第一章:紅葉のはじまり
十月の午後、水瀬葵は初めて「秋光の家」の門をくぐった。
東京都心から電車で四十分、住宅街を抜けた先に広がる緩やかな丘陵地に、その高齢者施設は建っていた。三階建ての白い建物は、周囲の雑木林と調和するように低く構えている。建物を囲むように広がる庭園には、モミジやカエデが早くも紅葉を始め、午後の光を浴びて燃えるような色彩を放っていた。
葵は大学病院のリハビリテーション科で五年間、作業療法士として働いてきた。効率的な訓練プログラム、数値化できる目標設定、エビデンスに基づく介入――それが彼女の信条だった。患者の自立を支援するため、常に活動的で前向きなアプローチを心がけてきた。
「水瀬さん、いらっしゃい。お待ちしていました」
施設長の桜井美智子が、玄関で葵を出迎えた。六十代半ばの落ち着いた女性で、穏やかな笑みを浮かべている。
「ようこそ秋光の家へ。ここは少し、他の施設とは違うかもしれません」
「と、おっしゃいますと?」
「まあ、それは追々お分かりになるでしょう」
桜井はそう言って、葵を施設内へと案内した。
館内は予想以上に明るく、ゆったりとした造りになっていた。各所に大きな窓があり、庭園の景色を楽しめるように設計されている。廊下を歩いていると、あちこちから穏やかな話し声や笑い声が聞こえてくる。
「うちの入居者は現在四十二名です。平均年齢は八十五歳。要介護度は様々ですが、皆さん、それぞれのペースで日々を過ごされています」
桜井の説明を聞きながら、葵は施設の様子を観察した。リビングルームでは、数人の高齢者がソファに座って、ゆっくりとお茶を飲んでいる。アクティビティルームでは、スタッフが何かの準備をしている。
「水瀬さんには、主に個別のリハビリテーションプログラムの立案と実施をお願いします。でも、焦らないでくださいね。まずは入居者の皆さんを知ることから始めましょう」
「はい」
葵は頷いたが、内心では少し物足りなさを感じていた。前職の病院では、常に時間に追われ、次々と患者をこなしていく日々だった。この施設の、どこかのんびりとした空気は、彼女の性質とは合わないかもしれない。
職員室で簡単な事務手続きを済ませた後、桜井は葵を再び館内へと連れ出した。
「今日はまず、何人かの入居者の方をご紹介しますね」
彼女たちが向かったのは、南側の大きな窓がある静かな談話室だった。
その部屋には、一人の老人が座っていた。
背筋を伸ばして窓際の椅子に腰掛け、庭園を静かに眺めている。九十を超えていると思われる高齢だが、その佇まいには不思議な威厳があった。白髪は丁寧に整えられ、濃紺のカーディガンを着こなしている。深く刻まれた皺の中で、鋭い眼光が庭の木々を捉えていた。
「立花先生、新しいスタッフの水瀬さんです」
桜井の声に、老人はゆっくりと顔を向けた。
「立花蒼一郎です」
低く、しかし明瞭な声だった。葵に向けられた視線は、年齢を感じさせないほど力強い。
「作業療法士の水瀬葵と申します。よろしくお願いいたします」
葵は丁寧に頭を下げた。
「立花先生は、長年大学で哲学を教えていらっしゃいました」と桜井が補足する。「著書も多数あるんですよ」
「哲学……ですか」
「ええ。西洋哲学が専門でした。まあ、今はもう引退して久しいですがね」
立花はそう言って、再び窓の外へと視線を戻した。
「あのモミジを見てください。毎年、同じように紅葉する。しかし、まったく同じ瞬間は二度とない。川の流れのようなものです。すべては移ろい、すべては留まる」
唐突な言葉だった。葵は返答に困り、曖昧に頷いた。
「立花先生は、よくこうして庭を眺めていらっしゃるんです」と桜井が優しく説明する。「一日の大半を、ここで過ごされることも多いですね」
葵は少し眉をひそめた。一日中、ただ窓の外を眺めて過ごす。それは活動性の低下、社会的引きこもり、認知機能の低下を示唆する行動パターンではないだろうか。
「立花先生、もし体調が良ければ、午後のアクティビティに参加されてはいかがですか? 今日は音楽療法の日ですよ」
桜井の提案に、立花は微かに首を横に振った。
「私は結構です。ここで静かにしている方が、心が落ち着く」
「そうですか。では、無理はなさらないでくださいね」
桜井は穏やかに答え、葵を促して部屋を出た。
廊下を歩きながら、葵は尋ねた。
「立花さんは、あまり集団活動には参加されないんですか?」
「ええ、最近は特に。でも、以前はもう少し参加的だったんですよ。二年ほど前から、徐々にああいう過ごし方を好まれるようになって」
