タクトとの対話【改】
「あなたはかつてアルマイア陸軍、特殊作戦部隊『カーマイア』に所属していたローランド=アーサー大尉。違いますか?」
まっすぐ見つめ問うジェームズにタクトは頷いた。
「違うもなにも、有名な話だと思っていたがな。その話を知っているなら、私が国を出る際に、知られては困る情報を色々と持ち出したことも知ってるだろう?」
しゃくるように顎を挙げたタクトにジェームズも頷き返す。
「はい。それらを交渉のカードとしてこの国の主権を認めさせたと聞きました」
「そうだ。国を一つ作り上げ、それを取りまとめるのだから、それなりの材料が必要だった。所詮、私はただの人だ。ただ人が国家という巨大な組織に対抗するには切り札がなければ潰されるしかないからね」
「あなたはなぜ、祖国を裏切ってまでこんなことを―――」
フッと笑んだタクトは祖国、という言葉を小さく呟く。
「アルマイアは多くの国からの移民で国体を成してきた国だ。私はゲルマニア系、君はクーリア系だったろう?私たちはアルマイアの向こうにさらにルーツとなり得る国を持っている。私たちが祖国、と呼ぶべきはどちらだと思う?」
「それは・・・」
タクトの問いに言葉を詰まらせるジェームズ。
アルマイアは多くの人種、多くの文化を孕み、互いに軋轢を生じながらもなんとか国体を成してきたことで有名な国だ。
それぞれがそれぞれに持つルーツを誇りに思っていることは明らかで、そのルーツごとのコミュニティすら存在する。
現在でこそ、軍事、経済ともに世界に君臨する大国としてアルマイア、という国を誇りに思う風土が根付きつつあるが、未だ人種、民族といった差異によって、国という巨体の至る所に歪みが生じていた。
「私はね、国、などという虚ろなコミュニティにさほど意味があるとは思えないんだ。単一の文化、単一の民族で構成された国家ならばまだしも、複数の文化、複数の民族が集合した国家など、所詮は己の権益を守るためだけに寄せ集まった烏合の衆だ。その方が都合がいいから集まっただけ。そこには信念も何も存在しない。より強い者に阿るがままに妥協に妥協を重ねただけの産物だ。それも良いだろう。阿ってでさえ自己を護りたいとするのは本能なのだからな。だが、その先に出来上がった資本主義社会は本能のままに争い、相食み、潰し合う、そんな価値観で動かされている。だから私は違う形の社会を創り出したかった。資本主義をすべて否定するのではなく、共産主義のように一見平等に見える不平等の塊を推し進めるのではなく、成した分だけ己に返ってくる、因果応報の社会を。文化や出自など関係ない、努力をすればした分だけ返ってくるが、努力をしなければ何も得ることは出来ない、そんな社会を。君は努力をした結果、オリンピックで金メダルという快挙を成し遂げたわけだから、その意味は分かるだろう?」
「それは・・・そうですが、やはり生まれ持ったものの差、というものもありますよね?」
ギフト―――天与の才をキリスト教圏では「神からの贈り物」と呼ぶ。
人それぞれに違ったギフトがあるのだから、そもそも生まれもって人は平等ではない。
「それは確かに。人は生まれながらにして公平ではない。それは事実だ。だが、その不公平は個性と呼べる。個性を生かすも殺すも当人次第だ。実際、フーデシアでは障害を持つ者たちもそれぞれに適した仕事で才能を開花させている。全員が全員というわけではないがね。ローランは障害と呼んでも差支えないほどのリスクを負っていたが、私は彼にそのリスクを生かす方法を教え、彼は血のにじむような努力の結果今の立場にある。君には高い身体能力があったが、それを生かすと決めたのは君だろう?君は自身の最適解を得たわけだ。その最適解を得るというのも努力の結果だと、私は考えている」
ローランの言った通り。
タクトはすべてを理想という名の夢想ではなく、現実を受け入れたうえで極めて論理的に、そして理性的に、物事を見通している。
