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【老年的超越短編小説】秋光の庭 ~老いの眩い輝き~  作者: 霧崎薫


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第十章:もうひとつの秋

 十月が訪れ、再び庭のモミジが色づき始めた。


 葵が秋光の家に赴任してから、ちょうど一年が過ぎた。


 この一年で、多くのことが変わった。葵自身が変わり、施設のスタッフの意識も変わり、そして入居者たちとの関係性も深まった。


 しかし、すべてが順調だったわけではない。


 七月、中島春子が体調を崩し、入院した。心不全だった。一時は危険な状態だったが、治療により持ち直し、八月に施設に戻ってきた。


「水瀬さん、お久しぶり」


 中島は、以前より少し痩せていたが、笑顔は変わらなかった。


「中島さん、おかえりなさい」


「ただいま。ちょっと、あちらの世界を覗いてきたわ」


 中島は冗談めかして言った。


「病院のベッドで、いろいろ考えたの。もう、そろそろ時間かなって」


「中島さん……」


「怖くはないのよ。むしろ、準備ができている感じ。でも、まだやりたいことがあるから、もう少しここにいることにしたの」


「やりたいこと……」


「ええ。あの原稿、教師としての経験をまとめたものね。あれを完成させたい。そして、できれば孫に読んでもらいたい」


 中島は、その後の数ヶ月、静かに執筆を続けた。


 九月、田中誠一郎の娘が訪れた。久しぶりの面会だった。


 田中は、娘を庭園に案内し、一緒に歩いた。


 葵は、遠くからその様子を見ていた。


 田中は何かを説明し、娘は真剣に聞いていた。時々、二人は立ち止まり、木や石を見つめた。


 面会の後、田中は葵に話した。


「娘に、この庭の美しさを伝えました。そして、私がここで学んだことも」


「どんなことを?」


「自然と調和すること。時間の流れを受け入れること。そして、形あるものより、形なきものの方が大切だということ」


「娘さんは、理解してくださいましたか?」


「すぐには難しいでしょう。でも、種は蒔きました。いつか、彼女が私の年齢になった時、思い出してくれるかもしれません」


 十月初旬、施設で小さなイベントが開かれた。


 入居者の家族を招いての「感謝の会」。


 その場で、中島が自分の原稿を朗読することになった。


 集まった人々の前で、中島はゆっくりと読み始めた。


「私は、三十五年間、小学校の教師として働きました。多くの子どもたちと出会い、別れ、そして今も心に残る思い出があります」


 中島の声は、穏やかで力強かった。


「教育とは、知識を伝えることだけではありません。それは、一人の人間が、別の人間の人生に触れることです。そこには、説明できない何かが起こる。それを、私は『魂の共鳴』と呼びたいと思います」


 聴衆は、静かに聞き入っていた。


「今、私は人生の最終章にいます。しかし、後悔はありません。なぜなら、私は多くの子どもたちの人生に、小さな光を灯すことができたと信じているからです」


 朗読が終わると、大きな拍手が起こった。


 中島の孫娘が、涙を流しながら近づいてきた。


「おばあちゃん、素敵だった」


「ありがとう。これを、あなたに」


 中島は、原稿を手渡した。


「いつか、あなたが大人になった時、また読んでね」


 その場面を見ていた葵は、老年超越の本質を見た気がした。


 それは、次の世代へと何かを手渡すこと。


 自分の経験や知恵を、形に残し、伝えること。


 そうすることで、個人としての死を超えて、何かが続いていく。


 十月中旬、エリクが再び施設を訪れた。


「水瀬さん、お久しぶりです」


「エリクさん、お元気でしたか?」


「ええ。あなたの学会での発表、素晴らしかったですよ。その後、反響はありましたか?」


「はい。いくつかの施設から見学の申し込みがあり、また共同研究の提案もいただきました」


「それは良かった」


 エリクは、新しい研究データを持ってきていた。


「これを見てください。日本の五つの施設で、老年超越尺度を実施した結果です」


 データは、興味深い傾向を示していた。


「日本の高齢者は、特に宇宙的次元のスコアが高い傾向があります。自然とのつながり、世代の連鎖、時間の超越――これらは、日本文化に深く根ざしているようです」


「それは、私たちの観察とも一致しますね」


「ええ。しかし、社会的次元では、文化差が見られます。日本の高齢者は、完全な孤独よりも、選択的な関係性を重視する傾向があります」


「つまり、完全に一人になるのではなく、少数の深い関係を保つということですか?」


「その通りです。これは、日本の集団主義的文化を反映しているのかもしれません」


 二人は、庭を歩きながら話を続けた。


「エリクさん、一つ質問があります」


「何でしょう?」


「老年超越理論は、これからどう発展していくと思いますか?」


 エリクは少し考えてから答えた。


「三つの方向があると思います。第一に、生物学的基盤の解明。テロメラーゼ活性などの研究は、始まったばかりです。老年超越が、心理的現象だけでなく、生物学的な変化を伴うことが明らかになれば、理論の説得力が増すでしょう」


