第一話
離れたその手を……
―――― もう、昔のことだと思ってしまった。
* * *
ここ2,3日は花曇りの空模様で、4月に入ってもまだ寒い日が続いている。おかげで桜は未だ八分咲き。明後日の入学式にはちょうど満開か、散り始めか。コートの手放せない日々は私にとっては辛いけれど、新入生には思い出深い日になるんだろう。自分の時はどうだったかな? その日の天気も桜の様子も全く思い出せない。気持ちだって落ち着いていたから、特に印象に残るような日ではなかった。そういえば、教科書とワークの多さにはうんざりした気がする。その程度で、緊張なら今日のほうがよっぽど重症だ。
入学式前のオリエンテーションで既にクラス、担任、クラスメイトが発表されていた一年生時とは異なり、クラス替えの結果は学校に行くまでわからない。顔見知りが誰一人いないとわかっていた去年はむしろとても気が楽だった。
行事好きのうちの高校はクラス替えの方法まで伝統行事と化している。クラス分け自体は単純に選択の科目で振り分けられているけれど、発表方法は手間が掛かっている。まず、3学期の終業式の日に式が終わるとHRにて1,2年生全員に一枚の折り紙が配られる。折り紙の裏、白い方に現在の自分のクラスを好きな風に記入して自分の名前も書く。それをまた、自分の好きな風に折る。担任はそれら全てを回収し、次学年でそのクラスの担任になる先生へ引き継ぐ。1Eの生徒が作った折り紙なら、2Eの担任の先生へという風にだ。約40人分の折り紙を引き継いだ先生方は、自分の生徒となる子の下駄箱一つひとつへ、始業式前日に折り紙を入れていく。つまり、生徒たちは始業式当日に下駄箱を開けるまでクラスが分からないし、教室に入ってみないことには他のクラスメイトも分からない。
昨日は元担任の沢村先生に学級委員だからとか、部活やってないからとか、こじつけられた理由で手伝わされて、今年度の3Cの生徒の名簿は見た。そんなの見ても先輩方のことなんて無関係だ。もし2Cになったら、球技祭や体育祭で関わる程度。沢村先生の人使いの荒さの餌食になるだろうことに同情は覚えたけれど。
* *
朝のHR10分前、下駄箱は明るく賑わっている。普段から登校する生徒が一番多い時間帯で、流石に始業式から遅刻する子は少ないので尚更多い。笑って、はしゃいで、ふざけあって ―――――― 他の子達を見ていると、早すぎたら気詰まりで、遅すぎたら出遅れる、何て前日に散々考え込んだ自分はおかしいんではないかと思えてくる。つい考えすぎる自分の頭を無視して、下駄箱を開ける。ここで躊躇していても何にもならない。
中にはシンプルに、しかし綺麗に四つ折りされた薄い黄色の折り紙。開けばやはりシンプルに黒のボールペンでBと書かれている。右下には『坪田優』。お手本みたいな字だな。どんな人だろう? ガチガチになっていた思考が優しい想像に染まる。
「佐和、おはよ! 」
「おはよう」
「どうだった? 」
振り返れば沙織ちゃんが尋ねながら、既に手元を覗き込んでいる。離れちゃったねー。と残念そうに言う彼女に一応、沙織ちゃんは? と尋ね返す。
「あたしはまたEだよ。それより、これ見てよ」言いながら見せたのは文字の書いてある側ではなく、折り目の付いた色の面。
「どうかしたの? 」沙織ちゃんが私に折り紙を見せる理由が分からなかった。
「だって、黄土色だよ? 先生も綺麗な色を選んでくれればいいのにさぁ」
そうだね。と口角を上げて言っておく。正直、今日だけのことなのにとは思っても口には出さない。それが社交辞令というものだ。とりあえず、同意を貰って気が済んだのだろう。表情をからりと変えて笑う。
「そのうち元Eのメンバーでどっか行こーよ。クラス離れても仲良くしてね」
「うん。じゃあ、またね」
「またねー。絶対だかんね」
念は押していても形ばかりで、そこにはこれからも仲良くするのが当然、という感情が滲んでいる。これこそ社交辞令かもしれない。1Eはクラス全体が比較的仲良しだった。『社交的で世話好きな優しい学級委員』の私はなるべく自然に見えるよう心がけながら、満遍無く皆と関わるようにしていた。その中でも沙織ちゃんとは同じグループにいたから、話す時間や遊ぶ回数は断然多かったけれど、あくまでもクラスメイトの範囲内だったと思う。他のメンバーも同じで、最初のうちは交流が続いても自然と疎遠になる気がする。自分だけがこんな事を考えているのかな?
