第八章:風の通り道
六月の風が、村の路地を通り抜けていた。朝は涼しく、空は晴れていた。ラーグとエルラが手がけた香草の店は、開市の日以来、村と街の境目に小さな波を起こしていた。
初めて「北方の技法」が話題になった週の終わりには、近隣の村からも商人が訪れはじめた。
「例の旅の書士、どこにいる?」
「本当に保存草が長持ちするのか?」
「この瓶詰め、どうやって密封してる?」
香草の保存法や調合は、いずれも難しいものではなかった。ただ、誰も注目していなかった。それを見つけ、正確に伝えられる者がいなかった。
そしてそれを信じ、信じさせる力が、エルラとラーグにはあった。
村の古い薬師は、始めこそ不機嫌だった。
「外の者に知恵を教えられるとはな」
だが、試しにと作った新しい軟膏が子どもの皮膚病に効いたとき、その顔が変わった。
「これは……あのラーグという男の配合か?」
「そうよ。あなたの方法に、少しだけ北方の草を足しただけ」
薬師はその日、ラーグのもとを訪ねた。
「教えてくれ。俺のやり方に、足りなかったものを」
ラーグは驚いたように眉を上げ、そしてにやりと笑った。
「足りなかったんじゃない。変わることを恐れていただけだ」
薬師はうなずいた。
「それを、お前のような若造に言われる日が来るとはな」
そして、その夜。村の集会所で、誰かがこう言った。
「外の知恵を使って、この村が強くなるなら、閉ざすよりも…開いてみても、いいんじゃないか」
それは、ほんの小さな声だった。けれど、それまで誰も口にしたことのない言葉だった。
エルラはその夜、店の裏手で干していた草の束を見ながら、静かに笑った。
「ねえ…いつから、こんな風に人が集まるようになったのかしら」
「君がここにいるからだ」
「違うわ。あなたが来たからよ」
「どちらでもいいさ。問題は、もう俺たちは“いない方が平和”じゃなくなったってことだ」
その言葉に、エルラは目を伏せた。
「前は、そう思ってた。誰とも関わらなければ、誰も傷つかないって」
「でも今は?」
「今は……関わらなければ、誰も変わらないって思ってる」
その夜、ふたりは星を見ながら、長い時間言葉を交わさなかった。
ただ、風がよく通るようになった村の空気を感じていた。外から来た人間と、村に育ったホビット。その違いが、重荷でも壁でもなく、ひとつの「風の道」になりつつあるのを。
数日後、街の市から使いがやって来た。
「例のふたりに会いたい。市長が、調合技術の相談をしたいと」
最初に「外の者」を恐れていた村が、その外の者と共に、今は外の街に知恵を届けようとしている。
ラーグは驚かなかった。ただ、肩の痛みがもうほとんど消えていることに気づいた。
エルラは静かにうなずき、小さな箱を用意した。村で育てた香草と、保存の瓶、それに自分たちで書いた簡単な指南書。
それは、大きな都市を揺るがすような革命ではない。
けれど、その中に詰まっているのは、確かな「ふたりの意思」と「ふたりの力」だった。
何も変えられないと思っていたふたりが、いまは静かに、誰かの背中を押していた。