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【老年的超越短編小説】秋光の庭 ~老いの眩い輝き~  作者: 霧崎薫


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第六章:冬、そして萌芽

 新年を迎え、一月の冷たい空気が施設を包んだ。


 しかし、冬の庭には冬の美しさがあった。葉を落とした木々の枝は、繊細な線を空に描き、霜に覆われた地面は銀色に輝いた。


 葵は、庭園が入居者たちに与える影響を、より深く観察するようになっていた。


 ある朝、葵は立花が庭を眺めているのを見つけた。


「おはようございます。寒いですね」


「ええ、しかし清々しい」


 立花は窓を開け、冷たい空気を吸い込んだ。


「冬の庭には、生命の本質が見えます。余計なものが削ぎ落とされ、構造だけが残る。それは、老年期に似ています」


「と、いいますと?」


「若い頃は、様々な飾りで自分を覆っていました。社会的な役割、所有物、外見。しかし年を重ねると、それらが一つずつ剥がれていく。そして最後に残るのは、本質的な自己です」


 葵は、その言葉を味わうように繰り返した。


「本質的な自己……」


「ええ。それは、何かを持っている自己ではなく、ただ存在する自己です」


 その日の午後、葵は入居者向けの新しいプログラムを企画した。題して「庭園セラピー」。


 エリクから学んだバイオフィリックデザインの理論を応用し、積極的に自然と関わる時間を作るというものだった。


 しかし、従来のアクティビティとは違うアプローチを取った。目標を設定したり、成果を測定したりするのではなく、ただ自然の中にいる時間を提供する。


 最初のセッションには、五人の入居者が参加した。立花、中島、田中、山本、そしてもう一人、七十代の男性、佐藤一郎だった。


 葵は彼らを庭園へと案内した。


「今日は、特に何かをする必要はありません。ただ、庭を歩いたり、座ったり、好きなように過ごしてください」


 立花は池のほとりのベンチに座った。中島と山本は、木々の間を歩き始めた。田中は石の配置を観察していた。佐藤は、少し戸惑った様子だったが、やがて小さな東屋に腰を下ろした。


 葵も、彼らの近くに座り、静かに庭を眺めた。


 三十分ほど過ぎた頃、中島が葵のもとに来た。


「水瀬さん、鳥の声を聞いて」


 耳を澄ますと、確かに小鳥のさえずりが聞こえた。


「メジロね。冬でも、ここにいるのよ」


「そうなんですか」


「ええ。この庭には、いろんな生き物がいるの。鳥、虫、魚。みんな、それぞれの生を生きている」


 中島は微笑んだ。


「若い頃は、こういうことに気づかなかったわ。忙しくて、立ち止まる時間がなかった。でも今は、こうして小鳥の声一つに、深い喜びを感じるの」


 葵は、エリクが言っていた言葉を思い出した。「歓喜の質的変化」――壮大な出来事よりも、微細な体験に喜びを見出すようになる。


 田中が近づいてきた。


「この庭の石の配置、実によく考えられています」


「そうなんですか?」


「ええ。日本庭園の伝統的な手法が使われています。『枯山水』の要素もある。石一つひとつが、意味を持っている」


 田中は、庭の説明を始めた。


「あの大きな石は『主石』と呼ばれ、庭の中心です。そして、周りの小さな石たちが、それを補佐している。まるで社会の縮図のようです」


「面白いですね」


「若い頃の私は、西洋建築ばかり学んでいました。しかし今、日本の伝統的な庭園に、深い知恵があることを理解します。それは、自然を支配するのではなく、自然と調和する知恵です」