出来もしないことを声高に叫ぶ、アルマイアの政治家連中とは明らかに違っていた。
「あなたはなぜ、世界を敵に回すような真似をするのですか?あなたほど理性的な方ならば、共存共栄を図ることも出来たように思えますが」
ジェームズの言葉にタクトは鼻を鳴らす。明らかに侮蔑の意思を込めた行動だ。
「違う価値観で生きる者たちの集合で共存共栄など現実に存在するとでも思っておるのかね?それが出来るならばなぜ戦争は無くならない?なぜ人は相争う?フーデシアは誕生後に真っ先に軍備の増強を図ったがゆえに、大戦の恐怖に駆られた連中からの攻撃を受けたが、それを退けて以降は一切の戦闘行為を行っていない。だが、アルマイアはどうだ?世界の各地に争いの火種をまき散らし、争いを起こさせたうえで介入する。すべては自国の不満を対外的に敵を作ることで抑え込み、経済を活性化させるためだけにだ。そんなアルマイアのやりように同意しているものが世界の趨勢を占めている。これもある意味共存共栄なのやもしれんが、多くの血を流し、多くの犠牲を強いて得られるものが、果たして共存共栄と呼べるものなのか?私はあれが共存共栄というのであればそんなものは必要ないと考えている。パワーゲームを否定するつもりは毛頭ないがね、彼らがやっているのはパワーゲームに見せかけた殺戮ビジネスだよ」
その通りだ。そんなアルマイアの姿を批判する者がいても、多くは自身に利益がある、もしくは不利益がないとして黙認しているだけ。
アルマイアは多くの新たな憎しみを産み出し、それを力で抑え込むということを繰り返して世界の盟主と呼べる立場を得てきた国だ。国が行う非道な行為の恩恵を受けているのがアルマイア国民なのだから、その口から共存共栄などと出てくれば呆れ果てもするだろう。
「俺を・・・亡命させてもらえませんか」
ローランとの会話からずっと考えていたこと―――
“人は理性ある存在だと証明する”
ただのスポーツ馬鹿でしかなかった自分が、初めて、“世界とは何なのか”ということに向き合った。
正道はどちらにあるのか―――そんなこと考えるまでもなかった。
しかし、タクトは静かに首を振る。
「君はもう国家の英雄とはなれないだろう。だが、君はあえてその現実と向き合わねばならない。君があるべき場所で、その現実について分析し、よりよい未来へと繋がる答えを出せたなら、また来なさい。君に関してはすでに司法取引の結果無罪という結審もついているし、出入国に関しても問題はない。ローランは君の事を気に入っているようだし、また、彼の相手をしてやってもらえたら嬉しい」
「彼の相手というと・・・」
“ボンデージ”という名の所謂ところの拷問か。
ジェームズの思考を読んだかのようにタクトはほほ笑む。
「あれは任務中にしかやらんよ。最も効率よく、犠牲を最小限に抑えて、最大限の効果を発揮できる手段だからやっているだけ。特に君のような有名人ならばなおさらだ。あの子にはすべてを曝け出して話を出来る相手がいない。任務が任務だからね。君はすべてを知ったのだし、君となら屈託なく話も出来るだろう?」
「そう・・・なんでしょうか?」
「裁判の後、あの子が君と話してるところを見かけたよ。あの子の年相応の笑顔、本当に久しぶりに見たからね」
あの日、ローランが最後に見せた寂しげな微笑み―――
―――僕の希望が無くなってしまったら、僕はどうなってしまうんだろう―――
「あの・・・」
「なんだい?」
「あなたは、この国の未来を、どうお考えなのですか?」
「この国の?」
「あなたは“人とは理性ある存在であると証明する”ためにこの国を作ったとローランから聞きました。因果応報という原理で成される真の平等を目指して。ですが未だにその理念を継ぐに相応しい後継者が見つかっていないとも聞いています。あなたがいなくなれば、この国はそんな崇高な理念などかなぐり捨ててアルマイアを始めとした資本主義の国へと変わっていくのでしょう。理性によって制御された“因果応報”の原理ではなく、本能のままに欲望を開放した“弱肉強食”という原理によって動かされる世界に。しかしあなたがこの国を作って四十年―――後継者を用意することは十分に出来たはずです。あなたの理念を理解し、継いでくれる相手を」
