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【老年的超越短編小説】秋光の庭 ~老いの眩い輝き~  作者: 霧崎薫


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第五章:宇宙・自己・社会

 十二月に入り、庭の木々はほとんどの葉を落とした。


 しかし、施設の中は温かかった。葵は、エリクから学んだことを基に、入居者たちとの対話を深めていった。


 ある日、葵は中島春子と話す機会を得た。


「中島さん、少しお時間いいですか?」


「ええ、どうぞ」


 中島は読んでいた本を閉じ、葵を招き入れた。


「中島さんは、最近、どのようなことを考えていますか?」


「そうねえ……」


 中島は少し考えてから答えた。


「昔のことを、よく思い出すの。教師をしていた頃のこと。教え子たちのこと。それが、とても鮮明なのよ」


「それは、懐かしさから?」


「懐かしさもあるけれど、それだけじゃないの。むしろ、今の私の一部として、過去が存在している感じ。若い頃の私も、中年の私も、そして今の私も、全部が『私』なのよ」


 葵はノートに書き留めながら頷いた。


「それは、自我統合と呼ばれるものかもしれません。人生全体を、一つのまとまりとして受け入れること」


「そういう名前があるの?」


「ええ。エリクソンという心理学者が提唱した概念ですが、老年超越の自己次元とも関連しています」


 中島は興味深そうに聞いた。


「もっと詳しく教えて」


 葵は、エリクから学んだことを説明した。


「老年超越の自己次元には、いくつかの特徴があります。まず、自己中心性の減少。若い頃は、自分のニーズや欲求が中心でしたが、年を重ねると、他者のニーズにより関心が向くようになります」


「確かにそうね。今は、子どもや孫のことを考える時間が増えたわ」


「次に、身体への執着からの解放。若い頃は、外見や身体能力にこだわっていたかもしれませんが、今はそれが薄れている」


「ええ、昔は鏡を見るたびに、シワやたるみを気にしていたけど、今はあまり気にならないの。不思議なことに、若い頃より自分の身体に満足しているくらいよ」


「それは、『身体超越』と呼ばれる現象です」


 葵は続けた。


「そして、利他主義の増加。自分のことよりも、他者への貢献や、次の世代へ何かを残すことに関心が向く」


「まさにその通り」


 中島は深く頷いた。


「最近、私は自分の教師としての経験を、文章にまとめているの。誰かが読むかどうか分からないけれど、次の世代の教師たちに、何か役立つことがあればと思って」


「それは素晴らしいことです」


 葵は心から言った。


 その後、葵は元建築家の田中誠一郎とも話した。


「田中さんは、建築を通じて、多くのものを創造してきましたね」


「ええ、まあ。たくさんの建物を設計しました」


 田中は少し照れくさそうに答えた。


「でも、最近は建物よりも、この庭の方が美しいと思うんです」


「どうしてですか?」


「建物は、人間の意図の結果です。設計図があり、計画があり、目的がある。しかし、この庭は違う。もちろん、誰かが設計したのでしょうが、ここにある生命――木々や草花――は、人間の意図を超えて存在している」


 田中は窓の外を見た。


「冬になり、葉が落ちた木々を見ていると、その本質的な構造が見えます。枝の伸び方、幹の形。それは、何千年もの進化の結果です。人間の設計など、比較にならないほど深い知恵がそこにある」


「それは、宇宙的な視点かもしれませんね」


「宇宙的……ですか?」


「ええ。老年超越の宇宙的次元では、人間を超えた大きな存在とのつながりを感じるようになります。自然、宇宙、生命の流れ――そういったものと自分が一体であると感じる」


「なるほど」


 田中は納得したように頷いた。


「確かに、若い頃の私は、人間中心的でした。自然を支配し、コントロールすることが、建築の役割だと思っていた。しかし今は、むしろ自然に学び、自然と調和することの方が重要だと感じます」


 葵は、田中の言葉に深い洞察を感じた。


 さらに、葵は元看護師の山本静江とも対話した。


「山本さん、写真を見ながら、どんなことを感じていますか?」


「そうねえ……」


 山本はアルバムをめくりながら答えた。


「この写真、三十年前のものなんだけど、まるで昨日のことのように思い出せるの。当時の患者さんの顔、声、病室の匂い、すべてが鮮明」


「それは、記憶力が良いということですか?」


「そうとも言えるけれど、それだけじゃないのよ。時間の感覚が変わったの。過去と現在が、同じ場所にあるような感じ」


「時間の超越……」


「そう言えるかもしれないわね。若い頃は、時間が速く流れていた。常に次のこと、次のことを考えていた。でも今は、時間がゆっくり流れている。いや、流れているというより、すべてが今ここにある、という感じ」


