第九章:想いは形になる
初夏の陽射しのなか、エルラの小さな工房には、街から送られた便りが積み上がっていた。
香草の配合に関する相談、保存瓶の追加注文、市場への出店の打診――
すべて、ふたりが半年前には想像もしなかった種類の文だった。
「なぜ、こんなに早く?」
ラーグは一通の手紙を読みながら眉をひそめた。
「街の北部医師団が訪問したいと。…研修希望だそうだ」
「研修…?」
エルラは乾かしたミントの葉を束ねながら、半分笑いかけていた。
「私たち、そんな大げさなことをしたつもりはないのに」
ラーグは小さく息をついた。
「俺は昔…」
彼は言いかけて、少し間を置いた。
「かつて王国の東辺で、改革に参加した。新しい兵站の仕組みを提案したが、誰も動かなかった。どれだけ正しくても、声が届かねば意味はないと悟った」
「だから、あなたは…」
「想いだけじゃ、届かないと決めつけた。心を燃やすだけでは、何も変わらないと。だが――」
彼は束ねられた草の山を見渡した。
そのひとつひとつが、人の手で摘まれ、瓶に詰められ、誰かの手に渡り、そして癒してきたことを思い出していた。
「こんな小さな村の、小さな台所から始まったものが、街を動かしはじめている。もし…“心の火”で世界が動くことがあるのだとしたら」
「それは、“想い”に誰かが共鳴したときね」
エルラは優しく言った。
「きっと私たちは、声を大きくしたわけじゃない。声の“温度”が伝わったのよ」
その日、彼らは村の集会所に呼ばれた。
街の代表が村を訪れ、香草保存法と調合技術を、正式に「東街連盟記録」に登録したいという申し出だった。
それは、村の誰にとっても前例のない出来事だった。
「君たちの知恵を、広く残したい」
そう語った代表の言葉に、ラーグはただ小さくうなずいた。
かつての自分なら、そうした称賛に疑いを持ち、身を引いていただろう。
だが今は、そうはしなかった。
夜、丘の上で風を受けながら、ふたりは並んで腰を下ろした。
遠くに街の灯がちらちらと瞬いている。星と区別がつかないほど静かで、小さな光たち。
「ねえ、あなたは本当は…もっと大きな目標があったんでしょう?」
「…そうだな。軍の改革も、学び舎の設立も考えていた。だがどれも、想いだけで届く場所じゃなかった」
「でも今は?」
ラーグは頷いた。
「今は、“この場所からでさえ届く”と思える。心が、届くということが、こんなにも嬉しいとはな」
エルラは笑った。
風が彼女の髪を揺らす。
「私も。子どものころ、“想うこと”はただの夢だと思ってたの。実際に行動する人が偉くて、黙って想ってるだけの人はただの弱虫だって」
「それも、嘘だったな」
「ええ。今なら言える。“想うこと”をやめなかったから、今があるのよ」
その夜、ふたりは焚き火を囲んで、村の数人と語り明かした。
若い薬草採り、かつてラーグを疑ったノラド、そしてエルラの父もいた。
小さな輪だったが、その輪の中心には、確かに火が灯っていた。
それは戦いや論争では得られない、心と心の灯りだった。
そして誰よりも、その火のぬくもりを喜んでいたのは――
かつて「想うだけでは届かない」と思い込んでいた、ラーグ自身だった。