。」
思わず頬が緩む。それを隠そうと手で口を抑えるが、笑みが漏れ出て仕方がない。
「ああ、そうだ。」
その答えを待っていた。俺の体は活気を取り戻したかのように熱くなる。全身に血が行き渡る。これで、俺はベヒモスを倒す理由を手に入れた。
俺は地面を駆ける。柔らかな土は俺のためにいい足場を作ってくれていた。砂地のように滑るのではなく、湿っていて、最初は滑るがつま先に力を込めると深く突き刺さり、前へ、前へと突き進む推進力を補助してくれる。かつての世界の俺の体ではなかった。俺は運動が苦手で、走るのも嫌がっていた。最近はとくに運動をしなくなったから、坂道の上るだけで足が棒のようになり、気を緩めるとガタガタと痙攣していた。だが、今の俺は活気に満ちている。俺の体から漏れ出た活気が俺の表皮全体を覆っているかのような充実感。相手が槍を持っていようと、負ける気がしなかった。
ベヒモスは槍の先を俺に向けたまま動かない。まるで、銛を片手に水面を睨んでいる漁師だった。だが、俺もバカではない。槍で刺されないように右へ左へと蹂躙していき、がばっとベヒモスの懐へと潜り込む。レンジの長い槍は接近戦では役に立たない。ベヒモスは俺の攻撃を甘んじて受けるほかない。
ベヒモスは簡単に槍を投げ捨てた。それは投擲のために使う槍らしからぬ捨て方だった。ゴミをポイ捨てするかのように、興味を無くして路上に捨てるような。もとからそんなもの、見せかけでしかなかったような。
直後、俺の腹をベヒモスの腕が貫いた。
「嘘、だろ。」
体の中に得体のしれないものが入ってくる不快感。それは俺の触覚をくすぐったいほどに刺激する。そして、一秒と待たずして、気を失うほどの激痛が走る。感じたことのない、痛み。その暴力的な苦痛の前に、俺は体の機能を停止していた。
「お前にマンティコアの力が引き出せるのなら、生き残ることもできるだろう。だが、そうでなかったら、死ぬ。」
ゴミの日にゴミ袋を投げ捨てるかのような興味のない表情でベヒモスは俺を見ていた。そして、背を向ける。
「マンティコアの素早さはあんなものではない。カリテ様はお前に期待し過ぎたようだ。ワイバーン。どこか遠くへと捨てておけ。二度とカリテ様の御前に現れぬようにな。」
「あいあいさー!」
全身ピンク色の衣装に身を包んだ幼女が俺を運んでいく。どんどんと燃えるような赤い色が遠ざかっていく。そして、木々も小さくなる。俺の視界は緑よりも透き通った青と、幻想的な柔らかい白とが占めていく。俺は空を飛んでいる、いや、あの幼女に空中輸送されているようだった。
「どこまで、つれていく。」
力を無くした老人のようにしわがれた声だった。自分の声であることを理解するのにしばらくかかってしまった。
「どこでもいいからポイするの。ぽいぽいぽい。」
まさか、と気が付いたときにはもう遅かった。俺の体の全面は地上から吹き付ける風によって、殴るかのような抵抗を受けている。
「おぢちゃんの傷はすぐ治るよ!ちゃんとモンスターの体!マンティコアには程遠いけど。」
風切りの音に遮られ、ワイバーンの声は全く聞こえていなかった。ひゅんひゅんという音は俺の体の奥底から恐怖の感情を湧き起こし、茶色いものが見えた時には、重たい小麦粉の袋を落としたようなドスンという思い、くぐもった音が聞こえていた。
スリラーパークについて
魔物が擬人化?した謎の土地。そこはとある異世界?のとある大陸にある。そこは魔の大陸とされ、人類未踏?の地であった。王であるカリテ様が統治しているわけだが、基本的に放任主義。結構のびのびとみんな暮らしている。そこに住むモンスターの使命は人間を追い払うこと。それ以外みんな自由。争いも好き勝手。でも、文明を作る必要はないから、町などもない。とんだ異世界生活に主人公は巻き込まれる訳だ。