姿は見えませんがお礼を申し上げます
島崎貞治は会社の喫煙ルームに居合わせた部下に訓辞を垂れた。
「お前は新婚ほやほやだから教えてやるが、女房教育は最初が肝心だぞ。ほっとくとそのうち必ず尻に敷かれる」
「そうなんですか」
「俺なんか『だってという言葉は絶対に使うな』と最初にガツンとかましたからめったに口答えしない」
「時代が違いますよ、僕の嫁さんはとてもそんなふうには。それに亭主関白は疲れませんか? 気の張りっぱなしで」
「そう言われりゃ背中や肩がひどく凝る時があるな。やっぱ肩肘張ってるせいかな」
「浩太郎、そろそろパパが帰ってくるわよ。おもちゃを片付けなさい」
「だって晩御飯の後でまた続きをやるんだもん」
「『だって』って言ったらママみたいにパパに叱られるわよ」
「叱られたらママはどうするの?」
「逃げるの」
「どこに?」
「遠いところ。あ、パパよ」
ドアチャイムの音で二人は玄関に急いだ。
風呂から上がって夕食のテーブルにつくなり貞治は声を荒げた。
「おい美智、なんだこの晩飯は!」
「あなたの好きなカツ丼にしたんだけど」
「おじいさん、また貞治が嫁いびりを始めたようですよ」
「困ったもんじゃのう、おちおち死んでもおられん。どれ下界に降りてみようか」
「確かに俺はカツ丼が好物だ。しかしだな、二日酔いで今朝は飯も食わずに出て行ったんだぞ。胃が弱っているのに脂っこいカツはないだろう。一昨日の晩飯もそうだ」
「焼きそば?」
「飯を食うのに同じ炭水化物の焼きそばをおかずにできるか? 献立の組み立てがデタラメだ」
「ハイ…」
「どうしてあんな物言いしかできんのじゃろうな、バカ息子が。育て方が悪かったのかもしれん」
「そんなことよりおじいさん、『ハイ』って言ったあとの美智さんを見ましたか?」
「うむ。近ごろは叱られたら魂が生霊になって抜け出るようになったのう。今も貞治の背に回って肩に張り付いた」
「その生霊が貞治の耳元で呟いてますよ、幸い貞治は勘づいていないみたいですけど」
(だってあなたが最近カツ丼を食べてないなあって言ってたし、二日酔いも分かってたから脂身のないヒレを使ってしかもオーブンで焼いたノンオイル豚カツなのよ。焼きそばだって大阪の私の実家じゃご飯と一緒にお好み焼きや焼きそば食べるの普通だし)
3日後、貞治は会社の部署の飲み会を2次会まで付き合って帰宅した。
息子の浩太郎は既に寝ていて妻の美智が玄関に出迎えた。
ネクタイを緩めながらダイニングの椅子に腰かけた貞治に美智が声をかけた。
「ご飯は?」
とたんに貞治の目が据わった。
「何だ、その言いぐさは。俺の飯を作るのがそんなにめんどくさいのか? 亭主が遅く帰ってもとりあえずは『すぐにご飯の支度をしますね』って言うのが女房ってもんだ!」
「ハイ…」
(だって用意してても箸をつけたこと、ないじゃない! 残飯の食費も馬鹿にならないんだから。それに遅くなる連絡もしないから事故に遭ったんじゃないかって心配になるし、先に寝てれば怒るし)
「やれやれ今日もまた貞治がぐずぐず言ってますよ、おじいさん。おじいさん? 考えごとですか?」
「美智さんの『ハイ…』が気になるんじゃ。英語みたいに聞こえて」
「ハイが返事じゃなくて英語だって言うんですか?」
「自分の魂にhide!(逃げろ、隠れろ)とささやいておるんじゃなかろうか」
「それなら貞治に憑りつかないで遠くに離れればいいのに」
「一番遠いとこが貞治の真後ろだよ。あいつは目の前のことしか視野に入らんから地球1周分の距離になる」
「貞治の体調も心配ですね、美智さんに自覚がなくても生霊の怨念は強いそうですから。私たちの念も二人に届けばいいのに」
「そうだな、せっかく死んでおるんだからわしらに超能力があってもよさそうなもんだ。仏壇のロウソクの炎を揺らすくらいしかできんからなあ」
「ほんとですね、『父さんたち居るの?』って貞治がキョロキョロ見回したことがあったけど私たちの声は届きませんでしたねえ」
「しかたないさ、住んでいる世界が違うんだから。読者さん相手のわしらと同じようなもんだ」
「そうですね、私たちも読者さんのスマホの中で貞治みたいにキョロキョロするしかないんですから。指でスーッと撫でられるのを時々感じはしますけど」
「それは画面がスクロールされる感触じゃろう。読んでもらっている証拠だからありがたいことだ。あ!今も!」
「ええ、ええ、確かに!」
「もし、どなた様ですかな? 姿は見えませんがお礼を申し上げます。こんな拙い話を最後までお読みいただきありがとうございました。余計なお世話でしょうが私どもの息子夫婦と同じ轍を踏むことのないよう、ご家族仲よくお過ごしください」




