第三章:時間の円環
十一月に入り、庭のモミジは最も鮮やかな紅葉を迎えていた。
葵は、立花との対話を重ねるようになっていた。週に数回、午後の時間を使って、彼の隣に座り、言葉を交わす。最初は葵が質問し、立花が答えるという形だったが、次第に対等な対話へと変わっていった。
ある午後、葵は立花に尋ねた。
「立花さんは、いつ頃から今のような……過ごし方をされるようになったのですか?」
立花は少し考えてから答えた。
「明確な境界線があったわけではありません。しかし、八十歳を過ぎた頃から、徐々に変化を感じ始めました」
「どのような変化ですか?」
「まず、時間の感じ方が変わりました」
立花は窓の外を見た。
「若い頃、時間は矢のように一方向に流れていました。過去から現在、現在から未来へ。しかし今は、過去も現在も、まるで同時に存在しているように感じる。五十年前の記憶が、昨日のことのように鮮明です」
葵はノートに書き留めながら頷いた。
「それは、認知機能の……」
「低下ではありません」と立花は穏やかに訂正した。「むしろ、時間の本質への洞察が深まったのだと感じています。仏教では『一切が現在に含まれる』と言いますね。西洋哲学でも、アウグスティヌスは時間の主観性について論じました。今、私はそれを、概念としてではなく、直接的な経験として理解しているのです」
「でも、それは……」
葵は言葉を探した。どう表現すれば、自分の疑問を適切に伝えられるだろう。
「それは、現実との適切な関わりを妨げませんか? 今この瞬間に集中し、将来の計画を立てることが難しくなるのでは?」
「それは、若い世代の時間感覚です」
立花は微笑んだ。
「確かに、私にはもう、五年後、十年後の計画はありません。しかし、それは喪失ではない。むしろ、永遠性への開眼です。個人としての私の時間は限られている。しかし、私は世代の連鎖の中の一つの環に過ぎない。祖父母、父母、そして子ども、孫。過去から未来へと続く大きな流れの中で、私はただ一時期を担っているだけです」
「世代の連鎖……」
「ええ。若い頃は、自分を独立した個人として捉えていました。しかし今は、私という存在が、もっと大きな何かの一部であることを実感します。私の中には、先祖たちの生きた証が流れている。そして、私の生き方は、次の世代にも何かを残すでしょう」
葵は深く考え込んだ。それは、個人主義的な現代社会では、なかなか理解されない視点だった。
「もう一つ、変化したことがあります」と立花は続けた。「死への態度です」
葵は少し緊張した。死は、高齢者と関わる専門職にとって、常に難しいテーマだった。
「かつて、私は死を恐れていました。存在の終わり、無への帰還。それは恐ろしいものでした。しかし今は、不思議なことに、死への恐怖がほとんどない」
「どうして……そうなったのでしょう?」
「死と生の境界が、曖昧になったからかもしれません」
立花は静かに語った。
「若い頃は、生と死を明確に分けて考えていました。生きている間は『ここ』にいて、死ねば『あちら』へ行く。しかし今は、その境界線が意味を持たないように感じるのです。生も死も、より大きな何かの中に含まれている」
「それは……宗教的な信念からですか?」
「いえ、特定の宗教を信じているわけではありません。これは、信仰というより、直接的な感覚です。説明するのは難しいですが……」
立花は言葉を探すように間を置いた。
「たとえば、あのモミジを見てください。今、美しく紅葉している。しかし数週間後には葉を落とし、冬の間は枯れ木のように見えるでしょう。それを『死』と呼ぶなら、それは死です。しかし春になれば、また新しい芽が吹く。その芽は、昨年の葉とは違うが、同じ木から生まれる」
「輪廻転生……のようなことでしょうか」
「もっと直接的な、この世界の循環です。私の身体を構成する原子は、いずれ土に還り、別の生命の一部となる。私の思想は、誰かの記憶の中に残り、影響を与え続ける。個としての私は消えるかもしれませんが、私を構成していたものは、形を変えて存在し続けるのです」
葵は、立花の言葉を静かに聞いていた。
それは、医学的・生物学的な説明とは異なる視点だった。しかし、非合理的な妄想とも思えなかった。むしろ、ある種の深い洞察のように感じられた。
