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六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


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第35話 店主が「余ったおでんは、カレーにしてもおいしいですよ」と言った結果、灰都の裏社会で出汁の再利用を巡る禁断の研究が始まり、六人の伝説がカレーの前で正義を見失いました

 人間には、決して越えてはならない一線がある。


 裏切り者を許すかどうか。


 敵と手を組むかどうか。


 守るべき秘密を明かすかどうか。


 そして――昨日のおでんを、今日のカレーに変えていいのかどうか。


 少なくとも、その日の《CAFE 灯》では、最後の問題が最も深刻に扱われていた。


「……店主」


 王冠が、厨房の鍋を見つめたまま口を開いた。


「確認したいことがある」


「はい。何でしょう?」


「この鍋の中身は、昨日のおでんの出汁で間違いないな」


「そうですよ。具材を取り出して、きちんと保存しておいたんです」


「それを、カレーに使うというのか」


「はい。出汁の旨味が残っているので、おいしくなると思いますよ」


 王冠は黙った。


 その隣で、道化師が眼鏡を押し上げる。


「待ってくれ。おでんの出汁をカレーに転用するということは、和風の旨味と香辛料を組み合わせるということか」


「そうですね。家庭でも、だしを使ったカレーはありますよ」


「……家庭でも?」


「はい」


 道化師は、言葉を失った。


 彼が想像していたのは、料理人が長年の経験と試行錯誤の果てにたどり着く、特殊な調理技法だった。


 しかし、透はあっさりと、それは家庭でも作られるものだと説明した。


 つまり、この禁断の技術は、特別なものではない。


 特別なものではないからこそ、恐ろしい。


 今まで彼らが当然だと思っていた「一つの料理は、一つの完成形で終わる」という考え方が、音もなく崩れていく。


「……つまり」


 黒百合が、呆れたように言った。


「昨日のおでんを、今日もおいしく食べる方法がある。それだけでしょう?」


「それだけ、ではない」


 王冠が真顔で答えた。


「昨日の成果を、今日の材料として活用するということだ」


「……料理の話をしているのよね?」


「もちろんだ」


 その答えに、渡り烏は額を押さえた。


 彼らは、たかがおでんの残りを前に、なぜここまで真剣になれるのだろう。


 答えは簡単だった。


 六人とも、透の言葉を真剣に受け止めすぎるのである。


 そして、透自身はそのことに、まったく気づいていなかった。


     *


 そもそも、カレーを作ることになったのは、昨日の夕食の後だった。


 鍋に残ったおでんを見て、透が言ったのである。


「明日は、これを使ってカレーを作ってもいいですね」


 零が顔を上げた。


「……おでんが、カレーになるの?」


「そうですよ。具材を使ってもいいですし、出汁だけを使ってもおいしいと思います」


「……大根も?」


「大根も、もちろん」


 零は、鍋の中を覗き込んだ。


 昨日、自分が追加した大根が残っている。


 少し薄味だった大根も、今では出汁をたっぷり吸っていた。


「……大根のカレー」


「食べたことがなければ、試してみるといいですよ。意外と合うかもしれません」


 透は、そう言って笑った。


 その場にいた葬送が、腕を組んだ。


「……牛すじも入れたい」


「いいですね。牛すじカレーもおいしいですよ」


 王冠が反応する。


「具材の組み合わせを、事前に決める必要があるな」


「好きなものを入れればいいんじゃないでしょうか」


 透が答えた。


 道化師は、すぐにメモを取り始めた。


「……具材の選択における自由度の確保」


「道化師さん、また何か書いているんですか?」


「個人的な研究です」


「熱心ですねえ」


 透は感心した。


 黒百合は、もはや何も言わなかった。


 こうして翌日の厨房では、おでんの出汁を使ったカレーという、ささやかな昼食の準備が始まったのである。


     *


 最初に立ちはだかったのは、出汁の扱いだった。


「……この出汁を、どこまで使う?」


 王冠が尋ねた。


「全部使ってもいいですし、味を見ながら調整してもいいですよ」


 透は答えた。


「味を見ながら……」


 道化師が鍋を覗き込む。