「認知機能の評価は……」
「定期的に行っています。軽度の記憶障害はありますが、会話は問題ありません。判断能力も保たれています」
葵は心の中で、自分なりの仮説を立てた。社会的撤退、無気力、うつ傾向――これらは高齢者によく見られる問題だ。適切な介入で、もっと活動的な生活を取り戻せるはずだ。
次に案内されたのは、二階の小さな図書室だった。
そこには、七十代と思われる女性が一人、窓際のロッキングチェアに座っていた。目を閉じ、微笑を浮かべている。音楽が流れているわけでもない。ただ、静かに揺れている。
「こちらは、中島春子さん。元小学校の教師です」
桜井の紹介に、中島はゆっくりと目を開けた。
「あら、新しい方?」
「作業療法士の水瀬です」
「ようこそ。ここは良いところよ。静かで、時間がゆっくり流れて」
中島はそう言って、再び目を閉じた。
「中島さんも、こうして静かに過ごすことが多いんです」と桜井が説明する。「以前はよく、他の入居者の方々とおしゃべりを楽しんでいたんですけれどね」
「体調に何か問題が?」
「いえ、特には。ただ、ご本人が言うには『今は、内側を見つめる時間が必要なの』とのことで」
葵は再び、懸念を抱いた。社会的孤立は、高齢者の心身機能を低下させる大きなリスク因子だ。人との交流を避け、独りで過ごす時間が増えることは、決して良い兆候ではない。
その後も、桜井は何人かの入居者を紹介した。
かつて建築家だった八十代の男性は、庭の池のほとりに座り、水面に映る雲をじっと見つめていた。元看護師の女性は、自室で昔のアルバムを繰り返し眺めていた。海外での仕事が長かった商社マンは、ベランダで遠い山々を眺め、何かを思い出すように目を細めていた。
皆、共通していたのは、ある種の「引きこもり」とも見える行動パターンだった。活動的な集団プログラムよりも、静かな独りの時間を好む。過去を振り返り、回想に耽る。具体的な目標や計画を立てようとしない。
葵の胸に、焦りにも似た感情が湧いた。
これは、何か根本的な問題があるのではないか。施設全体に、ある種の「諦め」のような空気が漂っている。もっと積極的なリハビリテーション、もっと活動的なプログラムが必要なのではないか。
夕方、初日の業務を終えた葵は、職員室で記録を整理していた。そこへ、一人の若い看護師が声をかけてきた。
「水瀬さん、初日お疲れさまです。私、看護師の森本麻衣です」
「あ、お疲れさまです」
「ねえ、率直にどう思いました? この施設」
森本は、どこか共謀者を求めるような目で葵を見た。
「そうですね……正直、少し驚いています。入居者の方々、もう少し活動的に過ごせる余地があるんじゃないかと」
「でしょう? 私もそう思うんです」
森本は椅子を引き寄せて座った。
「施設長は『それぞれのペースで』って言うけど、あれじゃあ、どんどん機能が低下しちゃいますよね。特に立花さんなんて、一日中窓の外ばっかり見てて。もっと脳トレとか、運動とか、やってもらった方がいいと思うんですけど」
「そうですね。社会的活動は、認知機能の維持に重要ですから」
「ですよね! でも、施設長は『無理強いはしない』って方針で。私、時々フラストレーション溜まっちゃうんです」
森本の言葉に、葵は自分の考えが正しいのだと確信した。
この施設には、もっと積極的な介入が必要だ。高齢者だからといって、ただ静かに過ごすことを良しとするべきではない。可能な限り、活動的で充実した日々を送れるよう支援するのが、専門職の責務ではないか。
葵は、自分なりのプランを立て始めた。まずは入居者一人ひとりのアセスメントを行い、個別のリハビリテーションプログラムを作成する。グループ活動への参加を促進し、社会的交流の機会を増やす。数値化できる目標を設定し、定期的に評価を行う。
そうすれば、きっとこの施設も変わるはずだ。
葵は、使命感に燃えながら、施設を後にした。帰り道、バス停へと向かう途中、庭園の脇を通った。夕暮れ時の庭は、オレンジ色の光に包まれていた。
ふと、誰かの気配を感じて振り返ると、立花が窓際に立っていた。
彼は静かに庭を眺めている。その横顔には、葵には理解できない何かが浮かんでいた。悲しみでもなく、喜びでもなく、ただ深い静謐さ。まるで、すべてを受け入れた者の表情。
葵は首を振って、歩き出した。
きっと、あれは孤独なのだ。社会から切り離された、寂しさの表れなのだ。そう自分に言い聞かせながら。
しかし、胸の奥に小さな疑問が残った。
なぜ、あの表情は、どこか満ち足りているように見えたのだろう。