「水瀬さん」と立花が尋ねた。「あなたは、死を恐れますか?」
葵は少し考えてから答えた。
「正直に言えば……はい。まだ若いので、死を身近に感じることは少ないですが、考えると恐ろしいです」
「それは自然なことです。若い世代は、生の可能性に満ちている。死を考えることは、その可能性を否定することになる。しかし、老年期は違います。可能性の多くはすでに実現されたか、あるいは実現されないことが確定している。そうなると、死は否定すべきものではなく、受け入れるべき現実として現れるのです」
「でも、それは諦めではないのですか?」
「諦めではなく、受容です」
立花は強調した。
「若い頃の私も、そう思っていました。死を受け入れることは、敗北だと。しかし今は分かります。受容は、むしろ自由をもたらすのです」
「自由……」
「ええ。死を恐れなくなると、生がより深く味わえるようになります。逆説的ですが、本当です。今この瞬間が、かけがえのないものとして感じられる。明日があるかどうか分からない、だからこそ、今日が輝くのです」
葵は、立花の言葉の意味を完全には理解できなかった。しかし、その言葉が真実を含んでいることは感じられた。
その後、葵は立花に、老年超越について学んだことを話した。
「実は、最近知ったのですが、『老年超越』という理論があるそうですね」
「ほう」と立花は興味深そうに反応した。「それは初耳です」
「スウェーデンの社会学者が提唱した理論で、老年期における精神的な発達段階を説明しています。立花さんがおっしゃっていることと、驚くほど一致しているんです」
「興味深い。詳しく聞かせてください」
葵は、自分が調べた内容を説明した。宇宙的次元、自己次元、社会的次元。時間認識の変化、自己中心性の減少、社会的関係の再定義。
立花は深く頷きながら聞いていた。
「なるほど。理論として整理されているのですね。しかし、面白いことに、私はそんな理論を知らずに、自然とそうなっていった。ということは、これは個人的な体験ではなく、多くの高齢者に共通する現象なのでしょうか」
「論文によれば、そうらしいです。ただし、全員が到達するわけではなく、約二十パーセントの人が、自然に高度な老年超越に達するとのことです」
「二十パーセント……」
立花は少し考え込んだ。
「では、残りの八十パーセントは?」
「様々な要因で、その発達が阻害されるようです。社会的な価値観――活動的であること、生産的であることを重視する文化。あるいは、この変化を病理として扱う医療的な見方。そういったものが、老年超越の発達を妨げる可能性があると」
「なるほど」
立花は深くため息をついた。
「それは、私が若い頃に感じていたことと一致します。老年学の教科書には、『活動理論』というものがありました。高齢者は、中年期の活動レベルを維持すべきだ、と。あるいは『離脱理論』――高齢者の社会からの撤退は、否定的な現象だ、と」
「はい、私も大学でそう学びました」
「しかし、実際に老年期を迎えてみると、それらの理論では説明できない何かがある。私は病んでいるのではなく、むしろ成長しているのだと。でも、それを理解してくれる人は少なかった」
立花は葵を見つめた。
「水瀬さん、あなたが今、それを理解しようとしてくれていることは、とても嬉しい。多くの専門職は、自分たちの枠組みでしか高齢者を見ない。しかし、あなたは違う」
「いえ、私もまだ……完全には理解できていません」
「それでいいのです。理解は、一瞬で訪れるものではない。少しずつ、対話を重ねながら、深まっていくものです」
その日の対話はそこで終わった。
葵は、自分の中に新たな視点が芽生えつつあることを感じていた。しかし同時に、疑問も残っていた。
老年超越は本当に、すべての高齢者にとって望ましい状態なのだろうか? それとも、一つの可能性に過ぎないのだろうか?
そして、若い世代である自分は、どのようにして高齢者を支援すべきなのだろうか?
答えはまだ、見えていなかった。
しかし、葵は確信していた。これまでの自分の態度――一方的に「改善」しようとする態度――は間違っていた、と。
必要なのは、理解しようとする姿勢。高齢者の言葉に耳を傾け、彼らの世界観を尊重すること。
それが、真の支援の第一歩なのかもしれない。




