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墓地

作者: 通りすがり

文哉の自宅からほど近いB駅の周辺には、古くからある大きなお寺と、それに隣接する広大な墓地が広がっていた。駅と自宅を結ぶ最短ルートは、その墓地の中にひっそりと設けられた私道だった。アスファルトの薄暗い抜け道の両側には、高さ約2メートルほどのブロック塀がそびえ立ち、墓地の内部を完全に遮断している。文哉は日頃から、この人通りが途絶えた薄気味悪い近道を利用していた。

ある蒸し暑い7月の夜、職場の飲み会を終えた文哉は、最終電車に揺られて0時を過ぎた頃、B駅に降り立った。日中にコンクリートに吸い込まれた熱気が、夜になってようやく解放され、モワッとした重たい空気となって文哉を包み込む。シャツは汗で張り付き、不快感が全身を這い回る。いつものように、文哉は墓地の間の私道へと足を踏み入れた。この時間、この道を歩く者など他にいない。聞こえるのは、どこか遠くで鳴く虫の声と、熱を帯びた地面を踏みしめる自分の足音だけだ。

しばらく歩くと、どこからか低く唸るような音が聞こえてきた。不気味な獣の唸り声のようでもあり、喉の奥で息を漏らす人間の声のようにも聞こえる。この辺りは野良猫が多い。どうせ猫同士の縄張り争いだろう。そう自分を納得させると、文哉は歩き続けた。しかしそのとき、不意に視界の端で何かが動いた。ブロック塀の上に、漆黒の塊が揺れている。無意識に猫だと認識した文哉は、何気なくその影に目を向けた。

私道に点在する小さな街灯は、闇をかろうじて払う程度の微かな光しか届いていない。そのため、文哉にはそれがただの黒い塊にしか見えず、最初はそれが何であるか判別できなかった。猫だと思い込み、目を凝らしてその黒い塊をよく見ようとする。すると、それは何やら不気味な毛の塊のように見えた。どこかで見たことがあるような......、嫌な予感が脳裏をよぎる。だが次の瞬間に、文哉はそれが何であるかを明確に認識した。

「人の頭だ……」

そう思った途端、文哉の体は反射的に数歩後ずさっていた。心臓の鼓動が激しく鳴り響き、全身の血が凍りつくような感覚に襲われる。混乱する頭を落ち着かせようと、文哉は必死に自分に言い聞かせた。「落ち着け、落ち着くんだ」

わずかに冷静さを取り戻した文哉は、もう一度、恐る恐るその塊に目を向けた。だが、それはどう見ても人の頭だった。頭はこちらに背を向けているのか、顔は見えない。ただそこに、じっと動かずに存在している。文哉は懸命に思考を巡らせた。一見、塀の上に頭があるように見えるが、もしかしたら塀の向こうから、何かに足場をかけて頭だけを出しているのではないだろうか。2メートルという塀の高さは、確かに簡単ではない。だが、もし足場があれば、不可能ではないだろう。何をしているのかという疑問は残るが、そう考えればそこに頭がある理由にはなる。

文哉はそう自分を納得させ、その頭がある塀の横を通り抜けようと決意した。視線を頭から外さぬまま、ゆっくりと、しかし確実に近づいていく。そして、ちょうどその頭の横に差し掛かったその時、ビクッと、その頭が急に動いた。

文哉の足が、氷漬けにされたかのようにぴたりと止まる。

頭はゆっくりと、まるで油が切れた機械人形のようにぎこちなく、こちら側に顔を向けてきた。それは、酷く崩れた顔だった。性別すら判別できないほどに肉がただれ、褐色に濁った目は焦点が定まらずこぼれ落ちそうなほどに見開かれている。半開きの口からは、血なのか、あるいは体液なのか、悍ましい黒い液体がどろりと流れ落ちていた。何よりも恐ろしいのは、その頭の位置だった。まるで、塀の上に首から上が直接生えているかのようにしか見えないのだ。

恐怖の絶頂に達した文哉は、もう考えることすらできなかった。脳が焼けるような衝撃に突き動かされ、猛ダッシュで自宅に向けて私道を走り抜けた。

自宅に辿り着いた文哉の顔は、血の気を失い青ざめていた。心配そうに「どうしたの」と問いかける妻の声が遠くに聞こえる。文哉は「なんでもない」とだけ絞り出し、その日はそのまま布団に潜り込んだ。しかし、瞼の裏にはあの悍ましい顔が焼き付いて離れなかった。



