第五章:朝焼けの丘と、胸の痛み
空がまだ青黒い頃、ふたりは家を抜け出した。村は静まり返り、石の小道にも霧が薄くかかっている。エルラは赤いマントを肩にかけ、ラーグには祖母が使っていた茶色のフードを貸していた。
誰にも見つからぬよう、村の裏手から丘へと登った。草の露が靴を濡らし、吐く息が白くほどけた。無言のまま歩くうちに、ふたりの足音は自然と揃っていった。
やがて丘の上へ辿り着くと、東の空がうっすらと赤く染まりはじめていた。雲はまだ眠るように低く垂れ、空の端から光がにじみ出している。
「ここなの」
エルラは草の上に腰を下ろし、マントの裾を広げてラーグの隣に場所を空けた。ラーグもゆっくりと座り、静かに息をついた。
「きれいだな…」
「ね。何かを失ったときだけ、こういう風景が目にしみるって、昔、母が言ってたの」
ラーグはその言葉を聞いて、目を細めた。
「俺は失うのが怖くて、何も持たないようにしてきた」
「それは、怖いから?」
「そうだ」
ラーグははっきり言った。肩をかばいながら、朝焼けに照らされた自分の手を見つめた。
「戦場では、仲間が倒れるのを見ても、自分に言い聞かせる。“平気だ”、“こんなものだ”、“失っても、仕方ない”って。でも……」
言葉が途切れた。エルラは彼の横顔を見つめ、そっと問いかけた。
「でも?」
「君を見ていて、違うと分かった。怖いから、持とうとしなかった。つながることも、心を向けることも。それが勇気だと思ってた。でも、そうじゃなかった。…俺はただ、臆病だっただけだ」
エルラは風の音を聞いていた。その風は、山を越え、森を渡ってきたはずだったが、どこか柔らかく、やさしい音だった。
「私もね、似てる」
彼女はぽつりと言った。
「失っても平気。そう思うようにしてたの。誰かと深くかかわれば、きっと離れてしまうから。それなら、最初から独りでいいって。でも今は――あなたがいなくなることを考えると、胸が苦しくなる」
ラーグがゆっくりと顔を向けた。朝日がその瞳に反射し、琥珀のように光った。
「じゃあ、どうする?」
「怖いけど……ちゃんと怖がるわ。そして、ちゃんと大事にする」
彼女の手が、そっと草の上に伸びた。迷いのない動きではなかった。それでも、その手は震えながらも、しっかりとそこにあった。
ラーグは迷わず、その手をとった。
「なら、俺も」
握り返した手は、傷ついて硬く、けれど温かかった。言葉の代わりに、掌から掌へ伝わる何かがあった。過去を耐える力ではなく、これからを信じるための、小さな勇気。
陽が顔を出した。丘の下の畑に光が射し、霧がすっと消えていった。ふたりは並んで座り、しばらく何も言わず、ただその朝を見つめていた。
世界は変わっていなかったが、ふたりの心は確かに、昨日とは違っていた。