第七章:東洋と西洋のあいだ
三月に入り、梅は満開となり、庭に甘い香りを漂わせた。
ある日、施設に一人の若い女性が見学に訪れた。名前は李美華、三十歳の中国人留学生で、日本の高齢者福祉を研究しているという。
「はじめまして。私は東京大学で老年学を学んでいます」
美華は流暢な日本語で自己紹介した。
「秋光の家が、老年超越理論を実践していると聞いて、ぜひ見学させていただきたいと思いました」
桜井施設長は快く受け入れ、葵に案内を任せた。
「水瀬さん、李さんを案内してあげてください」
「はい」
葵は美華を館内へと案内した。
施設を見て回りながら、美華は熱心に質問した。
「日本の高齢者施設は、中国とはかなり違いますね」
「どのように違うのですか?」
「中国では、まだ多くの高齢者が家族と同居しています。施設入所は、最後の選択肢という感じです。でも、日本では施設ケアが一般的ですね」
「そうですね。核家族化が進んで、在宅介護が難しくなっているという事情があります」
「でも」と美華は続けた。「この施設は、他とは違う雰囲気があります。もっと……家庭的というか」
「それは、施設長の方針です。ここは、ただ介護を提供する場所ではなく、高齢者が最期の人生を豊かに過ごせる『家』でありたいと」
美華は深く頷いた。
庭園を案内したとき、美華は特に感銘を受けたようだった。
「この庭、素晴らしいですね。中国庭園とも似ていますが、また違う美しさがあります」
「日本庭園の伝統的な様式です」
「ええ。でも、重要なのは様式ではなく、その効果ですね。自然との一体感、四季の移ろい、生命の循環――これらは、老年超越を促進する要素です」
葵は、美華の専門的な知識に驚いた。
「李さん、老年超越についてかなり詳しいんですね」
「ええ、修士論文のテーマなんです。特に、文化的な要因に興味があります」
「文化的な要因?」
「はい。老年超越は、スウェーデンで生まれた理論ですが、東アジアでの表現は異なるのではないか、という仮説を持っています」
葵は興味を持った。
「詳しく聞かせてください」
その日の午後、美華は立花と対話する機会を得た。葵も同席した。
「立花先生、お時間をいただきありがとうございます」
「いえいえ。中国からいらしたんですね」
「はい。私は、日中の高齢者の比較研究をしています」
「面白いテーマですね」
美華は、用意してきた質問を始めた。
「先生は、世代とのつながりをどのように感じていますか?」
「それは、老年超越の重要な要素ですね」
立花は考えながら答えた。
「私には、子どもが二人、孫が四人います。彼らを見ていると、自分の命が続いていくことを実感します。私個人は、いずれ消えるでしょう。しかし、私の中にあったもの――価値観、思想、記憶――の一部は、彼らの中に生き続ける」
「それは、儒教的な考え方にも通じますね」と美華が指摘した。
「ええ、確かに」
「中国では、祖先崇拝と孝の概念が強いです。高齢者は、単に年を取った個人ではなく、家族の歴史の体現者として尊敬されます」
「興味深い」
「先生は、死についてどう考えていますか?」
「かつては恐れていましたが、今はそうでもありません」
立花は穏やかに答えた。
「生と死の境界が、曖昧になったというか。死は終わりではなく、変容だと感じます」
美華は頷きながらメモを取った。
「これは、仏教や道教の影響かもしれませんね。輪廻転生や自然への回帰という概念は、東アジアに広く共有されています」
「その通りです。私は西洋哲学を専門としていましたが、老年期になって、東洋思想の深さを再発見しました」
対話は二時間近く続いた。
最後に、美華は自分の研究について説明した。
「私の仮説は、老年超越が文化によって修飾される、というものです。核となる要素――時間認識の変化、死への態度の変化、自己中心性の減少――これらは普遍的かもしれません。しかし、その表現形態は文化によって異なる」
