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アフタースクール ランデヴー

作者: 橘ツカサ

「理不尽だっ!」

 わたしは思わず口走った。

 下校ラッシュのピークも過ぎ、校舎に残る生徒はまばら。人気の少ない廊下は今、ある意味わたしの独擅場だ。

「どうしたの? 瑛香。大きな声出して」

 声の主は、隣を歩く親友の紗綾。つぶらな瞳が、こっちを不思議そうに見つめている。

 冬の陽光は早くもかげりを見せはじめ、淡い日差しが彼女を美々しく彩っていた。

 意図せず見とれて黙り込むわたしに、紗綾が小首をかしげてくる。

「なんでわたしらが、こんなことしなくちゃいけないんだよぉ!」

 そそくさと目線を外すと、わたしは声を張り上げた。語気の強さに比例して、身振りもついつい大きくなる。ふたりで持ってるゴミ箱が揺れ、紗綾の華奢な体躯を翻弄した。

「ごめんなさい、つき合わせて……」

 紗綾の表情がふっと沈み込む。普段にもましてか細い声。そこからは申し訳なさがひしひしと伝わってくる。憂いを帯びた端整な横顔は、もともと紗綾がまとっている儚げな雰囲気と相まって、まさに筆舌しがたいものがある。わたしは高鳴る鼓動を禁じ得ず、ただその表情に魅入られた。このままずっとを見ていたい。でも、紗綾にこんな顔は、似合っているけど似合わない。

 だらしなく緩んだ表情筋を引き締めると、わたしは水気を払う犬のようにフルフルと頭を振った。

「ついて来たのはわたしのほうだ、紗綾はちっとも悪くない。わたしが不満なのは、なんで当番でもない紗綾が、ゴミ捨てなんかしなくちゃダメなのかってことなんだっ!」

 力説するわたしを見て、紗綾が表情をやわらげた。

「だってあの子たち、困ってたから」

 用事があるというクラスメイトに頼み込まれ、紗綾はゴミ捨て当番を代行するハメにったのだ。

「あいつらの用事って遊びの約束だぞ。そんな頼み、きいてやることなかったのに」

「でも、約束を守ることは大切よ。瑛香だって、私が約束したのに来なかったら嫌でしょう?」

 紗綾がたしなめるような視線を向けてくる。

「うぅ~」

 わたしは苦悶に顔を歪ませた。たとえの相手が紗綾じゃなかったら、余裕で否定してるのに。

「だいたい紗綾は人が良すぎるんだよ。何でもかんでも頼みを聞いてやってさ。嫌なら断ったっていいんだぞ」

「うん。でも、別に嫌じゃないから」

 一人息巻くわたしに対し、紗綾が笑いかけてくる。

「紗綾がそう言うんなら……」

 その聖女のような笑顔にあてられ、わたしのボルテージはみるみる急降下。それからは、ただ黙々と廊下を歩き続けた。

 紗綾はもともと口数が多いほうじゃない。だから、わたしといるときでさえ、今みたいな沈黙がしょっちゅう訪れる。でも、そこに気まずさは少しもない。むしろ、心地いいと言ってもいい。わたしたちの関係は、その時々の感情を口に出し、相手に共感を求めるような薄っぺらいものじゃない。そう自負しているからだ。

 道々、下校する生徒たちとすれ違う。通り過ぎる教室からは、居残っておしゃべりに興じる声が聞こえてくる。その表情から、声から、ひいては学校全体から、放課後特有の開放感が発せられていた。ただ、ゴミ集積場所に向かって歩く、わたしたちを除いては。

(本当なら、わたしたちだって……)

 紗綾に負い目を感じさせないように、わたしはこころの中でため息をついてみた。

 でも、ものは考えようだよな。その分、紗綾と一緒に過ごせる時間が増えるんだから。ひとりニヤけながら、わたしは隣の紗綾をうかがい見る。

 『意識は常に何ものかについての意識である』というのは誰の言葉だったっけ。何気なしに生活しているときにでも、人はなにかしらの対象へ意識を向けているらしい。当然、こうして押し黙っている間も、わたしはあれこれと思いをめぐらせている。ふたりで一緒にいる場合、わたしの意識はたいてい紗綾に向けられる。それは今現在も例外じゃなかった。

 紗綾はいつも必要最低限のことしかしゃべらない。そのせいで、言葉から伝わってくる意思や感情もそう多くない。でもそれは、何も考えていないってことでも、何も感じてないってことでもないんだよな、ただ口にしないだけで。だったら、その言外の気持ちを察してあげることが大切なんだ。そのために必要なのは、相手を自分に置き換えて考えるってことだよな、やっぱり。紗綾もわたしも同じ人間なんだから考えや感じ方に大差はないはず。そうなると、さっきの言葉、あれは本当に紗綾の本心なのか? わたしだって本当に困っている人になら手を差し伸べてもいいと思ってる。だけど、今日みたいに他人の都合で煩わされるのは、はっきり言ってごめんだ。紗綾だって口では嫌じゃないって言ってたけど、実際は嫌なのかも、ただ性格的にそう言えないだけで。だったらこれは大変だぞ。本当は嫌なことを無理やり続けたら誰でもストレスが溜まる。ストレスを溜めすぎると心や体に異常をきたす。そしてそして、さらにそれが進むと……。

 よくないイメージ映像が脳裏をよぎる。

(あぁ、紗綾が、紗綾が!)