 やがて、佐藤も立ち上がり、歩き始めた。彼は元商社マンで、長年海外で働いていた。施設に入って半年、あまり他の入居者と関わらず、独りで過ごすことが多かった。


「佐藤さん、いかがですか?」と葵が声をかけた。


「ああ……」


 佐藤は言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。


「実は、庭というものに、こんなに時間を費やしたのは初めてです。いつも、空港か、会議室か、ホテルの部屋にいた」


「お仕事、忙しかったんですね」


「ええ。でも、今思うと、何を急いでいたのか分かりません。結局、大切なものを見逃していたのかもしれない」


 佐藤は池を見つめた。


「この水面を見ていると、心が落ち着きます。何も映さないようでいて、すべてを映している。雲、木、空。そして、風が吹けば、すべてが揺らぐ」


 葵は、佐藤の言葉に老年超越の萌芽を感じた。


 一時間ほど庭で過ごした後、彼らは室内に戻った。


 暖かいお茶を飲みながら、葵は尋ねた。


「どうでしたか? 今日の時間は」


「とても良かった」と中島が答えた。「何もしないことの豊かさを、感じました」


「私も」と山本が続けた。「普段、部屋で過ごすことが多いけれど、こうして外に出るのもいいわね」


 田中は頷いた。


「庭は生きています。季節ごとに変化する。それを見ることは、生命の循環を感じることです」


 佐藤は少し照れくさそうに言った。


「また、こういう時間があったらいいですね」


 葵は、このプログラムを継続することを決めた。


 その後の数週間、葵は様々な入居者と庭を歩いた。


 ある人は、冬の木々の枝ぶりに美を見出した。ある人は、霜柱の儚さに人生を重ねた。ある人は、池の鯉を見て、生命の持続を感じた。


 そして、葵自身も変化していた。


 最初は、入居者を「観察」していた。しかし、次第に、彼らと共に「経験」するようになった。


 ある冬の午後、葵は独りで庭を歩いていた。


 冷たい風が頬を撫で、落ち葉が足元で音を立てる。空は曇っていたが、雲の切れ間から陽光が差し込むと、世界全体が輝いた。


 葵は立ち止まり、深呼吸をした。


 何かが変わっている。自分の中の何かが。


 これまでの人生、葵は常に目標を追いかけてきた。次の試験、次の資格、次の職位。常に「次」があった。


 しかし今、この瞬間、「次」を考えていない自分がいる。


 ただ、ここにいる。風を感じ、光を見て、存在している。


 それは、立花が語っていた「今ここ」の感覚なのかもしれない。


 葵は、二十代後半でありながら、老年超越の入り口に立っているのかもしれない、と思った。


 エリクが言っていた。「老年超越への発達は、若年成人期から始まっている」と。


 もしかしたら、誰もがこの旅路の途上にいるのかもしれない。ただ、それに気づくかどうかの違いなのかもしれない。


 その夜、葵は自室で日記を書いた。


 「今日、庭で不思議な体験をした。時間が止まったような、あるいは時間そのものが意味を失ったような感覚。それは一瞬だったけれど、深い印象を残した」


 「立花さんたちが語っていることが、少しずつ分かってきた気がする。それは頭で理解することではなく、身体で感じることなのだ」


 「私はまだ若い。これから多くの経験をするだろう。しかし、この施設で学んでいることは、いつか必ず役立つ。いや、すでに役立っている。生きること、老いること、存在することの意味を、教えてもらっている」


 葵は、感謝の気持ちを抱きながら、ペンを置いた。


 二月に入ると、施設の庭に小さな変化が現れた。


 梅の木に、最初の蕾がついた。


 立花がそれを見つけ、葵に教えた。


「見てください、水瀬さん。春の兆しです」


「本当ですね。まだ寒いのに」


「生命は、待ちません。時が来れば、必ず芽吹く。それが自然の摂理です」


 葵は、その蕾を見つめた。


 小さな、しかし確かな生命の印。


 それは、希望のようでもあり、持続のようでもあり、そして超越のようでもあった。


 冬は終わりに近づいている。


 しかし、終わりは同時に始まりでもある。


 葉を落とした木々は、すでに次の春の準備をしている。


 それは、人生も同じなのかもしれない。


 老年期は終わりではなく、新たな始まり。


 物質的・合理的世界観から、宇宙的・超越的世界観への移行。


 それは、人生最後の、そして最も美しい開花なのかもしれない。



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