薄い黄色の折り紙にいくらか和らいだ感情は、教室に着く頃にはまた冷たく固くなってしまった。
うちの学校の自由な校風や、先生と生徒の明るく少し砕けた雰囲気は好きだけれど、古い校舎は嫌い。立て付けの悪いドアは開けるときに大きな音を立てて、いらない注意を引いてしまう。背後で幾人かの待つ気配がして、ドアの取っ手へと添えた両手に力を込める。開いた視界。教室の後ろ側を陣取り友人たちと騒ぐ姿に、胸が痛むのはしょうがないことだ。それに痛みばかりではない。クラスに『顔見知り』がいる少ない可能性に緊張しながら、どこかで期待もしていたのかもしれない。それだって、しょうがないこと。
手のひらを乾かしたこの年月。何度となく目にしたはずなのに、若さ特有の甘みが消えた顔には見慣れない。背筋がざわり、と震えて心が尻込みする。
彼の印象的な目は私を通り過ぎて、その後ろへと向いている。
「お前も同じクラスかよー! 」
「うっせーよ」
彼の声も、後ろから返る声も、言葉とは裏腹にとても嬉しそうだ。
「いーんちょ。今年もよろしくね」
「え?」後ろにいたのは見上げるほどの長身。
役職名で呼ばれることは珍しいことじゃなかったけれど、いーんちょ、と独特の発音で呼ぶのはこの人だけ。忠大くんは強面に反して、人懐っこい笑みをする。元々本当にお節介なことは認めている自分が、『世話好き委員長』を抜きにしてついつい面倒を見てしまう要因だった。
「下駄箱ん時からずっと後ろにいたのに気付かねえの」わざとらしく拗ねた口調に
「それは、それは、失礼しました」とこちらもわざとらしく言って笑う。
クラスが替わっても私はいーんちょで、何も変わらない。肩の力が抜ける。賑やかな窓側の後ろとは反対、廊下側の席に、1人で座る女の子を見つけて近付いていく。大人しく、人見知りする性質の子だったから、自分が声を掛ければ少しは安心するかもしれない。去年だって、図書委員会の初めての集まりやバイトを始める時に相談を持ちかけられたから、迷惑ということもないだろう。
私は、いーんちょ。もう一度、胸の中で繰り返して、涌井さんの肩を優しく叩いた。
* *
涌井さんは、私が同じクラスになったこと、私から話しかけたこと、に予想以上の喜び様で正直ホッとした。遅刻すれすれで、涌井さんと同じ吹奏楽部員である早坂さんと十和田さんも加わり、4人で廊下側の一番前で静かに座っている。さっきまでは互いに自己紹介したり、新クラスの他の子に関しての情報交換| (阿見さんは年上の彼氏がいる、とか、関根くんは春休みの間に事故ったらしい、とか。ほとんど早口でお喋りな早坂さんが1人で話していた) をしていたけれど、今はきちんと前を向いて待っている。珍しいことにクラス全員が静かに席に着いて待っていた。他のクラスから偶に歓声やふざけ混じりのブーイングが聞こえてくる。多分、担任の先生が教室に入ってきたのだろう。
担任の先生も事前に発表されることはなく、始業式前の朝のHRの時に先生が教室に入ってきて初めて分かる。担任の先生が誰になるか。ということは生徒にとっては重要問題。先生によって遅刻のカウントの仕方や行事への力の入れ方が全く違う。今、私の目の前のドアは大きく開け放たれている。後ろのドアも同様。さっき、沢村先生が立て付けの悪いドアを力任せにスパーンと開けて、机の間を縫って歩き、また豪快に後ろのドアを開けると、そのまま出ていったのだ。私は昨日の手伝いのおかげで冗談だと知っていたけれど、クラスに先生が入ってきたときの盛り上がりも、出ていったときの落胆もすごいものだった。先生は人使いが荒いだけで、他の事に関してはいい先生だ。生徒に程よく親身で、1限に間に合えば遅刻はつかない、その上、行事に関しては生徒が主体になることを大事にしながら、協力や一緒に盛り上がることは惜しまない。私の知る中で担任の先生として最も理想的だろう。
