5 交差あるいはすれ違う記憶と思い
クリスマスの音楽に包まれた駅前のアーケード。信号が青に変わると同時に、人波が動き出す。
すれ違う人達の顔には、いつもより暖かな笑みが浮かんでいる。
「ママ、お顔つめたい!」
「あら、本当。雪になってきたわね」
娘の鼻先を指でつん、と突いたその時、人混みの向こうから一人の男性が歩いてきた。
深く被った黒い帽子の隙間から見える、鋭い眼光。
周囲の浮かれた空気から浮き上がるような、黒いロングコート。
すれ違う人々が思わず避けるような、それはまるで近寄りがたい「冬の夜」そのものを纏ったような人だった。
(……あ。)
知らない人だ。
見覚えなんて、あるはずがない。
記憶のどこを掘り返しても、彼の顔は出てこない。
けれどなぜか懐かしく、胸を締め付けるような思いがこみ上げる。
彼が横を通り過ぎる瞬間、ふわりと漂った煙草の匂いと、微かに感じた金属のような冷たさ。それらが、私の胸の扉を激しく叩く。
思い出したい
思い出せない
ああ、行ってしまう……
「あのっ……!」
思わず振り向いて声をかけたその時、強い風が吹き抜け、紗矢のかぶっていた帽子が舞い上がった。
「あっ」
反射的に手を伸ばした私よりも早く、大きな、傷だらけの手が帽子を空中で掴む。
「……ほらよ」
「あっ、すみません。ありがとうございます」
低く、枯れた声。 見上げた帽子の陰から見えた、鋭いけれど、どこか寂しげな瞳。
記憶の扉のその向こう側から、猛烈な勢いで「何か」が溢れ出しそうになる。
(叫べ。じゃないと届かねえぞ)
脳裏に響く、見知らぬ誰かの声。
私は、気づけば相手の目を見つめたまま立ち尽くしていた。
「……あの、どこかで……?」
言葉を絞り出すようにして、私は彼に問いかけた。
彼はすぐに返答せず、代わりに不思議そうに私を見上げている紗矢に、一瞬だけ視線を落とす。
その瞬間、彼の口元がわずかに、本当にわずかに緩んだように見えた。
「……人違いだろ」
「そうですか、すみません。……メリークリスマス。良いお年を……」
私は何を言おうとしたのか自分でも分からず、ただ思い浮かんだ言葉を告げた。
自分でも変なことを言ってしまったと、顔が熱くなる。
「……ああ、あんたもな」
彼はしばしの沈黙の後、短く、ひどく不器用な声でそう言うと、また歩き出した。
その背中に向かって、紗矢が無邪気に声をかけた。
「ありがとう、黒いサンタさん!」
その言葉に、彼の足が止まる。
彼は振り返って、ポケットから何かを取り出し、それを娘に手渡した。
そして、そのまま人混みの中へと溶け込んでいった。
「ママ、あのおじちゃんがこれくれたよ」
「それは……飴……?」
私は、思わず自分のコートのポケットに手を入れた。
そこには、あの日からずっと持っている「飴玉の包み紙」が入ったお守りがあった。
お守りがじんわりと熱を帯びている。それを握りしめた途端に脳裏によぎったのは───
よう……合言葉を言ってみな
よく頑張ったな
──おじさんが、サンタクロースだったの?
……すまんな。赤い服はクリーニング中だ
……合言葉は忘れるなよ?
「合言葉は…サンタクロース……!」
私の頬に、一筋の涙が伝う。
悲しいわけじゃない。
全てを思い出せたわけじゃない。
ただ、自分が今ここにいて愛する娘の手を握っていることが、様々な「奇跡」の結果だということを、魂が思い出したかのような……そんな感覚だった。
「……メリークリスマス、サンタさん」
消えていった背中に向かって、私は誰にも聞こえない声で呟いた。
男のポケットの中には、安い飴玉が入っている。 それは彼がクリスマスにこの街を訪れるたびに、なんとなく買ってしまう習慣のようなものだった。
男は雑踏の中で、決して後ろを振り返らなかった。
「記憶屋」から、彼女が幸せに暮らしていることは聞いていた。
そして今のすれ違いで、彼女の「幸せ」を見ることができた。
それでいい。
彼女に、痛みと恐怖に震える夜の底はいらない。
彼女が今、平和であたたかい光の中にいること。
それこそが、男が手にした「報酬」だった。
男は歩きながら、煙草を出す代わりに、ポケットの中の飴玉を口に放り込んだ。
「……上出来だ」
白い息と共に呟かれた独り言は、空から舞い落ちる雪と、街を満たす明るい音の中に溶けて消えていった。
【Fin.】
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