「しかし、味見の段階では、カレー粉を入れた後の味を完全には予測できない。出汁の濃度と香辛料の強さをどう調整するかが問題になる」


「そうですね。だから、少しずつ入れてみればいいんです」


「少しずつ?」


「はい。入れすぎたら戻せないこともありますから、最初は控えめにして、味を見ながら足すといいですよ」


 王冠は、静かに頷いた。


 それは、彼にとって聞き慣れない考え方ではなかった。


 しかし、彼はこれまで、何かを始める前に最適な量を決めようとしてきた。


 最初から正しい量を投入する。


 失敗の可能性を減らす。


 余計な変更を必要としない状態を作る。


 それが最も合理的だと信じていた。


 ところが、目の前の店主は、最初から正解を当てることより、途中で味を確かめることを勧めている。


「……つまり、最初の判断が間違っていた場合でも、途中で修正できる余地を残しておくわけか」


「まあ、料理ではそういうことも多いですね」


 透は鍋をかき混ぜた。


 王冠は、その様子を見つめていた。


 最初の判断を間違えないこと。


 それは、確かに大切だ。


 しかし、間違えた後に修正できることも、同じくらい大切なのではないか。


 完璧な判断を下せる人間などいない。


 ならば、最初の判断だけにすべてを賭ける必要はない。


 彼は、静かに手帳を閉じた。


「……カレー粉は、少しずつ入れよう」


「はい。そのほうがいいと思います」


 透は笑った。


 王冠は、まるで重大な決断を下したかのような顔で、カレー粉の袋を手に取った。


 その横で、道化師が小声で呟く。


「……味見による逐次修正方式」


「だから、料理の話なのよね?」


 黒百合の声には、すでに諦めが混じっていた。


     *


 次の問題は、具材だった。


 昨日のおでんに入っていた大根、卵、こんにゃく、牛すじ。


 そして、カレー用に新しく用意した玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。


「……大根は、入れるのか?」


 葬送が尋ねた。


「入れてみましょう。おいしいと思いますよ」


 透が答える。


「……卵は?」


「ゆで卵を添えてもいいですね」


「こんにゃくは?」


「それも、試してみたら面白いかもしれません」


 葬送は、真剣な顔で頷いた。


「……全部、試すのか」


「全部入れなくても大丈夫ですよ。好きなものを選びましょう」


 透は笑った。


 その言葉を聞いた零は、少し考えてから口を開いた。


「……大根と、牛すじ」


「いいですね」


「……あと、にんじん」


「はい。じゃがいもも入れますか?」


 零は鍋を覗き込み、少し迷った。


「……今日は、なくてもいい」


「分かりました」


 透は、そのままじゃがいもを別の皿に置いた。


 誰も、零の選択を否定しなかった。


 全員が同じ具材を選ぶ必要はない。


 何を入れるかは、その人が決めればいい。


 ただし、鍋の中で一緒に煮込む以上、互いの希望を聞き、折り合いをつける必要はある。


 自由とは、誰にも気を遣わなくていいという意味ではない。


 自分の希望を持ちながら、他人の希望も尊重すること。


 透にとっては、ただの料理の相談だった。


 しかし、零にとっては、自分の好みを口にしても、誰かの居場所を奪うことにはならないと確かめる時間だった。


「……店長」


「はい?」


「大根、たくさん入れてもいい?」


「もちろん。ただ、鍋に入りきる量にしましょうね」


「……うん」


 零は嬉しそうに大根を入れた。


 その隣で、葬送も牛すじを加える。


 王冠は全体の量を確認し、道化師は味の変化を予想し、黒百合は「食べられるなら何でもいいわ」と言いながら、きちんと鍋を手伝っていた。


 渡り烏は、そんな全員を眺めていた。


 かつて、彼らが同じ場所に集まる理由は、利害だった。


 誰かを守るため。


 誰かを警戒するため。


 情報を交換し、敵の動きを探り、必要ならば互いに牽制するため。


 しかし今、彼らは同じ鍋を囲み、どの具材を入れるか相談している。


 誰も、相手の希望を利用しようとしていない。


 誰も、鍋の中の大根を交渉材料にしようとしていない。


 渡り烏は、思わず笑った。


「……変わったな、お前たちも」


「何か言ったか?」


 王冠が尋ねる。


「いや。大根が増えたと思っただけだ」


「……それは事実だ」


 王冠は鍋を見た。


 確かに、大根は増えていた。


