第六章:知られてしまうということ
ふたりが丘を下りたのは、太陽がまだ低い位置にあるうちだった。村はようやく朝を迎え、煙突から白い煙が立ちのぼりはじめていた。誰にも気づかれぬよう裏手の道を選んだが、エルラの胸はざわついていた。
「見られてたかも…」
「それでも、戻るしかないだろう」
ラーグはそう言って、フードを深くかぶりなおした。彼の目は真っ直ぐだった。逃げ道ではなく、正面から戻ることを選んだ瞳。ほんの数日前まで、そんな顔は彼の中になかったはずだった。
家の扉を開けると、どこか妙な気配があった。室内は整っており、何も荒らされていない。だが、違和感があった。エルラは地下倉へ続く床の板をゆっくり開けた。
「……誰か、入った?」
ラーグがささやいた。エルラは一度、無言でうなずいた。
毛布がずれている。ランプの位置が微かに違う。棚に積んでいた空の壺が、逆さになっていた。
「確かに、誰か見た」
「村の者が?」
「ええ。でも、誰が…」
言いかけたとき、扉が硬い音を立ててノックされた。
コン、コン、間を置いてもう一度。ふたりは息を止め、顔を見合わせた。
「出る」
「待って、私が――」
「もう隠れる気はない」
ラーグの声は小さく、だが迷いがなかった。彼は扉を開けた。
そこに立っていたのは、エルラの幼なじみの少年だった。ノラド。木工職人の家の息子で、いつも笑顔を絶やさない男だったが、その顔はこわばっていた。
「……いたのか。やっぱり、人間を匿ってたんだな」
「ノラド……」
エルラは一歩前に出た。ノラドの視線は、彼女ではなくラーグをまっすぐに見ていた。
「村の掟に背いてまで、なぜこんな――」
「彼を助けたの。見捨てられなかったのよ」
「エルラ、お前は優しい。でもこれは、ただの優しさじゃ済まない。あいつらは、俺たちと違う。村の者が傷つけられたこと、忘れたのか?」
「彼は、誰も傷つけてない」
「でも、いつかは――!」
その瞬間、ラーグが一歩前に出た。ノラドの目が鋭くなる。
「俺が出ていく。掟を破ったのは彼女じゃない、俺だ。村に迷惑をかけるつもりはない」
「違う!」
エルラが声を張った。ノラドが驚いた顔で彼女を見た。
「逃げるのは、もう違うの。黙っていた私も、同じだけ掟を破ってる。でもね、それが間違ってたって、はっきり思えるの」
彼女の言葉は、まるで静かな風の中に、切っ先を持った剣のようだった。やさしく、でも刺さる。
「私は……もう、怖くない。彼を守ることを、間違いだなんて思わない」
ノラドはしばらく黙っていた。風の音だけが扉のすき間から吹き込み、乾いた木の床を揺らした。
やがて彼は一歩引き、ため息をついた。
「俺は……村に報せない。だが、隠し続けるのは限界だ」
「分かってる。でも、ありがとう」
エルラは微笑んだ。ノラドは何も言わず、振り返って去っていった。
扉が閉まったあと、ラーグがそっと言った。
「君が、俺を庇った。危険を承知で」
「私は、自分を守ったの。あなたがいなくなることの方が怖かったから」
ラーグは彼女の手をとった。その手は小さくて、冷たかったが、震えてはいなかった。
「お前の勇気に、支えられてるのは俺の方だ」
「違う。ふたりで分けてるの。勇気は、誰かに手渡せるものよ」
ふたりは再び地下倉へ降りていった。もうそこは、ただの隠れ場所ではなかった。ふたりが生きる決意を分かち合った、最初の居場所になりつつあった。
けれど、エルラもラーグも分かっていた。
長くは、隠れていられない。
けれどそれでも。
いまはまだ、恐れより、心のほうが少しだけ強くなっていた。