「なるほど」


「第二に、文化横断的研究の深化。現在、主に西洋と東アジアでの研究がありますが、他の文化圏――中東、アフリカ、南米など――での研究が必要です」


「確かに」


「そして第三に、介入研究の発展。老年超越を促進する具体的な方法――環境デザイン、プログラム、セラピー――これらのエビデンスを蓄積する必要があります」


 エリクは立ち止まり、葵を見た。


「そして、あなたのような実践者が、最も重要です。理論を現場で実践し、その結果を記録し、フィードバックする。それが、理論を進化させるのです」


「私にできることを、続けていきます」


 その日の夕方、葵は立花と最後の対話を持った。


「立花さん、この一年、本当にありがとうございました」


「こちらこそ。あなたとの対話は、私にとっても大切な時間でした」


「立花さんの言葉が、私を変えました」


「いいえ、あなた自身が変わったのです。私は、ただきっかけを提供しただけです」


 立花は、いつものように窓の外を眺めた。


「水瀬さん、あなたはまだ若い。これから長い人生が待っています」


「はい」


「その中で、多くの経験をするでしょう。喜びも、苦しみも。しかし、それらすべてが、あなたを形作るのです」


「立花さんは、今、どんな気持ちですか?」


「満ち足りています」


 立花は穏やかに答えた。


「人生の大半を生きました。多くのことを経験し、学び、そして今、それらすべてを統合できています。過去を受け入れ、現在を味わい、未来を恐れない。これ以上、何を望むでしょうか」


「それが、老年超越なんですね」


「おそらく。しかし、私はそれを『超越』とは呼びたくありません。むしろ『帰還』と呼びたい」


「帰還……」


「ええ。私たちは、複雑な世界に生まれ、様々な役割を演じ、多くのものを追い求めます。しかし最後に、シンプルなものに帰還する。ただ存在すること。ただ呼吸すること。ただ、今ここにいること」


 立花は微笑んだ。


「それが、人生の円環の完成なのです」


 葵は、その言葉を深く心に刻んだ。


 十月末、施設で紅葉を楽しむ小さな集まりが開かれた。


 入居者たちが庭に集まり、色づいた木々を眺めた。


 桜井施設長が、簡単な挨拶をした。


「今年も、美しい秋が訪れました。この庭の木々は、毎年同じように紅葉します。しかし、まったく同じ瞬間は二度とありません。それぞれの秋が、唯一無二です」


 入居者たちは、静かに頷いた。


「私たちの人生も同じです。誰一人として、同じ人生を送る人はいません。そして、人生の秋――老年期――も、一人ひとり違います」


 桜井は、入居者たちを見回した。


「秋光の家は、それぞれの方が、自分なりの秋を過ごせる場所でありたいと思っています。これからも、どうぞよろしくお願いします」


 集まりの後、葵は独りで庭を歩いた。


 一年前、初めてこの庭を見た時のことを思い出した。


 あの時の自分は、何も分かっていなかった。


 高齢者の静かな過ごし方を問題視し、活動的にさせようとしていた。


 しかし今は違う。


 彼らは、彼らなりの豊かな時間を過ごしているのだ。


 それは、若い世代には理解しにくいかもしれない。


 しかし、理解しようとする努力はできる。


 そして、尊重することはできる。


 葵は、真っ赤に染まったモミジの下に立った。


 風が吹き、葉が舞い落ちた。


 一枚の葉が、葵の手のひらに落ちてきた。


 それを見つめながら、葵は思った。


 この葉も、かつては緑だった。春に芽吹き、夏の間中、光合成をし、木を支えた。


 そして秋になり、役割を終えて、最も美しい色に変わった。


 やがて落ちて、土に還り、次の世代の栄養となる。


 それは、衰退ではない。


 それは、変容であり、循環であり、そして超越なのだ。


 葵は、その葉を大切にポケットにしまった。


 そして、施設へと戻った。


 立花が、窓際に座っているのが見えた。


 彼は庭を眺めている。


 その横顔には、深い平安があった。


 葵は、そっと近づいた。


「立花さん、美しい秋ですね」


「ええ、本当に」


 立花は答えた。


「水瀬さん、『秋光』という言葉の意味を知っていますか?」


「秋の光……ですか?」


「ええ。秋の澄んだ、優しい光。それは、人生の秋――老年期――にも通じます」


 立花は葵を見た。


「老年期は、春の華やかさや夏の力強さはありません。しかし、独自の美しさがあります。それは、すべてを経験し、すべてを受け入れた者だけが放つ、優しい光なのです」


 葵は、深く頷いた。


 そして、自分もいつか、そのような光を放てる人間になりたいと思った。


 それは、まだ遠い未来のことかもしれない。


 しかし、その旅はすでに始まっている。


 老年超越への旅は、老年期だけのものではない。


 それは、人生全体を通じた、精神的成熟の旅なのだ。


 葵は、窓の外を見た。


 夕日が、庭全体を金色に染めていた。


 その光景は、美しく、そして儚かった。


 しかし、その儚さの中に、永遠があった。


 すべては移ろい、すべては留まる。


 それが、老年超越が教える真理。


 それが、秋光の眺望。


 葵は、この場所で、これからも学び続けるだろう。


 そして、いつか、次の世代に伝えるだろう。


 老いることの美しさを。


 超越することの深さを。


 生きることの意味を。


 秋の光の中で、葵は静かに微笑んだ。


(了)


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