     *


 カレーの香りが厨房に広がり始めた頃、鷹宮宗一郎がやって来た。


「……今日は、何を作っている?」


「カレーですよ。昨日のおでんの出汁を使っているんです」


 透が答えた。


 鷹宮は、鍋を見つめた。


「おでんの出汁を、カレーに?」


「はい。残った出汁を使うと、旨味があっておいしいんですよ」


「……そうか」


 鷹宮は椅子に座った。


 そして、静かに鍋を見つめた。


 以前の彼なら、残り物という言葉に、何の価値も見いださなかったかもしれない。


 必要なものを用意する。


 不要なものは処分する。


 過去に費やした時間に執着せず、常に次の成果を求める。


 それが、彼の生き方だった。


 しかし、目の前の出汁は、昨日のおでんを作った時間の続きだった。


 昨日の料理が終わったからといって、そこで価値がなくなるわけではない。


 形を変えて、別の料理に使うことができる。


 昨日の経験が、今日の味を作ることもある。


「……店主」


「はい?」


「この出汁は、昨日からどれほど変化したのだろうか」


「そうですねえ。具材の旨味が出ていると思いますし、保存している間に味が落ち着いたのかもしれませんね」


「……昨日と同じではないのだな」


「ええ。まったく同じにはならないでしょうね」


 鷹宮は、鍋を見つめた。


 同じものを作ろうとしても、完全に同じにはならない。


 昨日と今日では、条件が違う。


 作る人の気分も、食べる人の好みも、少しずつ変わる。


 それでも、今日の料理は今日の料理として、おいしくなればいい。


「……悪くない考えだ」


 鷹宮が呟いた。


「そうですか?」


「ああ」


 彼は静かに頷いた。


 人生も、そうなのかもしれない。


 過去に費やした時間を、なかったことにはできない。


 失敗した日も、選択を誤った日も、取り戻せない。


 だが、それらをただの損失として捨てる必要もない。


 そこから何を学び、何を次に生かすのか。


 過去を別の形に変えていくことは、できるのかもしれない。


 鷹宮は、そう考えた。


 そして、透が差し出した小皿を受け取った。


「味見をお願いします」


「……私が?」


「はい。まだ調整中なので、いろいろな人に食べてもらいたいんです」


 鷹宮はスプーンを手に取った。


 一口。


 出汁の旨味が先に広がり、後からカレーの香りが追いかけてくる。


「……うまい」


「よかったです」


「もう少し辛くしてもいいかもしれない」


「なるほど。では、辛いものが好きな人には、後から調整できるようにしましょうか」


 鷹宮は顔を上げた。


「全員を同じ辛さにする必要はない、ということか」


「そうですね。辛いのが苦手な人もいますから」


 鷹宮は、ゆっくりと頷いた。


 その日、彼は初めて、会食の席で自分の好みを優先することと、全員に同じものを押しつけることは違うのだと、料理を通して実感した。


 もっとも、本人はそのことを大げさに語るつもりはなかった。


 ただ、もう一口食べたかったのである。


     *


 完成したカレーは、思いのほか好評だった。


 王冠は味を確認した後、無言で二口目を食べた。


 道化師は、出汁と香辛料の組み合わせについて考察しながら、結局、三回おかわりした。


 葬送は牛すじを気に入り、次回はもっと柔らかく煮込む方法を知りたいと言った。


 黒百合は、大根がカレーに合うことを認めながらも、「最初から分かっていたわ」と主張した。


 渡り烏は、その発言を聞いて笑い続けた。


 そして零は、自分の皿をじっと見つめていた。


 そこには、大根と牛すじが入っている。


 大根は、昨日のおでんの出汁を吸ったまま、カレーの味をまとっていた。


 一口食べる。


「……おいしい」


 零が呟いた。


「よかったです」


 透は嬉しそうに笑った。


「大根、好きだったんですね」


「……うん。でも、カレーに入っているのは初めて」


「初めて食べるものって、少し勇気がいりますよね」


「……そう?」


「僕も、初めて作る料理は少し緊張しますよ。うまくできるかなって」


 零は、驚いたように顔を上げた。


「……店長も?」


「もちろんです。僕だって、何でもうまく作れるわけじゃありませんから」


「……失敗したら?」


「次に作るときに、少し変えてみればいいんです」


 零は、自分の皿を見た。


 昨日のおでんは、今日のカレーになった。


 同じ大根でも、昨日とは違う味がする。