「君は痛いところを突くな。その実直さ、というより愚直さがローランが気に入った理由なのだろうが。確かに私は現在のことばかりにかまけて、先の事、未来の事を蔑ろにしていたことは否定出来ない。老いを感じて後継者の事を真剣に考え始めたのはローランを引き取った頃からだ。震えるローランを見て、この子の未来を守ってくれる者が必要だと思った。そこでこれまで私が直接やっていた執務を分担し、国民からの評価が高い者を要職に就けて、彼らに補佐となる事務官を選ばせ執務させたんだ。すると次から次へと機密が漏洩し始めた。といってもダミーだがな。機密情報など平時の執務にはなんの関係もないので、いざという時のためにすべてにダミーを用意していたんだ。それが功を奏したわけだ。紙媒体で持ち出されたものに関しては放置するしかなかったが、電子媒体で持ち出された情報に関しては漏洩した時点ですぐにわかるようになっていたのでどのルートで漏れたかを調べるのは容易だったよ」
わずかに目を伏せたタクトはローランと同じように寂しげに微笑む。
「人の欲というものはなぜこれほどまでに度し難いものなのだろうな。この国で稼ぎたければそれだけ働けばいい。収入でかかってくる税には大差はないのだし、働けば働いた分だけ己の財と出来る。職を変えるのも自由だし、国外に出たければ出ればいいのだから、自身の意思でどうとでも出来るはず。なぜこの国に留まりながら、労働の対価としない利益を得ようとするのかが私には理解が出来ないんだ。国外からの財の持ち込みには厳しい制限をかけてはいるが、それは因果応報、等価交換の原則を維持するためで、そもそも楽をして暮らしたいならこの国に来る必要などない。欲に塗れた資本主義の国で暮らせばいいだけだ。なぜ求められる生き方が違う国で生きようとするのか、君にはわかるか?」
「それは・・・」
ローランが教えてくれたフーデシアの制度から想像はつく。
フーデシアは信教の自由がないこと、「働かざるもの食うべからず」の原則からくる福祉に関する制度の貧弱さから諸国からの非難を受けてはいるが、国内で政府による国民に対する弾圧が行われているわけでもなく、フーデシアへの移住は厳正な審査があるが国外への移住は禁じられていない。
フーデシアの制度が気に入らなければ、国外に出ればいいだけだ。そのためには永住権の取得など様々な障害が待っているが、楽をして生きたいならその程度は当然の負うべき義務だろう。
それすらも避けて、なぜフーデシアにこだわるのか―――答えなど一つしかない。
単なる怠惰だ。
フーデシアの税制は率ではなく額で定められているとローランは言っていた。
稼げば稼ぐだけ税で徴収される率は下がり、稼がねば率が上がる。
さすがに高所得者と低所得者が同じ額を課せられているわけではないが、差があってもせいぜい倍。諸外国のように数十倍、数百倍も違うということはないという。
最低限度の収入もなければ課税は免除されるが、そこまで来ると真っ当な生活は望めないため、近隣の高所得者が養っているケースがほとんどだという。
なぜ高所得者が困窮している人々を養うかというと、治安が乱れれば割を食うのは自分たちであることを理解しているからだ。
また、タクトが広めた東の宗教から派生した『因果応報』という概念が宗教を頼らずに浸透しているために、“善行を積むことは最終的には自身のためになる”と認識しているからだとも。
稼げば稼ぐほど国に吸い上げられてしまう資本主義諸国とは根本から違い、余剰の利益が自発的に社会への還元が行われているのがフーデシアだ。
さらにフーデシアは水資源が豊富なうえ、大戦当時からすでに電子兵器の運用を考えていたタクトの手によって、先進的な発電施設が無数に配備されているため、水道、電気といった生活インフラ関連は無料ではないが極めて安い。
