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第四章:あたたかな間

家の地下倉に並ぶ樽の間に、小さな布の敷物が敷かれていた。古びたランプが低く光を放ち、ほのかな明かりが石の壁に波のような影を描いていた。床の上には、エルラが用意した木の皿に、温かい野菜の煮込みと薄焼きのパンが並んでいた。


ラーグは、慣れない手つきでスプーンを握っていた。彼の肩はまだぎこちなく、時折顔をしかめるが、それでも口元は緩んでいた。


「…美味い」


それだけ言って、また一口をすくった。エルラはその様子を少し離れた場所から見ていた。土色の毛布に包まれ、足首をかばって静かに座っている。ふたりの間には、ほんのひとつ分の距離しかなかった。


「ホビット料理って、もっと甘ったるいと思ってた?」


「正直、干しイチジクを詰めた何かが出てくるかと」


「出そうか?」


「いや、今はこのままで…十分だ」


ラーグは照れたように目を伏せた。エルラは笑い、少し身を乗り出して、ランプの芯を調整した。炎が揺れ、部屋がふたたび柔らかく包まれた。


「私、あんまり人と食事をしないの」


「友達はいないのか?」


「いるわ。でも……どこか距離があるの。みんな、決まった通りに暮らしてる。誰も間違えない。誰も迷わない」


「君は?」


「私は……よく迷う」


彼女はそう言って、指先でパンの欠片をくるくる回した。


「森に入るときも。道を外れるのが怖い反面、心が静かになるの。誰もいない場所に、自分だけの音があるって、分かる?」


ラーグは静かにうなずいた。彼の背には、戦や火薬の音が染みついていた。だが今はそのどれも聞こえない。エルラの言う「静けさ」に、彼は確かに触れていた。


「ここに来て、変な気分だ」


「変な?」


「ずっと、誰かに追われていた。目的があった。でも今は、怪我をしたせいで止まってしまった。でも……君がいるから、止まっていても、焦らなくなった」


その言葉に、エルラの胸がかすかに熱くなった。理由は、まだ分からなかった。ただその一言が、柔らかく胸に残った。


「私も似てる。ずっと自分の中で何かをこらえていたの。でもあなたが来てから、少し、こぼれるようになった。言葉も、気持ちも」


沈黙が、ふたりの間をまた埋めた。けれどそれは気まずさではなく、安心の沈黙だった。必要以上に語らずとも、互いの呼吸がわかる、そんな時間。


ラーグはゆっくりと食器を横に置き、視線を上げた。エルラと目が合った。彼女の瞳は月の水面のように、静かで、でも深く揺れていた。


「君に出会うまでは……ホビットは閉じた民だと思っていた。俺たちと交わることはない、頑なな連中だと。だけど今、それが嘘だったって思える」


「それは、あなたが扉を開けたからよ」


「いや……君が最初に開けてくれた」


ラーグの声は低かったが、その響きは地下倉の中を満たすように強かった。エルラは顔を赤らめ、視線を落とした。自分の胸の奥に芽生えたものが、もう後戻りできないほど形をとり始めていることに気づいていた。


やがて、彼女はそっと立ち上がった。足首の痛みは残っていたが、心のほうがそれを忘れさせてくれた。


「明日は、外に出てみない?」


「村に?」


「夜明け前なら、誰にも見られないわ。丘の上から見る朝焼けは、とても静か。…あなたにも見せたいの」


ラーグは一瞬ためらったが、ゆっくりと立ち上がった。肩に痛みが走ったが、顔には笑みが浮かんでいた。


「じゃあ、明日はふたりで迷おう」


エルラは微笑んだ。


「ええ、ふたりで」


そしてその夜、ホビットの娘と人間の男は、火の灯る小さな地下倉で、初めてひとつの時間を、同じぬくもりで包まれながら過ごした。


それは、かつて種族の違いが引き裂いてきた世界の中で、ごく小さく、けれど確かに尊い、信頼と情の芽生えだった。



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