 山本は微笑んだ。


「そして、不思議なことに、死への恐怖が減ったわ」


「死への……」


「ええ。看護師として、多くの人の死を見てきたけれど、若い頃は自分の死を考えると怖かった。でも今は、死も人生の一部だと思える。生と死は、分離されたものじゃなくて、連続したものなのよ」


 葵は、山本の言葉に深く頷いた。


 そして、葵は立花とも、再び対話の時間を持った。


「立花さん、社会的な関係について、お聞きしたいのですが」


「ええ、どうぞ」


「立花さんは、最近、集団活動にあまり参加されませんね。それは、人との関わりが嫌になったからですか?」


「いいえ、全く違います」


 立花は首を横に振った。


「むしろ、人との関わりの質が変わったのです。若い頃は、多くの人と広く浅く付き合うことを好んでいました。学会やパーティー、様々な社交の場に出席していました」


「今は違う?」


「ええ。今は、少数の人と深く関わることを好みます。あなたのような、真剣に対話をしてくれる人と。あるいは、古くからの友人と、年に数回会って、深い話をする。それで十分なのです」


「それは、社会的次元の変化ですね」


「おそらく。表面的な社交は、もう意味を持たなくなりました。挨拶を交わし、世間話をし、名刺を交換する。そういうことには、もう興味がない」


 立花は窓の外を見た。


「そして、孤独を恐れなくなりました。若い頃は、独りでいることが不安でした。しかし今は、孤独が豊かな時間だと分かります。独りでいるとき、私は宇宙と対話している」


「宇宙と……」


「比喩的な表現ですが。つまり、自分を超えた何かと。自然、歴史、人類全体。そういったものとのつながりを感じるのです」


 葵は、立花の言葉を深く受け止めた。


 そして、ある日、葵は職員室で一人の同僚と話していた。理学療法士の若林健太、三十代前半の男性だった。


「水瀬さん、最近、入居者の方々とよく話してるよね」


「ええ、いろいろと学んでいるんです」


「俺も、この仕事長いけど、正直まだよく分からないんだよね。高齢者の心理って」


「若林さんは、どう考えていますか? 高齢者のことを」


 若林は少し考えてから答えた。


「うーん、難しいな。でも、俺が思うに、やっぱり活動的でいることは大切だと思うんだ。使わない機能は衰えるって言うし」


「それは確かにそうですね。身体機能の維持には、適度な運動が必要です」


「でしょ? だから、リハビリって大切だと思うんだよ。でも、最近の入居者の方々、あまりやる気ないっていうか……」


 葵は、どう説明すべきか考えた。


「若林さん、もしかしたら、彼らは別の次元での活動をしているのかもしれません」


「別の次元?」


「ええ。身体的な活動ではなく、精神的な活動。内省や回想、自己統合。そういったものです」


「でも、それって活動なのかな?」


「心理的には、非常に重要な活動です。特に老年期には」


 若林は首を傾げた。


「うーん、難しいな。でも、水瀬さんが言うなら、そうなのかもしれないね」


 葵は、専門職の間でも、理解を広げる必要があると感じた。


 老年超越の概念は、まだ十分に知られていない。多くの専門職は、従来の活動理論や、医学モデルに基づいて高齢者を見ている。


 しかし、それだけでは不十分なのだ。


 その日の夕方、葵は桜井施設長の部屋を訪れた。


「施設長、少しお時間よろしいでしょうか」


「ええ、どうぞ」


 葵は、これまで学んだことと、入居者たちとの対話から得た洞察を説明した。


「私、ようやく分かってきました。この施設が、他と違う理由が」


「ほう」


「ここは、高齢者の老年超越を支援する環境なんですね。庭園の設計、プログラムの柔軟性、スタッフの態度。すべてが、入居者の内的発達を尊重している」


 桜井は微笑んだ。


「よく気づいてくれました。実は、この施設を設計する時、私は老年学の様々な理論を研究しました。そして、老年超越理論に最も共感したのです」


「でも、なぜ最初から教えてくださらなかったのですか?」


「教えるより、あなた自身が発見する方が良いと思ったからです。他人から押し付けられた知識ではなく、自分で気づいた真理の方が、深く心に刻まれます」


 葵は納得した。


「これから、私は何をすべきでしょうか?」


「あなたがすでにしていることを、続けてください。入居者の方々と対話し、理解を深め、それを他のスタッフにも伝える。そして、一人ひとりのニーズに応じた、柔軟な支援を提供する」


「はい」


 葵は決意を新たにした。


 老年超越の三つの次元――宇宙的、自己、社会的――それらを理解し、尊重すること。


 それが、これからの自分の指針となる。


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