そんな国であるからこそ、出ていくには惜しい。だが、働いて稼ぐのは面倒だ。
そんな怠惰がこの国を崩壊へと導く―――判りきっているのに、なぜ自身を律することが出来ないのか理解出来ない。
タクトはそう言っているのだ。
「多くの国民は私の考えに賛同してくれている。だからこそ、日々労働に励み、この国の経済を支えてくれているのだ。にもかかわらず、わずかな権力を与えるだけで心のありようを変えてしまう。この国における権力など、労働による対価には遠く及ぶものではないことは理解しているはずなのにな」
「七つの罪源―――ですね」
ジェームズの言葉にタクトは方眉を上げる。
「やはり君もそう思うか?実に人の様をよく表しているものだと思うよ。『強欲』『嫉妬』『憤怒』『色欲』『貪食』『傲慢』そして『怠惰』―――この事だけでもわかるが、本来の宗教は人を戒める物であったはずなのだがね。いつのまにやら七つの罪源そのものが渦巻く浅ましい存在へとなり果ててしまった。その浅ましさを微塵も隠す気がない連中が、執拗に“人権侵害”などと叫んでいる姿は実に滑稽だが」
「ごもっともです。ですが、どうなさるおつもりですか?」
問題があることはわかったが、それだけでは何も解決しない。
「国民の力を信じるしかないな。政務を担う者たちは国民の選挙で選ばれているのだし、彼らの不正を監視するシステムはローランを始めとした者たちのおかげで問題なく稼働している。不正の告発を受けて、国民が自らが選んだ者を罷免し、国のために律していくことを」
それは確かに理想なのだろう。だが、ローランが言うように、それも強い意志を持ち導く者がいなければ遠からず破綻する。
人類の歴史が証明してきた人の愚かさから、結局、抜け出せないままだ。
「ローラン、ではダメなのですか?」
養い子としてタクトのすべてを吸収してきたローラン。
フーデシアの事であれば法律から文化、インフラなどの技術関連までおおよそ答えられないことはないし、国外の文化や制度にも精通している。
さらにタクトから惜しみない愛情を注がれ、タクトの理念をもっともよく理解していると言っていい。
「そういうものをあの子に背負わせるつもりはないよ。あの子はもっと自分を曝け出すべきだと、私は考えてるんだ。理性ではなく、本能をもっと曝け出して欲しい」
「本能を?なぜです?」
理性ある存在であることを証明する、というタクトの理念に相反することになる。
「君は知ってるだろう?あの子の共感覚は並みのものじゃないんだ。見ること、聴くこと、触れること、そのすべてが同時にフィードバックされる。あの子は普通に生活するだけでも常人の数十倍から数百倍の処理が脳内で行われているんだよ。私はその処理の仕方に方向性を持たせることで処理を軽減できるのではないかと考え、その方法をあの子に教えた。それが上手くいってくれたから今のあの子があるわけだが、脳に常人とは比べ物にならない負荷がかかっている事実に変わりはない。理性というのは脳にさらなる負荷をかけるものだ。今のところは闘うことで本能を開放してガス抜きをしているようだがな」
「ということは・・・」
ケビンを、そしてジェームズを徹底的に破壊して見せたローラン。普段の性格からずいぶん豹変するものだと思ったが、あれは溜まりに溜まったものを吐き出すための行為だったのだ。
「あの子の共感覚は格闘戦と相性が良かったんだろうな。私もあの子に手ほどきを始めて一年で歯が立たなくなった。いくら老いたりとはいえ、鍛錬は続けていたし、それなりに自信はあったんだが」
タクトの、いや、ローランド=アーサー大尉の『カーマイア』における活躍は伝説になっているという。老いたりとはいえそんな強者を、まだ十歳ほどのローランが圧倒するなど、尋常でないことは確かだ。
「あの子は普通の社会では必ずはみ出してしまう。あの子の能力を十全に発揮できる環境として今の立場を用意はしたが、今のままで良いとは考えてないんだ。あの子に改めて指針となるものを見つけてやれたらよかったんだが・・・」