「具体的には?」と葵が尋ねた。
「たとえば、西洋の個人主義的文化では、老年超越は『個人の内的成長』として経験されます。しかし、東アジアの集団主義的文化では、『家族や社会との関係性の再構築』として経験される可能性があります」
「なるほど」
「また、宗教的背景も重要です。キリスト教文化、仏教文化、儒教文化では、死生観や時間観が異なります。それが、老年超越の経験の仕方にも影響を与えるのではないか、と」
立花は深く頷いた。
「それは、私の経験とも一致します。同じ現象でも、文化的な枠組みによって、解釈が変わる」
その夜、葵と美華は近くのカフェで話を続けた。
「水瀬さんは、どうしてこの分野に興味を持ったんですか?」と美華が尋ねた。
「最初は、偶然でした。この施設に来て、入居者の方々の行動が理解できなくて。それで調べるうちに、老年超越理論に出会ったんです」
「でも、今は?」
「今は……これが自分の使命かもしれない、と思っています」
葵は正直に答えた。
「高齢者と若い世代の架け橋になること。老年超越を理解し、それを社会に伝えること。そうすることで、高齢者がもっと尊重される社会を作りたい」
「素晴らしい目標ですね」
美華は微笑んだ。
「私も、似たような動機があります。中国は急速に高齢化しています。二〇五〇年には、人口の三分の一が六十五歳以上になると予測されています」
「そんなに……」
「ええ。だから、日本から学ぶことが多いんです。日本は、高齢社会の『先輩』ですから」
「でも、課題も多いです」
「それも含めて、学びたいんです。何がうまくいって、何がうまくいかなかったのか。そして、中国の文化に合った高齢者ケアの在り方を模索したい」
二人は、夜遅くまで語り合った。
異なる文化背景を持つ二人だが、共通の関心でつながっていた。
翌日、美華は施設を去る前に、葵にメールアドレスを渡した。
「これから、情報交換しましょう。私の研究が進んだら、共有します」
「ぜひ。私も、この施設での経験を記録していますから」
「いつか、一緒に論文を書けたらいいですね」
「それは素敵です」
美華が去った後、葵は考え込んだ。
老年超越は、文化を超えた普遍的な現象なのだろうか。それとも、文化によって大きく異なるのだろうか。
エリクは「文化修飾的」と言っていた。核心は普遍的だが、表現形態は文化によって修飾される、と。
葵は、日本文化における老年超越の特徴について考えた。
自然との一体感――これは、日本の伝統的な価値観に深く根ざしている。神道のアニミズム、仏教の無常観、禅の「今ここ」の思想。
世代間のつながり――日本には、祖先を敬い、家族の連続性を重視する文化がある。
静寂と内省――日本文化は、言葉よりも沈黙を、行動よりも静けさを重視する側面がある。
これらは、老年超越を促進する文化的土壌なのかもしれない。
しかし同時に、現代日本社会には、老年超越を阻害する要因もある。
西洋的な活動主義、生産性の重視、若さへの執着。これらは、高齢者に「まだまだ元気でいなければ」というプレッシャーを与える。
葵は、文化の中に矛盾を感じた。
伝統的な価値観と、近代化の価値観が共存し、時に対立している。
その中で、高齢者はどのように自己を位置づけるのか。
そして、専門職である自分は、どのように支援すべきなのか。
答えは、まだ見えていない。
しかし、一つだけ確かなことがあった。
文化的な文脈を無視して、一律の支援を提供することはできない、ということ。
一人ひとりの高齢者が、どのような文化的背景を持ち、どのような価値観を抱き、どのような人生を送ってきたのか。
それを理解し、尊重することが、真のパーソンセンタードケアなのだ。
葵は、改めて自分の役割を確認した。
理解すること。尊重すること。そして、その人にとって最善の支援を模索すること。
それが、これからも変わらない自分の使命だと。