そして、私たちの新しい担任は最悪とまではいかなくても、とても厄介な先生だ。
廊下で松っちゃん先生がこちらをニヤニヤしながら見ている。目が合ってしまったので、仕方なく頭で軽く会釈する。松っちゃん先生は1年の時の副担任で、人使いの荒さは沢村先生以上、面倒臭がりな性格から生徒は手伝わされるというより押し付けられると言った方が正しい。学級委員の私はクラスに関係のないことまで頼まれることさえ頻繁にあった。基本的に頼まれたら断れないのだ。
先生が教室に入ると、男子からは先程以上の歓声が上がった。先生としての適正はともかく、若くて、親しみやすくて、見た目は爽やか。とくれば男子からの人気はもちろん、体育の授業がある時以外はジャージでなく私服で過ごすところから、女子からの人気も高い。私にとってはそんなところが余計に腹立たしいのだけれど、今日もノーネクタイ、青のピンストライプのカッターシャツ、黒の薄手のニット、濃いベージュのジャケット、薄いグレーのパンツ、スポーティーな革靴、と上から下まで極まっている。
「2Bの担任の松井仁司です。時間ないから面倒は全部後な。これ見てとっとと廊下に並べ」プリントを黒板のど真ん中にマグネットで貼り付けるとさっさと廊下に出ていく。
先生は自分が遅くなったから時間がない、ということを分かっているのだろうか。黒板にはA5サイズのプリントに小さな字で出席番号が書いてある。ちらりと時計を見れば、始業式まであと5分くらいしかない。このプリントで40人全員が自分の番号を確認していたら、式には間に合わないだろう。お節介と疎まれても、しょうがない。プリントを手にとり、白チョークで大き目の字で手早く書いていく。
1.阿見
5.鈴木
10.十和田
15.早坂
20.福永
25.真山
30.村井
35.矢野
40.涌井
書きながら、似た苗字が多いせいで並ぶのに時間が掛かってしまうかもしれない、とうんざりする。
「切りのいい番号の人の名前だけ書いたから、適当に見当つけて並んじゃおう。時間がないから微調整は移動しながら、もしくは体育館に着いてからこっそりとってことで。」なるべく押し付けがましく聞こえない様に、と慎重に言葉を選ぶ。世話焼きは喜ばれるけれど、仕切り屋は嫌われる。
「さっすが、いーんちょ」忠大くんは友達に、さっさと並べよー。と言いながら廊下に出てくれた。彼が率先して動いてくれれば男子はスムーズに並べるだろう。個性の強そうなクラスの面々を見ながら胸を撫で下ろして廊下に出ると、先生がいかにも上機嫌といいた表情でこちらを見ている。元の顔立ちは爽やかなはずなのに、どうして悪徳業者に見えてしまうのだろう。内面が滲み出るから? それなら私はつまらない顔をしているのかな。
「お前、相変わらず賢くて便利だなあ。」「担任なんてめんどかったけど、OKしといて良かったわ。下手なクラスの副担任よりよっぽど楽できるもんなあ」
いや、この喋り方のせいかもしれない。どちらにしても、私にとっては大変な1年になることに何ら変わりはない。
新しいクラスで再会した胸の痛みより、松っちゃん先生の方が大変かもしれない。
* * *
あまりに楽観視していたこの時の自分を私は後で何度も振り返ることになる。
私は私の気持ちを甘く見ていた。
はじめまして、千颯です。第一作の第一話いかがでしたか?
主人公の性格から、表現が固めになってしまい、どうしても淡々としがちですね。
社交的な子を装いつつ、後ろ向きで気の弱い主人公の佐和ちゃんですが、最後までお付き合い頂けたら幸いです。