「軍属ではダメなんですか?彼ならまさに精強さで知られるフーデシア軍に相応しいような感じですが」
「ダメではないが・・・あの子の強さは群を抜いてる。うちにも特殊部隊は存在するが、あの子に勝てる隊員はいないだろう。強すぎる存在に向けられるのは敬意ではなく畏怖だ。部隊には所属させられないから、結局単独任務に就かせることになる。それではいつまで経っても人との繋がりを持てないままだ。出来ることなら、あの子にも他者と関わることで得られる喜びを知って欲しいと思っている」
ローランの姿を思い描いているのだろう。
慈愛に満ちた眼差しで微笑むタクト―――
「本当に、ローランを大切に思ってらっしゃるんですね」
「もちろんだ。ローランに限らず、国民のすべてを大切に思うよ、と言いたいところだが、私はそれほど大層な人間ではないんでな。私はあの子に息子を見ていただけさ」
微笑みから自嘲へと表情を移したタクトは強く手を握りこむ。
「あの大戦が始まった頃の事だ。私には大戦の前年に授かった子があった。ちょうど『カーマイア』に着任することになった年だ。色々とキナ臭くなってきた世界情勢の中で、『カーマイア』の任務は途切れることなく続き、私は生まれた我が子の顔を見ることもかなわずひたすら国のため、ひいては愛する妻子のためと駆けずり回っていた。そして大戦が始まり、私たちは交代制で休暇をとることが許されたんだ。別れを―――それを告げるために。もうすぐ休暇が取れる―――別れを告げるためとはいえ、ようやく我が子の顔を見ることが出来るという高揚感でいっぱいだった。だが―――そんな私のところに届いたのは凶報だった。妻と子が家に押し入ってきた強盗に殺されたというね」
「そんな―――」
「隊から家に戻ることを許された私の前にあったのはすでに灰になった二人の姿だった。頭部をショットガンで打ち抜かれて見るに堪えない状態だったために火葬したのだと。家の中は強盗に荒らされ酷いありさまだったが、妻が休暇で帰る私のために色々と用意してくれていた名残があった。もう、泣くことすら出来なかったよ。途方に暮れていた、というのが実際のところだろう。黙々と、部屋を片付けていると妻が私宛に書いていた手紙を見つけた。何通も、何十通も。『カーマイア』は任務中には家族からの連絡ですら受けることが出来ない部隊だったから、私に送ったつもりで書いていたんだろう。その中には生まれた子の写真が何枚も同封されていた。この手で抱くはずだった我が子の写真を見たら、もう何も見えなくなっていた。たぶん、その時なんだろうな。この国を、理不尽に屈しない世界を創りたいと思ったのは」
静かに語るその姿が苦しくて仕方がなかった。ただ高尚な理念を以って突き進んできた人物だと思っていた。だが、その裏にあったのは実に人らしい感情だったのだ。
「このことはローランも知らないんだ。だから黙っておいてくれよ」
「そんな話を、どうして俺に・・・?」
「どうしてだろうな。どうも君には色々と話してしまいたくなるものがあるようだ。さて、そろそろ私はお暇させてもらうとしよう。また、会えることを楽しみにしているよ」
軽く頭を下げ、歩いていくその後ろ姿は実に威風堂々としている。とても齢70が見えているとは思えないほどに。
まさに歴戦の勇士―――その屈強な身の内に多くの痛みを抱えながら、理不尽には徹底的に抗おうと闘い続ける男。
世界一という栄光を得ながら、目先の利益に誑かされてくだらないスパイに身を落とした自分とは全く違う。
「そうそう、もう一つ教えておこう。タクト、というのは我が子の名だ。妻は音楽教師でね、人を導けるような人物になるようにと、そう名付けたんだ」
振り返りそう告げたタクトは、実に様になったウィンクをすると、片手を挙げて去っていく。
ジェームズは自然と上がった手を額に当て、直立不動の敬礼でその姿を見送った。