翌朝、一晩寝て冷静になった文哉は、昨夜の出来事をどうにか合理的に解釈しようと試みた。昨夜は酷く酔っていたし、きっと何かを見間違えたのだろう。通勤のため駅へ向かう途中、あの「頭」を見たあたりに差し掛かった。すると、塀の上に墓地側から伸びた葉が茂った木の枝が覆いかぶさっているのが目に入った。確かに、普段の状態ならばこの木の枝を頭と誤認することは暗くてもありえないだろう。だが、昨夜は酔っていた。きっと、酔っていたから見間違えたんだ……文哉はそう思うことにした。

そんなことがあってしばらくの間、文哉は夜にその道を通るたびに塀の上を気にしたが、何も起こらない日が続いた。そして、ひと月も経つと、そんな恐ろしい出来事があったことすら、文哉の記憶から薄れ始めていた。

9月末、同僚との飲み会で文哉はその日も終電での帰宅となった。時間は0時過ぎ。9月も終わりを迎え、夜になればようやく涼しさを感じる季節になっていた。文哉は足早に私道を歩き、自宅へと向かっていた。私道の途中まで来た時、急に、あの唸るような声が聞こえた。その瞬間、あの7月の夜の出来事が、まるで昨日あったことのように鮮明に脳裏に蘇った。

ハッとして、文哉は歩き先の塀の上を見つめた。

すると、そこにはやはり黒い塊があるのが見えた。今日も多少は酔っているとはいえ、それほど飲んではおらず意識ははっきりしている。あの時は酔っていたから見間違えたのだという淡い期待は、あっけなく打ち砕かれた。やはりあれは見間違いではなかった。そこには、間違いなくはっきりと人の頭がある。

しかも今回は、最初から顔をこちらに向けている。

その酷く崩れた顔が、焦点の定まらない目で文哉をじっと見つめているのが見えた瞬間、文哉は恐怖に耐えきれず、来た道を猛ダッシュで引き返した。

しばらく戻って頭が見えなくなると、文哉は荒い息を整えながら、どうしたものかと悩んだ。この私道を通らないと、自宅まではとてつもない遠回りをしなければならない。だが、もうこの道を進む勇気など、文哉には残されていなかった。

悩んでいると、駅の方角から歩いてくる人影が見えた。大学生と思しき若い男性だ。男性は文哉を見て、こんなところで何をしているのだろうと怪訝な目を向けてくる。変に思ったに違いない。若い男性は文哉の横をすり抜けると、私道の奥へと進んでいく。文哉はしばらくその場に立ち止まり、その様子を見ていた。

すると、道の先の方から、先ほどの若い男性と思われる悲鳴が聞こえてきた。その声は、途中でぶつりと途切れた。

文哉はそれを聞き、もうこの道を通ることは絶対にできないと悟った。背中に冷たい汗が流れ落ちる。文哉は駅の方に戻るため、来た道を歩き出した。

家に着くと、文哉の帰りが遅いことを心配して待っていた妻に、今日あったことを全て話した。恐怖と疲労で震える声で語る文哉の話を聞き終えた妻は、顔を曇らせて言った。

「やっぱり、あの噂は本当だったのね」

どういうことかと文哉が問うと、妻は静かに話し始めた。

「夏の始め頃、この墓地の中で自殺があったらしいのよ。それ以来、あの私道で夜中に幽霊を見かけるっていう噂が出始めたの。私も近所の人から聞いてはいたんだけど、まさか本当だとは思わなかったわ」

文哉はそんな噂が流れていたことなど、全く知らなかった。文哉はさらに尋ねた。

「自殺って、どんな死に方だったんだ」

妻は、これも噂で聞いた話だから本当かどうかはわからないと前置きし、続けた。

「普段はあまり人が寄り付かない、墓地の端の方にある木での首吊りだったらしいわ。そのせいで発見が遅れたことと、あの時期は気温も湿度も高いから、遺体も相当傷んでいたらしいのよ」

文哉はそれを聞いた瞬間、以前に、そして今夜再びまた見た悍ましい『頭』が、その自殺者の幽霊であると確信した。あの崩れた顔、そして首から上が塀の上に存在するかのように見えた異常な光景。全てが、首吊り自殺という死に方と、損傷の激しかった遺体という情報と、あまりにも合致しすぎている。



文哉はそれ以来、帰りが遅くなったときは、決してその私道を通らないことにしている。しかし、時折、あの唸るような声と、文哉を見つめる崩れた顔が思い出されて、文哉は未だに眠れない夜を過ごすことがある。

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