第七章:扉の向こうに、小さな変化
春の終わり、リンダリー村には年に一度の「開市」の季節がやってきた。村を囲む石壁の門が開かれ、街の商人たちが貨物を運び入れてくる。エルラの家も例外ではなく、父が仕入れた布や香草を分ける準備で忙しかった。
けれどその年、エルラは地下倉にこもってはいなかった。
「あなた、字が書けるのよね?」
「北方の文だが、いちおうな」
「なら、これも読めるかしら」
エルラは帳簿を差し出した。父が書いた古い取引記録だったが、数字は乱れており、合計も怪しかった。ラーグは目を細め、それを指でなぞった。
「ここ、間違ってる。計算が逆だ」
「やっぱり……ねえ、手伝ってもらってもいい?」
ラーグはうなずいた。
その日から、ラーグは地下倉から地上へと出てきて、エルラと共に店の帳簿整理をはじめた。家族には「旅の書士」と名乗った。最初は疑われたが、父親は数字が合っていくのを見て、何も言わなくなった。
数日も経たぬうちに、噂が広がった。
「あそこの店は、値が安定してる」
「帳簿の見方が変わったらしい」
「なんでも北から来た旅人が――」
村の中で、ラーグの存在はまだ「名前のない誰か」だった。それでも、「村の外から来た者」が、誰も怒鳴らず、争わず、役に立っていることは事実だった。
そして、エルラも変わっていった。
彼女はこれまで、森に入るか家に閉じこもるか、どちらかの存在だった。けれど今、彼女は市場に出ていた。香草を束ね、小瓶に詰め、売り方を説明する声は、自信に満ちていた。
「これは、痛み止めとしても使えるの。水に薄めて飲んでね。…あなたの息子さん、腕を痛めてたでしょう?」
「どうして分かったんだい?」
「指の動かし方で。ほら、私の知り合いにも同じ傷があるの」
エルラはそう言って、ラーグをちらりと見た。彼は香草をまとめながら、苦笑して首をすくめた。
ふたりの連携は自然だった。ラーグの観察力と記憶力。エルラの直感と話し方。片方だけでは届かない領域に、ふたりが揃うことで、ゆっくりと手が届いていった。
ある晩、街の薬屋がエルラの店を訪ねてきた。
「この保存法、どこで習ったんだ?」
「彼が教えてくれたの。北方の技法なんだって」
「北の? あの辺は毒草と魔女しかいないって聞いたぞ」
「偏見よ。でもね、その“毒草”も、扱い方次第で薬になるの」
薬屋は目を見開き、やがて低くうなった。
「教えてくれんか。その技法」
ラーグは少し戸惑ったが、エルラがそっと背中を押した。彼はうなずき、保存法を簡単に説明した。草の乾燥と煮出しの手順、風の通し方、湿度管理。
それは、長い旅と経験の中で身につけた実地の知識だった。書物に書かれたものではない。それが、街の職人には新鮮だった。
「ふむ……まさかホビットの村で、こんな話が聞けるとはな」
「それが、よかったのかもしれません」
エルラの声には確信があった。
「私たちは、閉じていた。でも、外から誰かを迎えたことで、扉が開いたんです。少しずつですけど」
街の者は静かにうなずき、こう言った。
「……この村、変わるかもしれんな」
そして去っていった。
夜、ラーグとエルラは丘に登った。
「私たち、何かを動かしてるのかしら」
「風か、水車の羽くらいには」
「それでも、いいわ。水が流れれば、風が吹けば、きっと街にも届くもの」
ふたりは並んで座り、星空を見上げた。
声高な革命でも、大きな奇跡でもない。けれど確かに、ふたりの意思と力は、村という静かな湖に石を投げ入れていた。
小さな波紋は、遠くへ、そして深くへ。