 最初から、今日の味を知っていたわけではない。


 試してみたから、分かったのだ。


「……私も、違うものを作ってみたい」


「いいですね。何か作ってみたいものはありますか?」


 零は、しばらく考えた。


「……オムライス」


「オムライスですか。いいですね」


「……卵を、きれいに包みたい」


「じゃあ、今度一緒に練習しましょう」


 零は、少しだけ頬を緩めた。


 完璧にできるかどうかは分からない。


 卵が破れるかもしれない。


 形が崩れるかもしれない。


 それでも、やってみたいと思えた。


 その気持ちを、誰かに伝えられた。


 それだけで、彼女の世界は少し広くなっていた。


     *


 その夜、灰都情報管理連絡会には、またしても報告書が届いていた。


 表題は、こうである。


『CAFE 灯における既存資源の転用および評価修正に関する観察記録』


 責任者は、書類を見た瞬間に顔をしかめた。


「……またか」


 担当者は、慎重に説明を始めた。


「本日、CAFE 灯では、前日に調理されたおでんの出汁を用いて、別の料理が作られたとのことです」


「……料理の名前は?」


「カレーです」


「分かっている。そういう意味ではない」


「失礼しました」


 責任者は、報告書に目を落とした。


 そこには、具材の転用、味見による調整、個人の好みに応じた辛さの変更などが記載されていた。


「……つまり、余ったものを捨てずに利用し、必要に応じて味を調整したということか」


「はい」


「それで、何か問題が起きたのか」


「いえ。全員が食事を楽しみ、特段の問題は確認されていません」


 責任者は、しばらく黙っていた。


 そして、書類を閉じた。


「報告はここまででいい」


「……よろしいのですか?」


「何がだ」


「その、観察対象の行動には、組織運営にも通じる要素があるのではないかと……」


「通じる要素があることと、我々が報告書を作る必要があることは別だ」


 担当者は口を閉じた。


 責任者は、少しだけ表情を和らげた。


「ただし、一つだけ覚えておけ」


「はい」


「過去に費やした時間を、結果が出なかったという理由だけで無価値だと決めつけるな。そこから何を学び、次に何を変えられるかを考えろ」


 担当者は、目を見開いた。


「……それは、今回の報告から?」


「違う」


 責任者は、書類を机の端に置いた。


「以前から、そう考えていた。今日は少し、言葉にしやすかっただけだ」


 担当者は、静かに頷いた。


 その日、報告書は正式な分析資料にはならなかった。


 だが、担当者は自分の手帳に、一つだけ書き残した。


 ――過去の結果だけで、すべてを決めない。


 その言葉が、いつか誰かの役に立つかどうかは分からない。


 それでも、書き残しておこうと思った。


     *


 閉店後。


 厨房を片づけながら、透は鍋を確認していた。


「うん。きれいになりましたね」


 鍋の中には、ほんの少しだけカレーが残っている。


「……店長」


 零が声をかけた。


「はい?」


「今日のカレー、また作ってもいい?」


「もちろんです。気に入ったんですね」


「……うん」


 零は少し迷ってから、続けた。


「でも、次は少し変えてみたい」


「いいですね。何を変えてみますか?」


「……玉ねぎを、もう少し多くしたい。あと、大根も」


「分かりました。次は、その組み合わせで作ってみましょう」


 零は頷いた。


 以前なら、同じ料理を作るなら、前回より上手に、前回と同じ味にしなければならないと思っていた。


 変えてしまえば、失敗するかもしれない。


 失敗すれば、誰かをがっかりさせるかもしれない。


 だから、できるだけ同じことを繰り返すほうが安全だと考えていた。


 しかし今は、違う。


 変えてみたいと思った。


 その気持ちを、口にしてみた。


 透は、それを当たり前のように受け止めてくれた。


 次にどうなるかは、まだ分からない。


 でも、分からないからこそ、試してみる意味があるのかもしれない。


「……店長」


「はい?」


「私、明日もここに来る」


 透は笑った。


「はい。お待ちしています」


 零は、安心したように目を細めた。


 彼女はまだ、自分の過去についてすべてを語れるわけではない。


 何が怖いのか、なぜ失敗を恐れるのか。


 その理由を、完全に整理できているわけでもない。


 けれど、少しずつ分かってきたことがある。