 一瞬、目の前が真っ暗になり、その場に立ち尽くす。頭まで心臓がのぼってきたかのような動悸を感じる。変な汗まで浮かんできた。自我喪失の一歩手前。

 だけど、わたしは踏みとどまった。

(そんなの嫌だ! わたしが紗綾を守るんだ!)  

 揺るぎない決意を持って、わたしは紗綾に対峙した。

「紗綾!」

「どうかしたの? そんな怖い顔して」

 紗綾が目を瞬かせる。

「わたしは決めた! もう紗綾にこんなことさせるもんか! 紗綾が断れないって言うんなら、わたしが代わりに断ってやる。だからもう心配すんな!」

 はじめキョトンとしていた紗綾も、やがてわたしの意図を理解したのか、穏やかな笑顔をうかべた。

「ありがとう、瑛香。でも私、本当に嫌じゃないから」

「そんなわけないだろ! いいから無理すんな!」

 意固地に迫るわたしに対し、紗綾が少し困ったような表情をうかべた。

「ううん、本当よ。私、人の役に立てることがうれしいの」

「他人を気遣う紗綾の優しさはわかる。でも、紗綾はもっと自分自身のことを考えるべきだ」

「違うの。これは、自分のためにしていることだから」

「自分のため? 他人のために自分を犠牲にして、それで紗綾が幸せになれるのかよぉ」

「犠牲だなんて大袈裟よ。それに私、今でも十分幸せなの」

「そんなの嘘だ! そんな幸せ、わたしは認めない!」

「それじゃあ、瑛香は幸せって何か知ってるの?」

「うっ、それは……」

 言葉に窮したのと同時に、わたしに冷静さが戻ってきた。見ると、紗綾が悲しげに眉を八の字に寄せている。加えて、普段は透き通るような白い肌が、今はほんのり紅く上気していた。いつもと違うその様子を、わたしは固唾を呑んで見守った。

「私、幸せっていうものは、自己の満足の度合いで決まるものだと思うの」

 言葉は発せられた。

「幸せが自己満足!? それってどういうことだぁ?」

 理解が追いつかないでいるわたしの目に、必死に言葉をつむぎ出そうとしている紗綾の姿が映る。

「あのね。同じ境遇にあったとしても、同じ刺激を受けたとしても、それをどう感じるかは人それぞれ違うものなの。たとえば味覚。味っていうのは甘味、塩味、酸味、苦味、旨味の組み合わせで構成されてるわ。そして、それはショ糖濃度、塩分濃度、酸度みたいに数値化することができるの。だから、ある人がおいしいと感じる味の条件を、すべての人が経験することは可能なのよ。でも、人によって好き嫌いがあるように、経験した人すべてがその味をおいしいと感じるわけじゃないでしょ。味を感じることと、おいしいと感じることは別の話なの。だから、特定の人がおいしいと感じる味を、すべての人にとっておいしい味だって断定することはできないのよ。それと同じで、特定の境遇を幸せだと感じる人がいるからって、その境遇をすべての人にとっての幸せだなんて断定することもできないの。どんなに貧しくても、その生活に満足している人の人生は幸せ。逆に、どんなに裕福でも、その生活に満足していない人の人生は不幸せ。それって、幸せは本人がどう感じるかってことで決まるからだと思うの。だから、特定の条件を定めて、それを達成すること、その状態にあることは幸せそのものじゃないはずよ。もちろん、それは幸せを感じるきっかけになるとは思うけど。味を認識することが、おいしいと感じることの要因になるように」

 わたしの憶見は見事に打ち砕かれた。

「そうだよな……。みんながみんな、同じことを同じように認識して、まったく同じに感じる必要があるんなら、そもそも個体化なんてするはずないもんな。ごめんな、バカなこと言って……」

「ううん、いいの。瑛香は私のことを思って言ってくれたんだもの」

 紗綾の優しい言葉と微笑みに、わたしは照れ臭さを感じずにはいられなかった。

「エヘへ」

後頭部を掻きながら、わたしも紗綾に笑い返す。この笑顔の交換で、すべて解決問題なし。少なくとも、わたしたちの間では。

「それにしても、すごいじゃないか。今みたいな調子で他のやつらとも話をしたら、きっとみんな、紗綾のことを見直すぞ! それどころか人気者にだってなれるかも!」

 わたしは努めて明るく振舞った。紗綾の望みが人の役に立つことなら、今以上に人と触れ合うことが大切なはず。だったら、わたしはそれを後押しするんだ。ちょっと寂しいけど、紗綾はわたしの占有物じゃないからな。

