第二章:地下倉の秘密と名もなき男
エルラの家は村はずれの丘の上にあり、他の家々から少し離れていた。古い石造りの丸屋根の家で、祖母が残した地下倉には、昔のワイン樽や保存食、それにもう使われなくなったランプや織物が眠っていた。
その静かな闇の中に、今、人間の男が横たわっていた。
「まだ熱はあるわね」
エルラは額に手を当て、湿らせた布を取り替えた。男の呼吸は浅く、汗をかいていた。けれど、意識はしっかりしてきていた。
「…君は、どうして俺を…」
「助けたのかって? 理由なんて、必要?」
エルラは小さく笑ったが、男の顔は真剣だった。彼は少し体を起こし、壁にもたれた。
「君の種族では、俺のような人間を憎んでいるはずだ」
「そうね、そう教わった。けど…」
彼女は薪をくべて火を調整しながら、少し間を置いて続けた。
「見ず知らずの誰かを助けるかどうか、私の心で決めたいの」
沈黙が落ちた。火がぱちぱちと鳴る音だけが、地下の石壁に反響した。
「名前、教えてくれない?」
「……ラーグ。ラーグ・ハルト」
「ラーグ。変わった名前ね。北方の?」
ラーグはこくりとうなずいた。目を伏せ、何かを思い出しているようだった。
「追われていたの。誰かに?」
「……盗賊のふりをして森を越えていた。だが、すぐに気づかれた」
「スパイ?」
「いや。俺は――…」
ラーグは言いかけて口を閉じた。エルラは無理に続きを促さなかった。誰にでも言えない事情がある。それはホビットも人間も同じだ。
「いいわ。無理に聞かない」
そう言って、彼女はスープの鍋に手を伸ばした。地下倉に香草の匂いが広がる。
「でも、あなたが危ない目にあったのは分かった。だから、しばらくここにいればいいわ。傷が癒えるまで、誰にも言わない」
ラーグはじっと彼女を見た。疑念も、戸惑いも、感謝も入り混じった視線だった。
「君は、変わってる」
「よく言われる」
「危険を承知で、俺をかくまってる。普通じゃない」
「普通なんて、退屈でしょう?」
そのとき、外の扉が軋む音がした。誰かが家の前を通ったのだ。エルラは素早くランプの火を小さくし、ラーグに指を立てた。
「静かに。村の者かもしれない」
ラーグは息を止め、身をこわばらせた。エルラは階段をそっと上がり、家の中を確認した。だが幸い、誰かが通っただけだったようで、石畳の足音は遠ざかっていった。
彼女は深く息を吐き、地下に戻ってきた。
「ごめんなさい。やっぱり、村にあんまり長くはいられないかもね」
ラーグは彼女を見上げた。
「君が危険になる。俺のせいで」
「そうね。でも、もう選んだことだから」
彼女はそう言って、小さな銀の匙でスープをかき混ぜた。その手の中にあったのは、村の外に向かって少しずつ開きはじめた、未知の扉だった。