 自分が何かを間違えたとしても。


 昨日と違う自分になったとしても。


 新しいことを始めて、思ったようにできなかったとしても。


 それだけで、ここにいられなくなるわけではない。


 この店では、次がある。


 作り直すこともできる。


 別のものを試すこともできる。


 そして、明日もまた、扉を開ければいい。


     *


「ところで、店主」


 帰り支度をしていた王冠が、ふと尋ねた。


「明日の昼食は、何を作る予定だ?」


「そうですねえ。オムライスでも作ろうかなと思っています」


 零が顔を上げた。


「……オムライス」


「はい。零さんが練習したいと言っていたので、一緒に作ろうかと」


 王冠は静かに頷いた。


「……では、私も参加しよう」


「何を練習するんですか?」


 黒百合が尋ねた。


「卵の扱いだ」


「あなた、料理を極めるつもりなの?」


「必要な技術を習得するだけだ」


 道化師が眼鏡を押し上げる。


「卵の凝固状態を適切に制御するには、温度と加熱時間の管理が重要になる」


「……また始まった」


 渡り烏が呟いた。


 葬送は、腕を組んだ。


「……俺は、ケチャップで文字を書きたい」


「どんな文字を書くんですか?」


 透が尋ねる。


 葬送は少し考えた。


「……『うまい』」


 厨房に、笑い声が響いた。


 鷹宮は、静かに頷いた。


「悪くない」


「いや、会長まで何を言っているんですか」


 渡り烏は、もう止めるのを諦めていた。


 零は、そんな皆を見て笑っていた。


 明日はオムライス。


 卵をきれいに包めるかどうかは、まだ分からない。


 でも、失敗したら、もう一度作ればいい。


 味が気に入らなければ、次は少し変えてみればいい。


 自分が何を好きなのか、まだ分からないなら、いろいろ試してみればいい。


 その先に、何が待っているのか。


 今はまだ、分からない。


 けれど、分からないことを恐れずにいられる場所がある。


 それだけで、明日が少し楽しみになった。


     *


 翌朝。


 《CAFE 灯》の厨房には、卵が二十個並んでいた。


 王冠が用意したものである。


「……多すぎませんか?」


 透が尋ねた。


「練習には回数が必要だ」


「そうですね。でも、二十個も使うと、オムライスがたくさんできてしまいますね」


「問題ない。全員で食べればいい」


 王冠は真顔だった。


 道化師は、すでに調理器具を並べていた。


 葬送は、ケチャップを手に持っている。


 鷹宮は、なぜか真剣な顔で卵を割る練習を始めていた。


 黒百合は、そんな全員を見て、深くため息をついた。


「……たかがオムライスなのに」


 零は、透の隣に立った。


「……店長。教えて」


「はい。まずは、卵を割るところから始めましょうか」


「……うん」


 透は卵を一つ手に取り、零に見せた。


「失敗しても大丈夫ですからね」


 零は、卵を受け取った。


 そして、ゆっくりと殻にひびを入れた。


 ぱきり、と小さな音がした。


 殻は少しだけ欠けたが、卵はきれいにボウルへ落ちた。


「……できた」


「はい。上手ですよ」


 零は、嬉しそうに笑った。


 その横では、鷹宮が卵を握りしめていた。


「……」


「鷹宮さん?」


「……割れた」


 彼の手の中で、卵が見事に潰れていた。


 沈黙。


 そして、渡り烏が吹き出した。


「宗一郎! お前、何をしたんだ!」


「……力加減を誤った」


「卵相手に、どんな力を使っているんだ!」


 鷹宮は、真剣な顔で手を洗った。


「……次は、必ず成功させる」


「無理しなくていいですよ。最初は誰でも失敗しますから」


 透が笑った。


 鷹宮は、その言葉に頷いた。


 そして、二個目の卵を手に取った。


 今度は、慎重に。


 灰都の裏社会を束ねる男が、卵一個を割るために、これほど真剣になる日が来るとは。


 誰も、想像していなかった。


 だが、それでよかった。


 この店では、強い人間である必要はない。


 何でもできる人間である必要もない。


 失敗せずに生きる必要もない。


 ただ、やってみたいと思ったことを、やってみればいい。


 その結果がどうであっても、次を考えることはできるのだから。


 そして、灰都の裏社会は今日もまた、オムライスの前で、少しだけ平和になろうとしていた。

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