「だめ! そんなことできない」

 だけど、紗綾は急にうつむいて頬を赤らめた。恥ずかしがり屋の紗綾のことだけに、この反応は予測できてたけど。

「なんでだよぉ。紗綾は人の役に立ちたいんじゃないのか? だったらコミュニケーション能力も必要だろ?」

「うん、でも……」

 言葉を濁す紗綾。

「簡単なことじゃないか。今、わたしに話したみたいにすればいいだけなんだからさ」

 説得を続けるわたしに、紗綾がはにかみながらつぶやいた。

「だって、瑛香は特別だから……」

「なっ!」

 その言葉に、わたしの外の世界が凍りつく。

 紗綾の言う『特別』って何だ? 簡単な単語のはずなのに、今はその意味がわからない。もしかしてこの『特別』って、あの『特別』なのか? これってつまり、そういうことなのか!? 

 ドキドキという心臓の音と妄想とがいっぺんに膨れ上がる。

 なぜだろう……。目の前にいる紗綾が、さっきとはまるで別な存在のように感じられる。今の紗綾はすごく、すごく……。

 ゴクリ。

 わたしは生つばを飲み込んだ。その刹那、頭の中で怒号が響きわたった。

(紗綾をそんな目で見んなー!)

 理性の勘気をこうむって、わたしはハッと我に返る。

 そこには心配そうにわたしを覗き込む紗綾の瞳があった。

 うぅ……、その純粋な輝きがものすごく痛い。不純な欲望に囚われていたわたしにとっては。 

 とにかく今は返事をしなきゃ。平静を装い、わたしは無自覚的に言葉を吐いた。

「な……、なら、しょうがないよなっ!」

 あれ? 紗綾の表情は曇ったままだ。なんでだ?

 焦燥感にかられながら、わたしはあれこれ逡巡する。

 考えてみたらそうだよなぁ。あそこであんな返しをしたら、変に思われて当然だよなぁ。なんであんなこと言ったんだろう……。

 重苦しい瞬間の蓄積。自己嫌悪にさいなまれつつ、わたしは無言の紗綾を見つめた。

「瑛香、もしかして怒ってる? 私がわがまま言ったから……」

 気弱な視線が紗綾から投げかけられる。

 良かった! 違った! 小躍りする内心とは裏腹に、わたしはぶっきらぼうに言い放った。

「怒ってなんかない。だけど、紗綾のわがままを聞いてやるのは今回だけだかんなっ」

「うん!」

 パッと破顔する紗綾。その微笑みにつられ、わたしも無意識に笑顔になる。

 笑顔を交わしたわたしたちは、どちらともなく、またふたり並んで歩きはじめた。

 わたしはホッ胸を撫で下ろすと、不意に感じた疑問を口にした。

「なぁ、紗綾。でも、どうしてわたしが怒ってるって思ったんだ?」

「ん? だって瑛香。顔が赤かったから」

「えぇっ!?」

 指摘されてはじめて知る事実。そして今度は、自分でも顔が火照っていくのが実感できた。

「ほら、またよ。大丈夫? 具合でも悪いの?」

 紗綾の顔に、再び心配の色がうかぶ。

「なんでもない、なんでもない! これは、その……。とにかく、なんでもないんだっ!」

 わたしは早口にまくしたてた。

「本当?」

 今度の紗綾の表情には、あからさまな疑惑の念が宿っていた。

(わたしをそんな目で見んなー!)

 疑惑の視線に耐えかねて、わたしは顔を背け歩き出す。

「そんなことより早く行くぞっ! こんなこと、さっさと終わらせて、とっとと帰るんだからなっ!」

「あっ。待って、瑛香」

 紗綾が後ろから呼びかける。だけど、わたしは歩く速度を緩めなかった。

 ごめん、紗綾。いくら紗綾のお願いでも、こればっかりは聞けないんだ。この顔の火照りが治まるまでは。気持ちの整理がつくまでは。

 ゴミ箱伝いに紗綾を感じる、一生懸命わたしについてきてるのがはっきりわかる。その感覚に言い知れない充足感を感じながら、わたしはまた物思いに耽る。

 紗綾はいつもわたしを幸せな気分にしてくれる。一緒にいるだけでこころが満たされる。だけど、わたしはどうすれば紗綾が幸せになるのかわからない。紗綾が本当に幸せを感じているのかもわからない。わたしはわたしのこの手で紗綾を幸せにしたいのに。

 夕闇迫る校舎の中、わたしは思わず口走った。

「こんなの絶対理不尽だー!」


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